12. ハム、光害、星の光
「結構、しょっぱいね」ハムを一口齧った後、小前田ちゃんが麦茶を一気に飲み干す。
「そう? 私はこれぐらいが好きだけど」
二人で何度も外食には出掛けたが、手料理を振る舞うのも、振る舞われるのも、互いに初めてだった。
手料理といっても、おかずはハムと卵を焼いただけだし、ご飯はレンジで温めるだけだが。普段食べているものを、普段食べている場所で、小前田ちゃんに振る舞うのは少々恥ずかしいような気もした。
きっと、二人でゆっくり話すのはこれで最後になる。
そんなことを互いに思ったのかもしれない、時計の針の音が聞こえるほど、静かだった部屋に、二人の「そういえば」という言葉が同時に響く。
私が何事もなかったように口にハムを放り込み、咀嚼を続けると、小前田ちゃんはそのまま話し始めた。
「私って、中学の頃、学校行ってなかったんだよね」
私は黙って、小前田ちゃんの話に耳を傾ける。
彼女は時々、ハムをつまみながら、ゆっくりと語った。
昔から周囲の言う普通と、自分の感じる普通との間に大きなズレがあったこと。
そのズレが嫌になって一年生の冬ごろから学校に行かなくなったこと。
ただ、このままではダメだと思い、遅れを取り戻すように、猛勉強して高校に進学し、実家から遠く離れたこの街で全部やり直そうと思ったこと。
「ここなら、昔の私を知る人もいない。ここで一回、復活をしようと思ったの」
「復活を」その言葉の強い響きに、思わず繰り返す。
「そう、復活を」小前田ちゃんは笑う。
「今までのズレを直して、みんなに馴染むように気を付けながら、頑張ってみようって、そう思ったんだよね」
その言葉を聞いて、最初に小前田ちゃんを見た時のことを思い出した。
ずいぶん、つまらない人だな、そう思った。周囲に合わせて引き攣った笑みを浮かべる彼女が、クラスの誰よりも、私にはくすんで見えた。
「でも結局、不登校だったことはバレちゃうし、今となっては友達もほとんどいないし、復活は失敗だよ」
冗談めかしてそう言う小前田ちゃんを見て、私も笑う。
「まあ、最初の小前田ちゃんより、今の小前田ちゃんの方がずっと素敵だよ」
私の言葉を聞いて、小前田ちゃんはどこか別の場所を見るように遠くへ目をやる。
「……きっと、私が素敵になれたのも、あの時がきっかけだよ」
「ねえ」小前田ちゃんがじっと私の目を見ながら、言う。
「あの時の、私を庇ってくれた時の言葉ってさ」
小前田ちゃんの顔を見て、春の陽光が差す教室が思い浮かんだ、皆に囲まれながら寂しそうに笑う彼女の姿が。
「きっと、クラスのみんなに言ってたわけじゃなくて、私に言ってくれてたんだよね。いつまで、つまんないことしてるのって、人はいつか死ぬんだから、ちゃんと生きなよって」
こちらを見つめる小前田ちゃんの目を見つめ返しながら、口を開く。
「それは」私は続ける。
「考えすぎかも」
小前田ちゃんは目を瞬かせ「えー」と残念そうに声を上げながら、素敵な笑顔を浮かべた。
「で、そっちはどうなの?」
私の言葉に小前田ちゃんは首を傾げる。
「そっち、とは」
「多田さんから私を庇ってくれたのは、なんで?」私は続ける。「漫画を読んで、っていうのは嘘でしょ」
小前田ちゃんは「あー」と声を出しながら頭を掻く。
「別に嘘ってわけじゃないんだけど、漫画も本当に読んだし、憧れてるよ」
小前田ちゃんは頭を捻りながら、困ったように言う。
「でも確かに、別の理由があった気がしなくもない」
「自分でもわからないんだ」私がそう言うと、小前田ちゃんは頷く。「咄嗟の行動だったから」
「恩返しとか? 私が昔庇って上げたやつの恩返し」
小前田ちゃんは「うーん」と唸りながら、視線を宙に彷徨わせる。これは小前田ちゃんが考え事をする時の癖だ。その姿は夜空に浮かぶ星を結び、新たな星座を作る天文学者によく似ている。
小前田ちゃんが唸っている様子を眺めながら、私は冷蔵庫に残っていた牛乳を消費していた。それから少しして「そっか」と納得したように言う小前田ちゃんを見て、私はコップをテーブルの上に置いた。
「わかった?」
「うん」
そう言う小前田ちゃんはどこか清々しい表情を浮かべている。
「多分ね」
続く小前田ちゃんの言葉に、私はじっと耳を傾ける。
「我慢できなかったんだと思う」
「我慢?」
「そう、我慢」小前田ちゃんが頷く。
「品のないネオンサインに、綺麗な星の光を消されることが」
小前田ちゃんはそう言うと、私の顔を見て、微笑む。
「私にとって、多田さんは光害だったのかも」
私が食器を片付け、部屋に戻ってくると、小前田ちゃんはすでにリュックを背負って、荷物をまとめていた。
「もう行くの?」
私がそう尋ねると、小前田ちゃんは新しい方のスマホを私に見せる。そこには何件もの不在着信や、メッセージが表示されている。
「寮母さんから、めっちゃ連絡入ってたんだよね」
門限破ったの初めてだ、と言う小前田ちゃんの言葉を聞いて、リサイクルショップで安く買った時計を見ると、すでに時刻は日付を跨いでから一時間ほど経過していた。
「心配してるだろうね」
「怒られたくないから、こっそり戻るよ」
「どうせ、朝になったら怒られるのに」
私がそう指摘すると小前田ちゃんは不敵な笑みを浮かべた。「それはどうかな」
何を食べたら、小前田ちゃんのような根拠のない不思議な自信が湧いてくるのか、ずっと気になっていた。疑問をそのままぶつけると小前田ちゃんは「しょっぱいハムと目玉焼き」そう答える。
玄関まで見送りについていくと、「そこまでしなくていいのに」と笑った。きっと、これでお別れだから、そんな言葉を飲み込み、私は笑う。
「VIP待遇だから、小前田ちゃんは」
「えー、いいね」小前田ちゃんも笑う。
腰を屈め、靴を履いている小前田ちゃんを私はじっと見ていた。三年間、何も起きずに終わる学校生活も多く体験してきたが、ここでの生活はかなり多くの思い出を、私の中に残した。別れの辛さは、日々の楽しさの二乗に比例する、そんな言葉を聞いたことがあった。
確かに、その通りだ。
「それじゃ、また」小前田ちゃんがドアノブに手をかける。
彼女も、これで私とお別れだということはわかっているはずだ、それでも何も言わずにいつも通り振る舞うのは、彼女なりの気遣いなのだろう。
それに私も応えなければ、そう思えば思うほど、喉の奥につっかえた何かが溢れ出しそうになり、私は口を噤むことしかできない。
「あ、そうだ」
玄関の扉をくぐった小前田ちゃんはくるりと振り返ると、私の顔を見て、言った。
「やっぱり髪、綺麗だね」
玄関のドアが閉じる音を聞いても、私はしばらくそこに立っていた。
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