ネコはリリーに首ったけ
犬井作
Lily chained by cat
ヨウコはその日イヤホンを忘れた。気づいたのはファミレスに入ってからだった。いつものように窓際の角に腰を下ろしジャケットに手を入れたところ、ウォークマンの感触だけがあった。こんな日もある、とヨウコは自分に言い聞かせた。しかし音楽が欠けたルーティンワークは、違和感を覚えるにはじゅうぶんだった。
スティックシュガーをエスプレッソに二つ分、かき混ぜること十五回。通い慣れたファミレスは毎日変わらない味を提供する。同じ手順で同じ味を再現し、同じ音楽を効く。それがヨウコのルーティンだった。バイオリズムをととのえるために人は折々儀式を求める。それがクリスマスやハロウィンではなく、毎日のファミレス通いというだけだ。
カフェインが効いてくると集中力が上がって耳が良くなる。ヨウコはいつもならマイケル・デイヴィスに澄ませる意識を外に向けた。水が人の顔にかかる音が聞こえてきたのは、まさにちょうどそのときだった。
「人の恋人寝取っといてなにいってんのよ」
「いやだなあ」隣の席の女は言った。「寝取ってなんかないよ。言い寄ってきただけ。リリーがいるのにあたしにそんなこと言うやつだよ。リリーにはふさわしくない。あたしリリーが好き。付き合って」
リリーと呼ばれた女に視線を向けると名前に反して黒髪のボブカット、日本人らしい顔つきだ。むしろ向かいに座る、横髪を紫色に染めた女こそリリーと呼ぶにふさわしかった。ヨウコは咄嗟に目を向けた自分を恥じて視線を戻そうとしたが、そこで、紫髪の女と目があった。
女は微笑んだ。リリーは手元のコップを投げつけた。コップは狙いを外して床で砕けた。女は微動だにしなかった。
「気持ち悪い」とリリーは言った。肩で息をしながら立ち上がると女の肩をドンと突き飛ばし、地面に転がした。リリーは一万円をテーブルに叩きつけた。
「前から言いたかったけど、そのリリーっていうの、マジで嫌い。人の名前くらいちゃんと呼べよ」
といって、リリーだった女は去った。
隣の席で起きた騒ぎは視線を集めた。自分に向けられていないとわかっていても、ヨウコはその状況が気に入らなかった。窓際の角を選ぶのは透明になるためだった。目立たないものを人は風景と同化させる。路傍の石のひとつぶになれればそれでよかった。ヨウコは自分が嫌いだった。
「外に出ませんか。一杯おごりますよ」
ヨウコは女の手を引いて渦中から脱出した。女は抵抗しなかった。
階段を降りたところで手を離した。黙って着いてきた女をあとにしてヨウコは帰り道についた。一分歩いたところで振り返った。まだ女が着いてきていた。
「なにかようですか」
「なにか奢ってくれるんですよね」
「本気にしたの?」
「本気じゃないの?」
「ふつう初対面の人間に誘われたら無防備についていくものかな」
「誰にでもこうするわけじゃないよ。あんな状況なのにあなたは私から目を離さなかったし、ファミレスから連れ出すような真似までした。あのファミレスに入るたび、あなた『あああの人だ』って店員に思われるのに。そういう衝動的な人、大好きなの」
「感情に身を任せただけ。店員の目は気にならない」
「リリーの家に連れて行ってよ。そしたらそれ以上着いていかないから」
「私はヨウコだ。家まで来る気?」
「ケンカの第二幕をここではじめてあげてもいい」
イカれたやつだとヨウコは思った。衝動的に殴りたくなった。だが殴れば女のペースになる。ヨウコは無視して歩き出した。が、女はやはりまた着いてきた。ヨウコは肩越しに後ろを見て女がハイヒールであることをたしかめるとイチニのサンで駆け出した。振り返らず全力疾走しアパートの部屋の前にたどり着き、この場は流されるしかないと諦めた。階段をよたよたと登ってくる女に手を貸して、ヨウコは部屋の鍵を開けた。女はまだ微笑んでいた。
扉を閉めるなり女はキスしてきた。突き飛ばしても女は微笑んでいた。気味が悪くなって、部屋から追い出そうかと思った。だが女に手を首の後に回されて、舌を口のなかにいれられると、気勢が削がれた。
「繰り返しから外れたなら新しいリズムを手に入れなくちゃ」
「わかったような口をきくな」
「忘れさせてよ。出ていくかもよ」
「出ていけ」
服を脱がされながらヨウコは女とベッドに入った。
目が覚めると日が沈んでいた。寝返りをうつと女は勝手に人のキッチンで食事を作っていた。文句を言おうと思ったが、上京してはじめて人間的な料理を食卓に並べられると、エスプレッソしか摂取していない体が空腹を訴えた。差し出されたフォークを受け取ってヨウコはパスタを食べ始めた。向かいに座った女は聞かれてもないのに喋り始めた。食べながらだというのに言葉なめらかでいつ咀嚼しているかわからなかった。
