13. 夢、夜、朝

 

 私たちは互いに少し息を切らせながら、木々に囲まれた坂道を登っている。


 すでに足は痛み始めていて、全身は汗ばんでいる。手に持ったライトは私たちが歩いている暗い道を頼りなく照らしている。地面に落ちている枝や草が私たちが歩を進める度に、乾いた声をあげた。


「あと、もう少しだよ」

 その言葉を聞いて、ああ、もう少しなのだな、と素直に納得する自分と、何が、もう少しなのか、と冷静に疑問符を掲げる自分がいた。


「頑張ろう」

 彼女に促されるまま、私はぼんやりと地面を踏みしめていく。

 そうして、しばらく歩いているうちに、土と同化しつつあるような木の階段が目に入った。


「これを登り切ったら、到着」

 彼女は今までの疲労をどこかで忘れてきたような軽い足取りで階段を跳ねるように上がっていく。私も置いていかれないように、それを必死に追っていた。


 額から汗が流れ落ちる。いくら足を進めても、階段の終わりは見えてこない。肩で息をする私を尻目に、彼女は落ち着いた口調で話し始めた。


「ずっと、星空ほど綺麗なものは他にないんだって思ってた」

 私の息遣いが彼女の言葉をかき消すように激しくなっていく。


「星がない世界なんて、価値もない。星を消しちゃうものなんて、全部消えちゃえばいい。そう、思ってたんだよね」


「でも、もしかしたら」

 彼女がその先を続けようとしたところで、次の段にかけるつもりだった足が空振り、転びそうになる。いつの間にか、無限に続くとも思えた階段は終わり、小さな空き地のような場所に出ていた。


 そこは草木に囲まれ、鬱屈としていた今までの道とは違い、不思議と視界が開けていた。


「ここが、てっぺんかあ」

 間延びした彼女の声を聞いて、今まで歩いてきた道が山道で、ここが山の頂上なのだと気がついた。視界の端には風化しつつある古いベンチが一つ映っている。


 しかし、そんなことよりも、私の目は自然と別のものに引き寄せられていた。

 満天の星々だ。街中で見る星空とはまるで違う。山の頂上から見る星空は、私が子供の頃に見たものと引けを取らないほど、美しい。


 この星空には、きっと世界中の宝石を空に浮かべたとしても、到底敵わないだろう。


 そうだ、彼女は気づいただろうか、そう思った。彼女は星が好きだから、きっとこの星空を見れば、とても喜ぶに違いない、そう思ったのだ。


「ねえ」

 しかし、彼女はすでに全く別の方向を向いていた。いつの間にか白んでいた東の空を見つめている。


「夜明けだよ」

 彼女がそう言うのと同時に、東の空から明るい光が顔を出す。今まで見たこともないほど輝かしいその光には世界中の街灯や、ネオンサインが束になったとしても、到底敵わないだろう。その明かりから逃げるように星空も姿を消す。


「もしかしたら」彼女の声は暖かい陽光に溶け込むように響いた。


「もしかしたら、星だけじゃないのかもね」

 



 暗い部屋に目覚まし時計が高らかに鳴り、私は目を覚ました。

 リサイクルショップで安く買った時計が二周するぐらいは寝られたようだった。開いている窓から、夜明け前の涼しい風が流れ込んでくる。


 ぼやけた頭で、寝ている間に見た曖昧な光景を思い返す。

 ただの夢だったのだろう。何度もそう思い込もうと努力するが、結局彼女の横顔がフラッシュバックして上手くいかない。


『もしあの日、晴れていたら、そうなっていたのでないか』

 そんな声が聞こえてくるようだった。

 彼女に誘われて山に登ったあの日、日の出を見ることが出来ていたとしたら、彼女はどう思っただろうか。


 答えが出ないことに頭を悩ませるのは、私らしくないと思うが、それに反抗する私も確かに存在した。

 それと同じように、彼女には太陽の方を向いて欲しいと思う私も、どこかにいたし、ずっと星を見ていて欲しいと願う私も確かに、いた。

 



