3. 先生、チンギスハン、貧乏ゆすり
このクラスの歴史を担当している先生はまだ若く、気迫も、熱意もない、非常にのんびりとした先生だった。よく言えば親しみやすく優しい先生であったが、実際には教師として必要最低限の威厳の様なものが不足しているとしか思えなかった。
威厳が欠落した教師というのは生徒に軽視される。
これは「気圧が低くなるほど水の沸点が下がる」というのと同じ、世界の普遍的な原理だ。
もし、授業を真面目に聞いている生徒と、聞いていない生徒を天秤にかけたとすれば、おそらく後者に傾くだろう。今までの課題を全て提出している生徒と、そうでない生徒を分けたとしたら、結果はより明白になる。
私と小前田ちゃんは比較的、真面目にやっている方だったし、互いに彼のことは嫌いではなかった。
以前、私と小前田ちゃんの二人で彼に「なぜそんなに自信がなさそうなのか」と尋ねたことがあった。「母親のお腹に自信の二文字を忘れてきたのか」と。
すると彼は微笑みながら「歴史なんて本当の事は誰にも分からないんだ。それを見てきたわけじゃないんだから」そう答えた。「不確かなものを自信満々に、これはこうだったんだって言うのはさ。気が引けるよ」とも続けた。
その謙虚な姿勢には非常に好感が持てたし、正しいことを言っているようにも思えたが、授業中も語尾に「だったかもしれない」とか「の可能性もあるよね」と付けるのは教師としては欠陥なのではないかとも、思う。
イレギュラーな出来事とは、なぜこんなにも連続して続くものなのだろう。隣の列の前側で頬杖をついている小前田ちゃんと、黒板の前で自信の満ち溢れた表情を湛え、政治家のように流暢な語りを続ける先生を見ながら、そんなことを考えていた。
「つまり、源義経とチンギスハンは同一人物だったんだよ。間違いない」
そんな先生の言葉を聞いて、私は窓の外に目を向ける。
先生は初めに授業前の雑談として、小前田ちゃんが口にした源頼朝の話を続けていた。普段から雑談自体は珍しいことではなかった。
先生としては話のウォーミングアップにもなるし、授業を真面目に受ける生徒を見極める手段でもあったのかもしれない。しかし、今日は題材が適切ではなかった。
先生の雑談は次第に熱を帯びていき、いつのまにか源頼朝の弟である源義経の話にすり替わっていた。
腕を振り上げて熱く語るその姿を見て、先生が大の義経好きであることは簡単に感じ取れた。
先生が滔々と回る口を止めたのは授業の四分の三を贅沢に使って、義経の生涯を語り尽くした時だった。
ようやく、先週の自分が、テストまでに授業が間に合わないかも、と弱音をこぼしていたことを思い出したのか。
私は胸を撫で下ろしたが、次に先生の言い放った言葉を聞いて、私は目を丸くした。
「チンギスハンっているでしょ、あれ実は義経なんだ」
周りの生徒も普段とはどこか違う先生の態度と、源義経、チンギスハン同一人物説というキャッチーな題材に興味を持ったのか、今日は珍しく天秤が反対に傾いている様だった。小前田ちゃんも頬杖をつきながら、じっと先生の方を見て話を聞いている。
「そもそも、あの英雄、源義経が衣川の戦いであっさり自決するなんて、あり得ないよね。絶対にあり得ない」
喋りながら、自分自身の考えを補強する様に、先生はうんうんと力強く頷く。
「チンギスハンが活躍し始める時期と義経が死んだ時期も一致してるし、チンギスハンが使ってた長弓も、日本にしかないものなんだ。これは間違いないよ」
「つまり、源義経とチンギスハンは同一人物だったんだよ。間違いない」
先生の力強い言葉に合わせるように、最後の授業の終わりを知らせるチャイムがなった。
教室内は休み時間のざわめきを取り戻しており、担任が拘束時間の終わりを宣言しに来るまでのわずかな時間を、皆が思い思いの形で過ごしていた。
私はテスト勉強に必要な荷物をカバンに詰め込もうと、ゆっくりと立ち上がる。
そういえば、家の洗剤が切れていたはずだ。食べ物も冷蔵庫の中に、ほとんどなかったかもしれない。今日の帰りに買って帰るものを、頭の中でリストアップする。
青褪めた顔の歴史の先生が肩を落とし、倒れるのではないかという足取りで、ふらふらと教室から出て行くのとほぼ同時に、小前田ちゃんがそのざわめきをかき分け、私の前まですたすたと歩み寄ってきた。
「ねぇ」
「どうしたの?」
先ほど多田さん相手に見せた殺伐とした雰囲気は跡形もなく消え去っており、いつものほんわかとしたオーラを全身から漂わせていた。
「探しに行こうよ」
「んー、なにを?」
小前田ちゃんはよく、突拍子もないことを言うので適切な相槌を打つのには慣れていた。
この前の休日も小前田ちゃんに誘われて、近所の裏山を夜明け前に歩いて登った。前日に、初日の出に照らされながらプロポーズするカップルの動画を見ていたので、それに感化されたのだろう。
しかし、今は八月だし、その日は曇っていた。
「不老不死の人間」
「へ?」
これには流石の私も、少し驚いた。いや、かなり動揺した。
「不老不死の人間?」
「そう、ノーエイジング、ノーデッド」
したり顔で不正確な英語に直す小前田ちゃんを無視して、私は質問を重ねる。
「なんで?」
「ちょっと用事があって」
「不老不死に?」
「うん」
「本当にいると思ってる?」
「私はツチノコも実在するって信じてるよ」
「じゃあ、仮に存在したとして、見つかると思ってる?」
「だって、五人もいるんでしょ。この辺にいてもおかしくないよ」
「あー」
私は頭を掻く。休み時間に小前田ちゃんに見せた文章を思い返した。
「いいじゃん。面白そうでしょ」
口から出かけた、そんなことしなくても、という言葉を呑み込み、「まあ、いいよ」と返事をする。
案外、小前田ちゃんと一緒にいれば退屈することはないのだ。
「よっしゃ、決まりね」
それに、そう言って微笑む彼女の顔を見ると、なんとなく断る気にもなれない。
「じゃ、ホームルーム終わったら、また」
私は自分の席に戻っていく小前田ちゃんの背を見送ると、机の荷物を全てリュックに詰め込んだ。
椅子に座り、担任の到着を待っている自分の足が上下に細かく揺れていることに気がつき、思わず顔を伏せる。
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