「わたしのことは好きに呼んで。名前はしょせん記号だから。私はその時最高の相手だと思う人のことをリリーって呼ぶことにしている。仕事はしてない。しいていうなら、社会の隙間をさまよってる。あなたみたいに一人で暮らしてる人と変なかたちで縁を結んでへんなかたちで縁を続ける。まあ家事手伝いをする野良猫が一匹増えたと思って、宜しくお願いしませんか」
「決定権は私にある」
「出ていけっていうなら部屋の前で座りこむよ」
「選択肢をせばめたら相手がいつでも言うことを聞くと思いこんでいるな。気に食わない。この部屋にはその舌を引っこ抜くための道具もあれば、喉を裂くための道具もある。なんならこの手でやってもいい。ここは私の住処だ。私のことは私が好きなように決める。お前をどう扱うかもだ」
「お母さんに通じた脅しは私には通じないよ」
ヨウコはそこで手を止める。はじめて、女の目を真っ直ぐ見る。奈落のように黒かった。
「人を選ぶといったでしょう。これでも人を見る目もあれば、半端物を嗅ぎ分ける鼻もある。一人暮らしは大変でしょう。厄介事を背負いこんだら、すぐに生活成り立たなくなるかもね」
「嫌な女だな」
「リリーが好きだからこう言ってるの」
「私はヨウコだ。気分が悪い」
「でもあなたは私を突き放せない」
「もともとの縁はどうする。人を蔑ろにしているといつか報いが訪れるぞ」
「生きる目的なんてないんだから、好き勝手生きればいいと思わない?」
「虚無主義者としゃべる口は持たない」
「あなたが生きる理由になってくれればいい」
ヨウコはフォークを放り出した。空になった皿の上で固い音を立てた。
「前の女にもこうやって取り入ったのか」
「あなたにはこれがいいと思っただけ。無駄話は嫌いでしょ」
「わたしはお前が嫌いだ」
「一人が寂しいくせに」
「ごちそうさま」
女の皿に残ったパスタをゴミ箱に捨てて皿をシンクに置くとヨウコはベッドに戻った。ひどいニオイのなか目を閉じた。寝ている最中、大きな熱源が背中に触れた。腹を弄られる感覚があった。ヨウコは無視して寝続けた。長い戦いになりそうだと予感した。そのとおりになった。
女はヨウコのバイオリズムの隙間にうまくもぐりこんだ。ヨウコのじゃまにならない程度に部屋の一部分を専有し、ヨウコの本を勝手に読み、ヨウコのパソコンも勝手に使い、いつの間にか定期便を契約し、部屋に勝手に食材が揃い、料理ができあがるようにした。ヨウコは風景と同化するために儀式を必要とするが、女には必要ないらしかった。食事は音楽ではなく女の声で彩られ、ベッドに入っても暑さを覚えることが増えた。レポートと課題におわれるまま一ヶ月も生活するころには女はいても気にならない存在になっていた。
ある朝、完璧な味のエスプレッソを胃に流しこんだあと、ヨウコは言った。
「今夜首輪を買ってくる。それでもいいならうちにいていい。同居人として認めてやる」
「プレゼント? うれしいな。リリーがくれるならなんでもうれしい」
「私はヨウコだ」
ヨウコは大学へ行き講義を受けた。帰り道で怪しげな風体のアダルトショップに足を運んだ。チョーカー型の首輪を買って家に帰った。女はまた料理をしていたので、後ろに回り、首輪をつけた。女は抵抗しなかった。ヨウコはふたたびため息をついた。女は人のいい笑顔で食卓に皿をならべた。ミネストローネはたいへん美味しかった。
「ネコ。こんどからそう呼ぶ。名前がないのはやりづらい」
「いいんじゃない?」
ネコはスプーンを口から出し首をかしげた。さまになる所作だった。
「明日から夏休暇に入る。私は好きなようにするから、ネコも好きなようにしろ」
「はーい」
そうして二人暮らしが始まった。
ヨウコは映画サークルに入っていた。学生向けのフィルムフェスティバルに出品するための映画の主演としてスカウトされたからだった。夏休暇の二ヶ月が撮影期間で、毎日出かける用事があった。ヨウコはそのことをネコに話さなかったが、ネコは気にした様子もなくヨウコと一緒にバスに乗り、毎日撮影現場についてきた。バス代や食費はすべて暗黙のうちにヨウコが出すことになっていたが、抵抗するとバイオリズムが崩れる気がして、ヨウコはその役割を引き受けた。
撮影現場でははじめネコがなにものかしきりに話題になったが、ネコの人間離れした透明化能力によって一週間もせず話題にならなくなった。もともと少なかったヨウコと他人とのやり取りはいっそう減り、ネコはヨウコのマネージャーのように扱われるようになった。ヨウコに用事があるときは、だいたいネコが間に入った。ヨウコにとって重要だったのはストレスレスに生きることだったので、特に抵抗しなかった。
ヨウコとネコは撮影グループといっしょに東京タワーをのぼったり、歌舞伎町でオールナイトしたり、ブックオフで買い物をし、大学の広場で寝そべり、ファミレスでごはんをたべ、ラブホテルで飲み会をした。
またたくまに時間が過ぎた。
