9. 林、ナイフ、陸上選手

 男性はポケットに手を突っ込みながら、のっそりと大股で歩いていく。私たちは置いていかれぬよう、早歩きでその男性を追っていた。


 思わぬ二度目の奇跡に、隣を歩く小前田ちゃんの頬も紅潮しているように見えた。私の心臓も先ほどよりも忙しく働いている。


 その男性はぐねぐねと縫うように、住宅街を歩いていく。目的地は一切わからない。


 途中でコンビニに寄り、色々と食べ物を買っているようだった。「不老不死でもご飯は食べるんだ」コンビニの外で見張っている私の隣で小前田ちゃんが呟いた。


 それから、男性はまた歩き始め、現れる曲がり角を右、右、左、右、左、右、右、というふうに進んでいく。すでに私の生活圏内から外れたのだろうか、辺りの風景には一切見覚えはない。もはや、住宅街からも外れかけているようだ。自然の緑が増えてきている。


 少し進んだ先に、大きな林が見えた。地理の授業でこの街の端には、林業に使われていたが、今では放棄された林があると聞いたことがある、おそらくそれだ。


 男はその林の方に向かって、曲がり角を右に曲がる。もはや、周囲に一切の人気はない。近くの住宅も夜に飲み込まれたように灯りが消えたままだ。もしかしたら、空き家なのかもしれない。

 街灯の間隔が長くなった道の中で男を見失わないよう気を付けながら、私たちもその後を追って角を曲がり、林に向かう。

 



 林道には、灯りもなくただ暗い道が続いている。離れたところに見える男性の姿が、本当にその人なのか、木の影なのかも判別がつかない。道の片側は急な斜面になっていて、足を滑らせれば、ずっと下へ転がっていってしまうだろう。


 おかしいとは思わなかった。


 奇妙なシャツを着た男が、コンビニで食料を買って、日の落ちて暗くなった林に入っていくことに疑問はなかっし、むしろ、あの男は不老不死なのだから、普通の人間とは違う行動をとる方が自然なのではないかとも思っていた。

 あるいは小前田ちゃんは非日常の高揚感に、私は一抹の希望に浸っていたのかもしれない。


 だから、離れたところにあった男の影がいつの間にか、消えていることにも気づかなかったし、「おい」と後ろから声かけられた時には、私たちは短く悲鳴を上げてしまった。


「気付いてないとでも、思ってるのかよ」


 身体にまとわりつくような震えた低い声で男は言った。小前田ちゃんが手に持った買い物袋を落としたのか、足元からビニールと土がぶつかる音が響く。


 私たちはとっさに後ろを向くが、まだ暗闇に慣れていない目では、男の姿をはっきりと確認することはできない。


「ああ、くそ、くそ! どこでバレたんだよ! お前ら、サツか?」

 男のシルエットが激しく動く。乱暴に頭を掻きむしっているのかもしれない。うわずった声は男の緊張をこちらにも伝えてくる。


「ふざけんなよ! ここに来るまで、どんだけ走ってきたと思ってんだ!」

 男の異様な様子に、思わず息を呑む。小前田ちゃんも危険を察知したのか、私の手を握ってくる。


「ああ、いや警察じゃねえな。お前らは違う。女二人を寄越すわけねえよな。そりゃそうだ」

 男は興奮したような口調から一転して、今度は自分を言い聞かせるようにぶつぶつと小さな声で喋り始める。その様子が、余計にこの男の異常性を際立たせている。


 今すぐにでもこの場から逃げ出すべきだとは分かっていた。しかし、歩いて来た方向を封じられている以上、視界が確保できない林道を走り抜けるのも危険だ。


「なんだよ。お前ら、何しに来たんだよ」

「あ、え、そのTシャツ」


 小前田ちゃんが言葉に詰まりながらも、男の身体に指を指す。こんな時に言うことではないだろうと思ったが、男を下手に刺激しないのも重要な気がしてくる。

 小前田ちゃんは震える手で私の手を強く握ってきた。


「ああ、この服か、良いだろ? 顔を隠したいなら目立たない服を着るよりもよ、逆に奇抜で、派手な服を着た方がいいって、どっかで聞いたんだよ。確かテレビだったか?」

 男は得意そうに、ペラペラと喋り続ける。


「ああ、疲れた。マラソンは専門じゃねえのに、サツを撒いた上にこんなに走れるなんてよ。やっぱり俺には才能があんだよ。そうだろ?」


「ちゃちな痴漢が見つかったぐらいで、出場権の永久剥奪なんて馬鹿げてるだろ。俺がいりゃ、メダルなんていくらでも持ってきてやるのによ」


「まあ、でも仕方ねえよな。うん。見られたし。仕方ねえよ」


 ようやく、暗闇に慣れた目で男の姿を捉える。血走った目を剥く男の顔と、男の履いているボロボロのランニングシューズを見て、学校での小前田ちゃんとの会話を思い出す。話題の通り魔が、もしすごい陸上選手だったとしたら、そんな馬鹿げた予想は最悪の形で的中した。


