10. 不登校、平均寿命、一本背負投
「小前田さん、不登校だったって本当?」
心地よい陽光が差し込む中、そんな無神経な声が聞こえて、目が覚めた。少し冷たい風が、カーテンをはためかせる音とともに私の髪を撫でる。
いつの間にか、私は机に突っ伏していた。
まだぼんやりとした頭で、今の自分が置かれた状況を確かめる。私が突っ伏していた机は学校で使っているものだ。ということは確かめる間もなく、ここが学校の教室なのだということと、周囲のざわめきから今が休み時間なのだということまでわかった。
不老不死、暗い林道、通り魔、そんな不穏な言葉で表せるあの出来事は私が居眠りしている間に見た悪い夢だったのではないか。なんだ、それなら安心だと息を吐く。
しかし、辺りを見回すと、明らかに動揺した表情を浮かべる彼女と、その周りに群がるクラスメイトの姿が目に入った。
その瞬間、何か懐かしい感覚が頭に引っかかった。これはおそらく、既視感というやつだ。
どこかでこんなことがあったような、そんなことを考えるが、まだ頭がふらつき、まともに思考できない。記憶に霧がかかっているようだった。
「本当に不登校だったの?」
そうこうしているうちに無神経な声は質問を重ねる。目を見開いたまま、黙っている彼女に痺れを切らしたのかもしれない。
「ど、どこで聞いたの?」
ここで強気に、だからどうした、という態度で臨むか、あるいは一切の動揺を隠して、なんの話? とすっとぼけてしまえば、大事にならなかっただろう。
しかし、その過去は私が思っている以上に、彼女にとって触れられたくないものだったようだ。彼女は引き攣った笑みを浮かべ、その声は震えている。これ以上ないほど弱々しい態度だったし、明らかに動揺も隠しきれていなかった。
「本当なんだ」
クラスメイトの一人がそんな声を上げる。本人に悪意はないのかもしれないが、巨人の弱点を見つけたような高揚感に包まれているのかもしれない。周りもそれに呼応するように騒めく。
私はぼうっとその光景を眺めながら、頭を悩ませていた。
確かにこんなことが、以前にもあったはずだ。どこかから、ノックをするような音が頭に響き渡り、私の思考を乱す。
「何で学校行ってなかったの?」
先程と同じ無神経な声が、響く。
彼女を取り囲む人々の目には、暗い光が宿っているように見えた。獣が獲物を見つけた時に見せるような期待と興奮が混ざった、暗い光。人間もまた動物なのだから、こういった品のない獣としての側面も持っているものなのだろう。
その光景を見て、さらにノックの音が大きくなる。もはや、その音に邪魔され、周囲の音はほとんど聞こえない。耳を塞いでも、その音は私の内側のどこかから鳴っているようで、余計に激しくなるだけだ。思わず、その場にうずくまりそうになったが、一瞬だけ彼女の姿が目に映った。
獣に囲まれた彼女は、今にも泣きそうな顔をしている。
そんな光景を見て、私の口はごく自然と、勝手に動いた。
「あのさ」
その瞬間、ようやく記憶の霧が晴れ、ノックの音が止んだ。
「流石に失礼じゃない? そんなことを聞くなんてさ」
これはきっと、一年前の春に起きたことを追体験しているのだろう。
死ぬ直前に見る記憶の走馬灯は、今までの人生経験からその場を乗り切る方法を探しているのだと、聞いたことがあった。
おそらく、これもその走馬灯の一つなのだ。
そう気付いた瞬間、目の前の光景からリアリティが失われていくような気がした。視界の端からセピア色に塗れていき、出来の悪い喜劇を見ているような、そんな感覚に包まれる。
確か、入学して間もない当時の彼女は、端麗な容姿と、優しい振る舞いを周囲に評価されたのか、今でいう多田さんのようなクラスの憧れの対象だった。
実際に彼女はいつも笑顔を浮かべ、クラスメイトの話に頷き、同情や共感を表することがほとんどだった。人間は共感を求める生き物だから、彼女の周りに皆が集まるのも頷けた。それでいて、頼まれれば大抵のことは手伝う優しい側面も持ち合わせているのだから、非の打ち所がない。
しかし、その環境を快く思わない人も一定数いたようで、彼女の失脚を望み、様々な計略を巡らせていた。この騒動もその内の一人が広い情報網を使って、起こしたものだろう。
その後の展開を思えば、その一定数の中心人物は自ずとわかる気がしたが、今となってはどうでもいい。
「え、なに急に」無神経な声がこちらを向く。
クラス中が、私に注目している。彼女を囲んでいた人たちとは別の場所にいた人たちも不穏な空気を感じ取ったのか、私の様子をじっと窺っているようだった。
「現代日本人の平均寿命、知ってる?」
私は席を立って、その集団に近づいていく。一度経験したことを繰り返すのは、どこか不正を働いているような気もして、少し罪悪感を感じる。
「平均寿命?」
鼻白んだように無神経な声が続ける。「なに言ってんの?」
クラスの中心で孤立している彼女も、こちらを見たままぽかんと口を開けている。
「大体、八十七歳らしいよ。日本人の女性で」
クラス中から注がれる視線が変わっていくのを感じる。出る杭を排除しようとする排他的な目だ。思い返せばきっと、私の周りを覆う泡はこの時をきっかけに形成されたのだろう。
「もちろん、バラつきはあるけどさ。大体日本人って、平均するとこれぐらいまでしか生きられないんだよ。わかる?」
「そんなの」言われなくても、わかってる。
その言葉がこの後、そう続くことは私もわかっていた。