一ヶ月がすぎたころ、撮影中をのぞいてヨウコは他人と話さなくなった。ヨウコはカメラの中には存在していたが、現場では透明になっていった。そのころからネコは監督と一緒にいるようになった。ネコがまとわりつくというより、監督がネコに惚れこんでいるようだった。休憩中二人で消えると、ネコは男の匂いをまとわりつかせて帰ってきた。それでもバイオリズムが崩れなかったからヨウコは文句を言わなかった。
そのうちネコもキャストとして起用された。監督はネコの掴みどころのない性格を用いて、映画に深みを出すキャラクターを追加しようとした。急な変更で現場は混乱したがヨウコには関係なかったので険悪な空気になるとネコを連れて撮影現場近くのコンビニに入りイートインで時間をつぶした。二人のリズムは崩れなかったが、一週間もしないうちに事件は起きた。
その日はひどく暑かった。監督は汗のせいで肌のテカリが出ると言ってリテイクを五回も出してネコの肌をみずから拭いていた。六回目のテイクを撮ろうとしたとき、女子学生がわあああああああと奇声を発しながら構えていたレフ板を地面に叩きつけ。女子学生は呆然と立ちすくむ監督を突き飛ばすと拳を握りしめた。
「あの! 映画撮ってくれませんか。撮影にそういうのつきものですけど妙な空気イヤなんですよ。ネコさん誰とでも寝ること監督知らないでしょ。サークルの男みんな食われてますよ。バカばっか! やる気あんのか! 私には手出さないくせに!」
監督はしどろもどろに言い訳をした。他の男たちもネコを擁護した。魔法の手でも持っているらしい、とヨウコは思った。ネコを連れて抜け出そうとしたが、女子学生はネコを口撃しつづけていたのでうまく間に入れそうになかった。
「クソビッチ!」
「そんなこというな、かわいそうだろ」
「寂しがってるだけだよ、しかたないよ」
「頭湧いてんのか性欲モンスターども」
「ミカはそういうとこがかわいくないんだよ」
「黙ってないでなんとかいえよネコかぶり!!」
「映画は撮影されてるじゃない」
ネコは場違いなくらい楽しそうに言った。火に油を注ぐ結果になった。女子学生は足元に転がっていた手頃な大きさの石をつかむとすごい勢いで投げつけた。ソフトボールでもしていたのか、アンダースローでいい角度だった。
つぶては顔をねらっていた。
とっさにヨウコはネコをかばった。左腕につぶてがぶつかった感触があり、続いて焼けるような痛みが走った。あたりは静まり返った。ヨウコは歯を食いしばり、傷口を手で押さえていたが、そのうち激痛は指のせいだと気づいて手を離した。ズキズキと痛かった。
「骨折してるかも」
と誰かが言い、別の誰かが車を出すと言い出した。男たちはガヤガヤ言いながらヨウコを車へと運んだ。助手席の扉が閉まる直前ネコがヨウコに駆け寄った。頬にキスをするとネコは呆れたような目でヨウコを見た。
「また透明に戻ったら会いに行くから」
「もうごめんだよ」
その一時間後、骨折していることが伝えられた。
部屋に戻ると食卓にチョーカーが置かれていた。ネコが置いていったものだった。ヨウコは冷たいベッドに横になり、翌日から撮影に行かなくなった。大学が再開するころギプスが外れた。サークルには顔を出さなかったが、あるときそういえば映画はどうなっているのか気になって部室棟へ足を向けた。サークル室の扉を開けると、そこでネコがヨウコに石を投げた女子学生とキスをしていた。
「遅かったね」
ネコは言った。ヨウコはネコに近づくと、頬を二、三発ビンタした。白い頬が真っ赤になったので抓りあげて、痛みにあえぐままにさせた。ネコはヨウコの手を離そうと、手首を両手で掴んできたので、ヨウコは反対側の手でネコをビンタした。まだ手を離さなかったのでお腹を殴った。中学高校で学んだ空手が役に立った。
女子学生はあっけにとられた様子でヨウコを見つめていた。ヨウコは女子学生を一瞥すると、リリーの髪を引っ張りながら部室棟をあとにした。ひと目は気にしなかった。帰り道で一度アダルトショップに寄り、数メートルする鎖とセット買いの首輪を買った。いちど職務質問をされたが、浮気されて痴情のもつれでこうなったのだ、とヨウコはわざとらしくヒステリックに叫んだ。警官はネコに事実確認をしたが、ネコもうなずいて「わたしが悪いんです」としおらしく言った。警官から解放されると今度は寄り道せず帰宅した。ヨウコはネコに首輪をつけると、ベッドの足に鎖をつないだ。
「またリリーって呼んでいいよ」
ヨウコがそう言うと、ネコははじめて見せる満面の笑みを浮かべた、腫れ上がった頬は紫色になっていたので痛々しかった。透明になりたくなかったのが誰か、ヨウコにはもうわかっていたので、もういちどその頬をビンタした。リリーは悲鳴を上げたが、嬉しそうに頬をなでた。
唇に噛みつくと、毒のように甘かった。
ネコはリリーに首ったけ 犬井作 @TsukuruInui
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