5. 古本屋、シュレディンガー、星空
「シュレディンガーの猫って、なんか、かわいいね」
無造作に積み上げられた古本の中から小前田ちゃんは一冊の本を抜き取り、まじまじと眺めた。『マクロとミクロ』と題のついたその本の表紙には箱に閉じ込められた一匹の猫の絵が描かれている。
「確か、半分死んでるやつだっけ」
乱雑な本棚を漁りながら、私が曖昧な記憶をもとに答えると小前田ちゃんは感心した様に「へー」と声を上げた。
この街には何故か、中古品を置く店が多い。さっき寄った古着屋もそうだし、今いる古本屋もそうだ。そのうち、古菓子屋なんてものもできるかもしれない。
そして、そのほぼ全てが乱雑に商品の山を築き上げるような杜撰さを兼ね備えているのだから、何か神様のような大きな力が介入しているのではないかと、疑いたくもなる。ここは杜撰の神様に愛された古道具屋の街だ。
「お前、半分死んでるんだ」
小前田ちゃんは表紙を撫でる様に触りながら、語りかける。
「箱の中を見るまでは、わからないらしいけど」
「そっか」
小前田ちゃんはペラペラとめくっていた本を閉じると、その本を積み上げられた同族の一番上に戻す。「生きてるといいね」そう言い残して、本棚に囲まれた狭い通路をするりと抜けていく小前田ちゃんの後ろ姿を、私はじっと見送った。
不老不死を探すという名目であちこちをぶらぶら歩いているが、結局はいつも二人で遊ぶ場所を順番に巡っているだけだ。不満があるわけではないが、目的と手段が逆転しているのではないかとは思う。
それでも、古本屋を提案したのは私であるし、古本特有の匂いに包まれながら、活字の世界に浸るのは心地良かった。おそらく、往年の古本屋には特有の時間の流れ方があるのだろう。
置き物の様に一切動かない壮年の店主は、いつも目を瞑っており、眠っているのか起きているのか、そもそも生きているのかもわからない。これでは万引きし放題ではないかとも思うが、そう考えるたびに片目を開けた店主と目が合うので妙に背筋が伸びる。
『宵の明星と、明けの明星、これはどちらも金星のことである』
そんな記述を見て、ほう、と思わず感心の声を上げそうになる。
その名前の通り、宵の明星は日暮れごろ、明けの明星は夜明けごろに出るということは知っていた。この二つは別の時間に出没するのだから、きっと別の存在なのだろうと安直な思い込みをしていた。
しかし、よく考えれば、私がアイスを買いに深夜のコンビニへ行ったり、早起きした休日になんとなく外を歩くのと同じように、金星だってふらふらと夜に現れたり、朝に現れることも当然、あるのだろう。
巻末には宵の明星と、明けの明星が見られる季節のスケジュール表が載っている。それぞれが交代するように現れる明星たちは、毎年出てくる季節が変わるらしい。
私は巻末のスケジュール表をしげしげと見るが、その本の出版が十年以上前だということに気づき、そっと閉じる。
「面白そうな本あった?」
いつの間にか、私の後ろに忍び寄っていた小前田ちゃんは私の持っている本を見て、「あ」と声を上げる。「それ、私も持ってる」
「この本を?」
『はじまり星とおしまい星』そう名付けられた本は一見すると児童向けの絵本のように思えるが、その実態は宵の明星と明けの明星について天文学的な観点から解説する立派な学術本だ。
「小学生ぐらいの時、親に買ってもらったんだよね」
「小学生で、この本を」
小前田ちゃんの顔をまじまじと見つめる。もしかして、彼女は神童と呼ばれる部類の子供だったのではないか。最近のテストでの低迷っぷりは、あと数年で二十歳になろうという彼女が『十歳で神童』と、はじまることわざを律儀に守り、『只の人』になろうとしているだけなのではないか。そんな想像を巡らせる。
「親も買って正解だったって言ってたよ」
小前田ちゃんは昔を懐かしむように視線を上げる。
「これを読ませれば、すぐに寝るって大喜び」
私が先ほどの本を棚に戻す様子を見て、小前田ちゃんは口を開く。
「今回は何か買うの?」
「いや今回は、いいや」
「いや今回も、でしょ」小前田ちゃんは私を糾弾するように指をさす。
確かに、私は無駄な物は買わないようにしている。
一人暮らしの女子高生というのは常に財政難を抱えているものであるし、どうせ高校を卒業したら引っ越すのだから、その負担を出来るだけ軽くしたいという思いもある。
家にあるクローゼットには制服と必要最低限の私服しか入っていないし、小さな本棚にはほとんど使わない教科書が詰め込まれているだけだ。
「そんなんじゃ、きっといつかさ。この街の古具屋連合軍が家に攻め入ってくるよ」
「小前田ちゃんが私の分も補って余りあるほど買ってくれてるから、大丈夫」それに、そんなものは存在しない。
私とは対照的に、小前田ちゃんは物をよく買う方だ。彼女が寮暮らしというのと、いくつもバイトを掛け持ちしているというのが、彼女の購買意欲を促進させているのかもしれない。彼女の部屋にはいつも様々なものが溢れている。
今回も彼女は何冊かの本を満足そうに抱えていた。
「今回は何を買ったの?」
そう尋ねると小前田ちゃんは手に持った数冊の中から、一冊の本を「じゃーん」という効果音とともに掲げた。
その本は普通の単行本よりも一回り大きく、表紙には満天の星々が吸い込まれそうなほど輝いている。どうやら、どこかの国の星空を切り取った写真集の様だった。『夜空の星の正体は』という題名が背表紙についている。
「星、好きだったっけ」
星を眺める小前田ちゃんを想像すると、確かに様になっているとは思ったが、現実にその光景を見たことはなかった。
「まあ、好きなんだけど」
「ていうかきっと、星のことが嫌いな人なんて、いないよ」そう言って小前田ちゃんは笑う。
小前田ちゃんは本をペラペラと捲り、唸る。何かを見つけたように、とあるページで捲る手を止めると、本をこちらへ向ける。
夜空が明るく見えるほど輝きを放つ星々の真ん中で、黒い影となった大樹が堂々と聳え立っている、小前田ちゃんが見せてきたページにはそんな写真が収まっていた。
「好きっていう以上に憧れてるのかも、綺麗すぎるから」
小前田ちゃんは、あるはずのない星空を見上げる様に上を向く。その顔があまりに美しく、私は昔両親に連れて行ってもらって見た星空を思い出す。
もし、あそこに小前田ちゃんを連れて行けたら彼女はどんな顔をするだろうか。満天の星々の元ではしゃぐ彼女の姿を想像する。
「そろそろ行こうか」
小前田ちゃんは開いていた本を閉じて、そう言った。
その瞬間、私の目の前に広がっていた星空もパタンと閉じる様に消え去り、本の山に囲まれた現実に引き戻される。
本に埋め尽くされた通路を通る途中で小前田ちゃんは一瞬立ち止まって、本の山の一番上から一冊の本を拾い上げる。その本の表紙には猫が描かれているのが、ぎりぎり見えた。
「やっぱり、気になるよね。生きてるのか、死んでるのか」
「多分、その本を読んで分かることじゃないと思うよ」
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