 男はずっと手を突っ込んでいたポケットから、折り畳み式のナイフを取り出すと、私たちに突きつける。


「ああ、でも女で良かった! 殺すのは片方にしてやるよ」

 そう言いながら、男の影が素早く動き、すぐに距離を縮めてくる。もう暗いから危険だとか言っている場合じゃない。


「逃げるよ!」そう言って、小前田ちゃんの手を引く。固まっていた小前田ちゃんも、私に引っ張られるまま、必死に走り始める。


 星の光すら木に遮られる暗い林道を、私たちは無我夢中で走る。私が小前田ちゃんの手を引き、坂を転げ落ちないように気を付けながら進む。


「逃げられると、本気で思ってんのかよ!」


 私たちの走るすぐ後ろから、男の下品な笑い声が聞こえる。男は陸上競技のプロだ。ただの女子高生二人がどれだけ本気で走ったところで、逃げ切れるわけがない。


 息を切らせながら、私は小前田ちゃんの手を強く握り、彼女にだけ届くほどの大きさで声をかける。


「ちゃんと、生きてね」

「え?」

「何があっても、生きて」


 すでに男は私たちのすぐ後ろにまで迫っている。このままでは私の後ろを走る小前田ちゃんが先に狙われるだろう。


「ほれ、捕まえ」た、男はそう言いながら小前田ちゃんの腕を掴んだつもりだったのだろう。しかし、男の手は空を切る。


 私が小前田ちゃんを突き飛ばし、男の身体に飛びついたからだ。


「逃げて! 小前田ちゃん!」

 男は、突然の衝撃に怯んだように、一瞬足をもつれさせた。男の重心が後ろにズレる。それでも、やはり腐ってもアスリートなのか、男はすぐに体勢を立て直し、自分の腰辺りに組み付く私の髪を掴んだ。そのまま私を引き剥がそうと、力一杯に引っ張る。


「クソ! 邪魔くせえな」


 そういえば、前に小前田ちゃんに髪を褒められたことがあった、いつだったかは忘れたが、サラサラして綺麗な髪だね、と。そのことを思い出し、腕の力を緩めそうになるが、歯を食いしばり、痛みに耐える。


「そこのお前! 動くんじゃねえぞ! もし一人で逃げたらこいつを殺す!」


 お前、というのは小前田ちゃんで、こいつというのが私のことだろう。私の後ろから足音は聞こえない。


「もし、お前たちが従順に俺の言うことを聞くなら、二人とも生かしてやってもいい! こっちに来い!」


 嘘だ。

 先程の男の血走った目を思い出す。あれは人を傷つけることに異様な興奮を覚える者の目だ。


「小前田ちゃん! 早く逃げて!」

 私は息を切らせながら全力で叫ぶが、すぐに男の膝が私の腹を刺す。予想外の衝撃に痛みよりも先に、内臓を掻き回すような不快感と吐き気が込み上げる。


「ほら、早くしねえと殺しちまうぞ!」


 ゲラゲラと笑う男の声と共に、後ろからこちらに向かって、ゆっくりと歩いてくる足音が聞こえる。


「おお! それでいいんだよ。偉いなぁ! やっぱり友達は見捨てられねえよなぁ!」

「小前田ちゃん!」


 私の声はこの二人に届いてないのか、林の中へ吸い込まれるように消えていく。

「二人とも可愛がってやるからよ。取り敢えず、そこに座れ」


 男の言葉に合わせ、後ろで地面の枯れ木が擦れる音がした。私は腕に込める力を、さらに強くする。


「よしよし、偉いなぁ。いいか、よーく、見とけよ?」


 男はそう言ったのと、ほぼ同時に私の背中に強く殴られたような衝撃があった。口から空気が漏れ出すのと同時に、殴られた箇所が焼かれたように熱くなっていく。


 「ひっ」小前田ちゃんの口から漏れ出たような声を聞いて、私は自分が刺されたのだということを実感した。


「どうだ? 痛いか?」

 男はその感触を確かめるように何度も、何度も同じように私の背中に腕を振り下ろす。その度に熱くなる箇所が増えていく。骨に阻まれナイフの刃が刺さりきらないのか、男は刃を抉るように回しながら私の身体の深くに刺し込んでいく。吐き気すら覚える激痛に足が震え始め、まともに力も込められない。


「すげえな、こいつ! まだしがみ付いてくるぜ」

 それでも腕の力を緩めなかったのはきっと、生物的な反射のようなものだったのかもしれない。

 少しでも男に反撃したかったのか、小前田ちゃんを守らなければならないと思ったのか、私にはわからない。


 男は子供のような無邪気さを滲ませながら、膝をついた私にさらにナイフを突き立てる。


 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。


 痛みが身体の危険を知らせる機能なのだとしたら、もう不要だと判断したのだろう。身体に冷たい刃が突き刺さる感覚だけが、そこにあった。


 男は疲労感を感じているのか、それとも人を殺すという感覚にこれ以上ない興奮を感じているのか、どちらかはわからなかったが、男が息を荒げ始めた頃に、私は完全に地面へ崩れ落ちた。


 全身から生命の活力のようなものが流れ出ていくのを感じる。先程まで焼けるように熱かった傷口も、今は身体が芯まで冷え切っているせいか、気にならない。


「おい、人間って、こんなにしぶといのかよ」


 男の声は聞こえるが、顔は見えない。

 視界はすでに暗幕を下されたように暗くなっている。いくつかの感覚がなくなったせいか、残された感覚が過敏になっていた。男の乱れた息遣いさえ、耳元から聞こえるようで嫌だった。


 そういえば、先生は今頃、何をしているだろうか。

 佐藤さんと仲良く過ごしているだろうか、佐藤さんにからかわれる先生の姿が、目に浮かぶようだ。


 多田さんは明日学校でする話でも、考えているだろうか。

 きっと小前田ちゃんの昔話をかき集めて、構成を練っていることだろう。


 あぁ、小前田ちゃんにはトラウマを与えてしまっただろうか。友達が目の前で滅多刺しにされて、無事でいられるほど、小前田ちゃんは強い子ではないだろう。

 そう考えると、非常に申し訳ない気持ちになってくる。今度、改めて謝ろう。


 あぁ、そうだ。家の洗ざいがもうないんだった。


 きょうのかえりにかっていこう。

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