「わかってないよ、絶対。もし、わかってたら、こんなくだらないことをしてる暇はないって、気付くはずだから」
私は元々、彼女のことがあまり好きではなかった。
いつも周囲に合わせて引き攣った笑顔を貼り付けている彼女は人間というよりも、教室で繰り広げられる舞台を円滑に進めるための舞台装置に、私は見えた。
「いい? 平均寿命を超えたとしてもさ、あと百年もしたら大体の人は死ぬ。学校に行ってようが、行ってまいが。子供がいようが、いまいが。幸せだろうが、幸せじゃなかろうが、絶対死ぬ」
「時間って残酷だよ。こっちが泣いても、叫んでも、暴れても、駄々こねても容赦なんてしてくれない。絶対的な終わりがあるんだ」
「そう思ったらさ、こんなことしてる暇ないでしょ。もっと楽しいことしたり、好きなことしたり、笑ったりしなきゃ」
息を吸い、彼女を見る。今にも泣きそうな顔をしている小前田ちゃんを。
「もっと、ちゃんと生きなよ。不老不死じゃ、あるまいし」
クラス内の雰囲気が、いつの間にか変わっていることを感じる。
当然だ。クラス内の談話中に平均寿命がどうとか、死ぬだとか、そんな話を急にされたら、誰だった困惑する。私だってそうだ。
その時、ちょうどチャイムが鳴り、教室の扉が開いた。細身でメガネをかけた先生が入ってくる。
「不老不死って聞こえたんだけど、もしかして今、徐福の話してた?」
そんな声を聞いて、目を覚ます。
痛い。
その感覚が蘇り、安心する。どうやら私の身体にとって、痛みは必要不可欠な感覚に返り咲いたようだった。
「よしよし、大人しくしてろよ」
そう言う男の声と、荒い息遣い、それに合わせて女性の啜り泣くような声も聞こえる。
うつ伏せに倒れている私はゆっくりと立ち上がる。
全身がまだ少し痛むが、すぐによくなるだろう。地面に落ちた小枝や、落ち葉を踏む音が、妙に響いた。その音を聞いたのか、男はピタリと動きを止める。
地面に跪くようにしている男に私は後ろから声をかける。
「ねえ」
「こっち見なよ」
男の鼓動が、こちらまで伝わってくるような気がした。
「……なあ、幻聴か?」
「そう思う気持ちも、わかるけどね」
さっきまで聞こえていた男の息遣いは私の声を聞いてから、別の意味を持ち始めているようだった。興奮から恐怖に。その変遷が手に取るようにわかり、面白い。
「『不老不死の人間が生物学上の確率では5人いる』って知ってる?」
「おい、ちゃんと殺しただろ。嘘だろ」
男の声は震えている。こちらを見ようとはしない。
「探してるんだよね、あと四人。私以外の、不老不死」
私は背中の傷を撫でる。ぬるっとした液体で濡れている背中は触っても、もう痛まない。
「こっち、見なよ」
もう一度声をかけると、男は素早く立ち上がり、こちらを向く。
「何なんだよ、お前! くそ、くそ!」
一度殺されて、視界はより暗闇になれた様だった。男の恐怖に塗れた顔が、よく見える。
男の後ろで倒れている小前田ちゃんは気を失った様に動かない。
自分の心臓が強く跳ねたのがよくわかった。
男はナイフを高らかに掲げ、自らの力を誇示するように雄叫びを上げる。それは冷静さを失った動物が見せる、最たる行動に思えた。
高らかに掲げたナイフを振り下ろす男の動作は先ほど私たちを追い詰めた時とは違い、獲物を追う肉食獣というよりも、追い詰められた草食獣が最後に見せる抵抗を彷彿とさせた。窮鼠猫を噛む、というが、もはや男には噛むための牙すら、残っていないように見える。
ひどく緩慢な動きで振り下ろされるナイフを避け、そのまま男の腕を掴む。男の腕は冷え切っていた。私の血と脂で黒々と濡れたナイフが目につく。
私はもう片方の腕を相手の脇の下に入れ、肩を抱える。男の片腕を私が両腕抱えるような形になった。
その時、様々な感覚が蘇ってきた。
視界いっぱいに占める天井、
背中につく冷たい畳の感触、
大きな歓声と少しの笑い声、
一本、と叫ぶ体育教師の声、
ニヤニヤとしたあの子の顔、
そして、残念そうに笑う小前田ちゃんの顔。
男の身体の内に入り込み、自分の身体を反転させる。
「うお」と男の間抜けな声が聞こえたが、もう遅い。私が、自分の身体を丸めるように力を込め、男の足が地面から離れた時、小前田ちゃんの言葉が耳元で聞こえた様な気がした。
「その時は思いっきり、やっちゃってよ」
その時は、今だ。
小前田ちゃんを傷つけたこの男を、思いっきり投げ飛ばしてやりたい、そんな気分だ。
男の身体は私の背に乗り、そのまま天地が逆転したように回転する。
柔道の投技、手技十六本の一つ、一本背負投。私が永い、永い人生をかけて習得した技術の一つだ。
私が男を掴んだ手を離すと、男は地面に叩きつけられ、そのまま道の片側の斜面を転げ落ちていく。二十メートルほど転がったところで、男は大きな木に背を打ち、動かなくなった。死んでいるのか、生きているのか、遠目から判別できない。
その様子を見送り、私は息を吐いた。
気を失った小前田ちゃんは、身体のあちこちが土で汚れ、小さな切り傷がいくつかあったが、他に目立った外傷もない。
服も少し乱れているだけで、特に何も起きていない。痛いほど強く動いていた心臓が徐々に、その勢いを弱めていく。
私は小前田ちゃんを背負うと、林道を引き返す。
さざめく林の音が、私をこの場所から追い立てている様に感じたからだ。
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