15. 二人、テレビ、義経

 耳障りな騒音が、部屋に響き渡る。


 心地よい微睡みから暴力的に現実へ引き戻そうとするその音に、私の手は反射的に伸びる。その間も不快な音は止まらない。枕元のスマホを取り、乱暴に画面を操作すると、ようやく部屋の中は静まり返った。


 長く続いた戦争がようやく終結したような安心感と、多幸感が身体を満たす。全身の筋肉が弛緩し始め、再び心地の良い眠気の川へ身を任せた。


「ねえ、起きなよ」


 私の身体が無造作に揺すられ、のんびりと流れていたはずの眠気の川は大きく曲がりくねる。一度は終結したはずの戦火が、また新たな方面から燻り始めたような、不穏な雰囲気が全身を満たした。


「今日は予定があるでしょ」

 私の頭に印象的な赤いネクタイが思い浮かぶ。


「迎えまで、そんなに余裕ないよ」

 ビジネスパートナーを待たせるのは一般的に非常識な行動に分類されるはずだ。


 全身に力を込め、自らを奮い立たせる。

 頑張れ、頑張れ、私。


 数年前の私がこの眠気に抗い、毎日朝早くに起きていたことが、もはや信じられない。永遠に開くことがないのではないのかとも思えた瞼がようやく開き、私の脳に視覚情報が流れ込む。


「おはよう」

 無機質な蛍光灯を背後に、ぼやけた小前田ちゃんが微笑んだ。


 二人暮らしの最も不便な点は、心地よい二度寝をした時に無理矢理起こす人がいることだと、私は思う。

 



 カーテンの向こうでは、すでに陽は落ちており、街灯が灯っている。耳をすませば、今日一日の終わりを労う歓声が聞こえてくるような気がした。近くの居酒屋では会社帰りのサラリーマンたちが一日の疲労をアルコールで洗い流しているだろう。

 テレビからリポーターが無機質な声で明日の天気を伝えている。


「醤油、かけすぎじゃない?」


 小前田ちゃんはまだ湯気が立っているお椀から口を離すと、私の手元にある小皿をじっと見つめる。そこに乗っている目玉焼きとハムは黒々とした池に浸かっている。このくらいしょっぱい方が私の好みだ。


「あんまり、味濃いもの食べすぎるとさ。塩分過多になって早死にしちゃうよ」

 こちらを窘めるような口調に私は吹き出しそうになる。


「確かに、早死には困るかも」

 全身をナイフで滅多刺しにされても、内臓を何度も取り出しても、何百年経っても死なない不老不死が、塩分過多で死なないという保証はどこにもない。


 私は黒々とした池からハムを救出し、そのまま口に運ぶ。目覚めるような刺激が舌をつつく。


 いつの間にか、テレビの天気予報は終わっていたらしく、無愛想なリポーターは画面から姿を消していた。その代わりに、壮大な音楽とともに、どこかの国の広大な平野が映し出されていた。きっと、ドキュメンタリー番組か何かだろう。


「今回は何の用事だろうね」

 小前田ちゃんがぼうっとテレビを眺めながら口を開く。


 私たちに新しい戸籍やら、住処やら、必要な情報やらを適正な価格で取引してくれる業者は、ごく稀に向こうから仕事を提示してくることがある。


「私たちも暇じゃないんだけどね」

「いや」小前田ちゃんが笑いながらこちらを指をさす。「暇でしょ」


 テレビから聞こえていた壮大な音楽は途切れ、低い響きのナレーションが流れ始める。


「今日は天体観測でもしようと思ってたのに」

 小前田ちゃんは「えー」と嬉しそうな声を上げ「いいね」と親指を立てる。「サボっちゃおうか」とも続けた。


 テレビでは壮大な平原の風景から、厳かな雰囲気に包まれたスタジオへと、映像が移り変わっている。

 その画面を見て「あ」と思わず声を出した。小前田ちゃんも私の視線を追ったのか「うそ」と目を丸くしている。


 薄暗いスタジオでは、恰幅の良い司会者の男性が滔々と口をまわしている。まるでここは自分の独壇場だとでも言いたげな自信を感じさせた。

 その横には端正な顔立ちの女性アナウンサーが司会者の話に相槌を打ちながら笑顔を浮かべている。その張り付いたような笑顔から思考は読み取れない。もしかしたら、何も考えていないのかもしれない。


 本日は大草原が広がるモンゴル特集ということで、ゲストにこの方をお呼びしております。そんな司会者の言葉に合わせて、カメラが切り替わる。


 画面に映し出されたのは、メガネをかけた男性の姿だ。


 その姿を見て、私たちは互いに箸の動きを止めていた。この部屋の中だけ、時間が止まったかのようだった。いや、もしかしたら、本当に止まっていたのかもしれない。


 『ILOVE不老不死』

 そんな文字を見た私は、それほどの驚きを受けていた。

 



「ねえ」小前田ちゃんはテレビに顔を向けたまま、固まっている。「あれって」


「うん」私も小前田ちゃんの言葉を耳にしながら、テレビに釘付けになっていた。それはテレビを熱心に視聴しているというよりも、混乱と驚きの中で、頭を整理するために視線を一箇所に固定しているだけだ。


 モンゴル旅行中に、チンギスハンの、歴史的にも、素晴らしい。

 司会者が感心した様子でそんなことを言っているのが、断片的ではあるが耳に流れ込んでくる。


『実際に発見したのは、妻ですけど』

 その男性は慌てた様子で、誤解を恐れるというよりも、何かに許しを乞うに訂正した。


『妻ってことはもしかして、新婚旅行ですか』

 その司会者の言葉には人生の後輩を見守るような妙な優しさが込められているように感じられた。きっと下世話な冗談で言ったわけではないのだろう。


『ええ、まあ』

 男性はわずかに顔を紅潮させながら、首肯する。

『初々しくて、良いですねえ』司会者が快活に笑う。


「絶対、そうだよ」

 私の言葉に、小前田ちゃんも頷く。


『それにしても、新婚旅行でモンゴルとは渋いですね』

『実は昔から、源義経が大好きで』

『源義経?』台本に書いてあるであろうことを、司会者は白々しく聞き返す。

『はい』


『その源義経がチンギスハンだったかもしれない、って説があって』

『ああ、聞いたことがあります』女性アナウンサーが口を挟む。『死んだはずの源義経が実はモンゴルに渡って、チンギスハンになったって話ですよね』


『それはとんでもない話ですねぇ』

『ほとんど眉唾で、ほとんど信じられてない説ですけど』男性の言葉には自らの欠点を認めるような恥ずかしさが滲んでいる。


『それで、新婚旅行でモンゴルに』

『昔からの夢だったので、せっかく旅行に行くなら、と』

『良いですねえ』司会者は旅行自体を羨むというよりも、男性の若さを羨んでいるようだった。


『今回の発見が、その説を立証するかもしれないってことですよね』女性アナウンサーが話の脱線を恐れたのか、進路を修正する。


『そうですね』男性はそう言った後で『その可能性があるってだけですけど』と慌てて付け加えた。


 お椀から立ち上っていた湯気は、いつの間にか消えていた。

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