 まだ、身体には昨日の疲労が残っていたが、のんびりもしてられない。


 私は身体に鞭を打って、ベッドから這い出ると、すぐに引越しの準備を始めた。開いていた窓を閉め、戸締りを確認する。ガスや、水道の元栓も閉める。ブレイカーを落として、ありとあらゆるコンセントも抜いた。


 時計を見ると、予定よりも少し早かったが、私は大きなリュックの口を閉じ、それを背負う。部屋全体を見回し、深呼吸をする。


 これで、この部屋ともお別れだ。


「ノーエイジング、ノーデッド」

 そう呟いた時、なんとなく違和感を覚えた。食べ慣れた朝食に、余計な一品がいつの間にか加えられているような、そんな違和感だ。


 もう一度、部屋全体を順番に見回していく。

 冷蔵庫、レンジ、ベッド、窓、本棚。


 ああ、ここだ。


 『夜空の星の正体は』

 そう背表紙に書かれた本が、使わない教科書の隣にぽつんと収められている。


 目元が熱くなっていくのを感じる。彼女との思い出が怒涛のように押し寄せ、それが頬を伝い、流れ出ていっているような気がして、私は顔をごしごしと拭う。

 

 




 

 幸い、空は晴れていた。


 東の空の様子を見て、私は足を早める。

 傾斜のキツい道を、重いリュックを背負いながら登るのは、普段運動をあまりしない私からすれば、なかなかに辛いものであったが、今更足を止めるわけにもいかない。


 朝露で足を滑らせないように、気をつけながら重い足取りを進めていく。鳥も目を覚まし始めたのか、あちこちから囀りが聞こえてくる。ポケットのスマホを覗くと、すでに圏外になっていた。


 以前歩いた時よりも、この道を長く感じるのは、ダラダラとくだらない話をする友達が隣にいないからだろうか。


「坂、急すぎだよ」不満げにそう言う彼女の姿を思い出す。


 息は切れ、足が痛み始めた頃に、土と同化しつつある木の階段が目の前に現れた。

 当然だが、前回登った時と何も変わっていない。この階段は頂上が近いことを示す目印で、これを登り切れば、半ば風化したベンチが置かれている頂上にたどり着くはずだ。


 私はペットボトルに入った水を勢いよく飲み干すと、階段に足をかける。ひどく脆くなっているこの階段は、私が次の段に足をかけるごとに少しずつ崩れていく。それも気にせず、私は一歩、一歩踏みしめるように進んでいく。


 私が最後の一段を登りきり、頂上にたどり着いた頃、まだ空は夜の闇に覆われていた。思っていたよりも早く着いてしまったようだ。


 頼りないライトで照らしながら、辺りを見回す。頂上付近だけは木が少なく、日が昇れば、周りの山の様子も見渡すことができるだろう。私は全身の疲労感に導かれるまま、朽ちかけているベンチに背を預ける。

 それと同時にまだ暗い空が目に入った。夢で見たよりもかなり寂しいが、小さな星々は確かに息づいている。


 しかし日が昇れば、この暗い空も、小さな星々も、消えていく。


 きっと、彼女もこの先の短い人生で気がつくだろう。この世で美しいのは星だけではない。朝日も、夕日も、雨雲も、人間が作り出した街の夜景も、全て美しいに違いないのだ。


 もうすぐ、星が支配する夜は明け、輝かしい太陽が登ってくる。

 



 最初は幻聴かとも思った。


 今回の生活はかなり充実したものであったから、やはり、別れの寂しさも私の精神を蝕むほどのものになったのだろうと、そう思った。

 

しかし、何度耳を澄ませても、その「おーい」という間の抜けた声は聞こえてくるので、私の心臓は期待と不安で、永い人生の中で一番といえるほど活動的になっていた。


「あ、やっぱりいた」


 私が先ほど登った階段からひょっこりと顔を出したのは、間違いなく彼女だ。

 

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