第8話 モリシタという妹

「先輩じゃないっすか。久しぶりっすね」


 沈静化した現場に再び油が撒かれ始めた。キャップを被るその少女は、白を基調としたジャージを纏い、紺のハーフパンツからは、スラっとした細い足が伸びていた。


 リンドウを買収したことで、俺のクロヒョウ疑惑はなんとか鎮火し始めていた。疑いが完全に晴れたわけではないが、問い詰めるワタベさんに対し、本人が否定してるんだからとリンドウが口添えをすることで追及を逃れることに成功したのだ。このまま話題を変えてしまおう。そう画策している最中に思わぬ人物が襲来した。


「ウチの妹と知り合いか?返答次第ではお前を消さないといけない」


 モリシタがこんなにも真剣な顔をしているのを初めて見たかもしれない。まあ今日知り合ったばっかだけど。


 彼女とは野球で知り合った。相手チームとして試合をしたことが始まりである。ベンチから相手守備を眺めると、抜きん出て守備の上手い選手がいた。


 代走で出場した俺はいつものように二塁へと盗塁を仕掛ける。盗った。そう確信した完璧なスタートだったがそう簡単にはいかなかった。


 捕手からの送球を受ける遊撃手の選手がバランスを崩したようにベースの前へ足を滑り込ませたのだ。このままではぶつかる。そう感じたがスライディングの態勢に入った足は、体は止まらなかった。なんとか衝撃を緩和しようと相手選手との間に手を伸ばす。


「アウト!」


 土煙の中でコールが響く。盗塁に失敗したのはこれが唯一のことだった。衝突を避けようと意識した俺とは対照的に、体ごとグラブを差し出して懸命にタッチを試みるその勇気と技術に俺は敗北したのだ。危険なプレーではあるが、やはりこの選手の守備は素晴らしい。


 相手選手と共にグラウンドに倒れこんだ俺はその手に残る柔らかな感覚に気が付いた。今の今まで気が付かなかったのはその感覚だけではない。しなやかな捕球と流れるような送球に目を奪われていたが、美しいのは守備だけではなかった。


 その肌は日に焼けて浅黒いがきめ細やかで、その髪は艶めきを隠さず風に揺られている。目鼻立ちのよい顔と華奢な体つき。やっと気が付いた。今俺が馬乗りになっているこの選手は、美しい女の子だ。


「そろそろ降りて欲しいんすけど」

「ス、スマン!」


 彼女の体の上から慌てて手を離し、立ち上がって自らのベンチへ退いた。試合が終わった後には彼女へ謝罪に向かった。


「さっきはスマン!ケガは無かったか!?」


「負けたチームのベンチに来るなんてデリカシー無いっすね」


「スマン……」


「冗談っすよ。別に大したことないんで気にしないで欲しいっす」


「でも……スマン」


「さっきから謝ってばっかっすね」


「スマン」


「そんなに謝るならお詫びに来週ついてきて欲しい所があるっすけど」


 彼女はそう言って俺と連絡先を交換し、その後は2、3度会ったと思う。一緒に野球用具を買ったり、バッティングセンターに行ったり、キャッチボールをしたり。彼女の向上心には感嘆したものだ。


 俺が野球部を引退して受験勉強をするようになってからは連絡すら禄にとっていない。そんな彼女がモリシタの妹だったとは。意外と世の中は狭いんだな。


「私たち付き合ってるんすよね、先輩」


 小悪魔的な視線を送る彼女とは裏腹に、兄のモリシタは悪魔どころか閻魔に迫ろうかという形相で睨んでいる。


「なんでそういう嘘つくの!?」


 できるだけ短く、わかりやすく、簡潔に否定しなければ、いつ彼に殺されるかわからない。上手くいっただろうか。モリシタは落ち着きを取り戻そうとしていた。


「でも先輩は私の胸触ったじゃないですか」


「ヤマダアアアアア!!」


「誤解ですううううううう!!」


 現場は火の海、あるいは地獄と化していた。



 

 

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