第4話
早朝、寸又峡温泉の駐車場近くにある旅館、翡翠館の味のある扉から私は姿を現した。
肌寒い朝で少し薄暗いが木々は紅葉しており、美しい彩りの葉を淡い朝の光で鮮やかに染めている。時折、聞こえてくる鳥の囀りが心地よく辺りに響いていた。
ゆっくりと温泉につかり、そして、山の幸がふんだんに使われた豪華な料理を頂きながら、目の前にいたであろう人影を思い浮かべてしまった。一人分の膳だけだから、誠の席はない。でも、一抹の寂しさがその姿を想像せしめて美味しいはずの料理を味わう気持ちを削いだ。彼からは連絡は入ってこないので、きっと仕事に邁進ししているのだろうか、机で仕事をこなす姿を想像して一抹の寂しさと、張り切って仕事をしている姿を想像して張り切りに思わず頬が綻んだのだった。
ダム湖へと向かって歩き始める。
昨日、誠に送った写真のダム湖ではなく、夢の吊り橋という橋とエメラルドグリーンのような美しい湖面が人気の湖だ。10分ほど歩いていくとアスファルトで舗装された車一台分の狭い道へと出て、その道をゆっくりと歩いていく、ところどころ山肌から落ちてきたり、雨で流れてきたと思われる小石達が黒い地面を白く覆っている。
「少し、肌寒いな」
お気に入りのライダージャケットを羽織って歩いていく。2人でバイクでは来れなかったけれど、どうしても忘れることができなくて、結局、電車とバスで来たのにも関わらず普段バイクに乗る姿でここまで辿り着いていた。
「傷が残るのかな…」
顔に貼られた絆創膏に手を当てると、ちくちくとした痛みを感じて思わず顔を顰めた。誠がこの傷を見たらどう思うのだろうか・・・と不安に感じながら手を離してため息を吐く。
診察してくれた医師の話ではうっすらと線として残ってしまうかもしれないとのことだ。でも、事件に関わったことに後悔はしてない。
小さな幼子に向けられた刃を見た途端にすぐに体は動いた。持っていたハンドバックを振り回して犯人に立ち向かい、そして、頬や左腕を切られながら怯えて動けずにいる幼子を身を挺して庇った。どこから力がでてくるのだろうと思えるほどに必死に抵抗していると、近くにいた男性達が大慌てで駆けつけてくれて、その助力もあって犯人を取り押さえることができた。
あの行動には間違ったことは何一つしていない。泣きながら抱きしめ合って再会した母と子の姿を目にしたとき、傷の痛みよりもこの二つの命が離れ離れにならなかったことに胸を撫で下ろした。
「勲章かな・・・」
人を救うことができたなら、私如きの傷など安いものだと初めは思っていたけれど、病院で治療を受け終わって警察からの事情聴取に至ってから、ようやくとんでもないことにをしたのだと自覚した、途端に恐ろしさのあまり震え上がった。刑事課の女性警察官からの言葉の一つ一つには、その行為の一つ一つで命を落としかねなかったかもしれないということを、さらにしっかりと自覚させられたのだった。
帰りの道は電車を辞めてタクシーに乗り帰宅したけれど、車内で恐怖のあまり声を殺して泣いていた。
この事件は誠にあえて伝えていない。
事件を知って心配した同僚にも東郷にも、誠の仕事の邪魔はしたくないと我儘を言って伝えないようにお願いして回り、何くわぬ顔をして旅路へと着いた。
誠にとってこの出張は失敗できないことは聞いていたし、実際にどれだけ重要なことであるのかを知っているからこそ、連絡だけして心配させたり、そばにいて欲しいなどと言うように小娘のように振る舞うことはできない。
なんで伝えなかったんだと怒られた方がまだ良い。
そんなことを思い出して自分の行為を考えながら霧に包まれた道をしばらく歩いていく。
ふと、いつの間にか毛並みの良いカモシカが数メートル前を優雅に歩いていた。しばらく後をついていくと水が天井から滴り落ちる天子のトンネルに入る。ぽたり、ぽたり、と水滴の落ちる音が響いて、そして、カモシカのアスファルトを蹴る音と、靴音が響きに混じってトンネル内にこだまするように鳴る。
薄暗いトンネル内部をカモシカはまるで先導でもするかのように歩幅の速度を合わせて歩みを進めている兎卯香がトンネルに入って靴音を響かせても、驚くことなく時折に振り返っては彼女の存在を確かめながら、再び歩みを進めていく。
「あなたはどこにいくの?」
そう言いながらカモシカについて兎卯香は進んでいくと、先にトンネルを抜けたカモシカは再び兎卯香をじっと見つめてから会釈をするように頭を動かすと霧の彼方へと消えていった。
「行っちゃった・・・」
少し寂しくなりながら、トンネルを抜けた先は朝霧が漂う世界が広がっていた。
純白を纏った空気達が濃淡を見せるように霧集しては霧散してを繰り返すさまは、自然の芸術作品のようだ。しばらく作品の中を一歩一歩と歩みを進めていくと霧の先に二人連れの姿が見えた。
2人は霧の中の散策を楽しんでいて、楽しそうに会話をしているようなのだがその声は聞こえてこない。やがてふとした拍子に見つめあった2人が口づけを交わしてから、仲睦まじく手を繋いで再び歩みを始めていく。
「いつかは・・・」
距離をとって邪魔をしないようにしながら歩いていると、やがて2人は霧の中へと消えていった。
目指す吊り橋までのコンクリートの白さが失われた古い階段を降りてゆき、やがて細いけれど歩きやすい緩やかな下り坂を歩いていく、霧は相変わらず周りを覆い隠すように流れているが、不思議と怖いとは思わなかった。やがて一陣の風が突然に吹くと視界の霧が四散していく。
広がった世界はとても美しいものだ。
エメラルドグリーンの湖面には波紋ひとつなく、水鏡と行って良いほどに水面は滑らかだ。朝日がゆっくりと山影から姿を見せ始めると、天使の梯子と言い表される光の柱が湖面を優しく照らしてゆく、吊り橋を支えるワイヤーに溜まった水滴が光の息吹を受けて光沢を吸い込んでは宝石のように輝いて魅せれば、吊り橋は湖面を美しく魅せるジュエリーのようだ。
「綺麗・・・」
平凡であるかもしれない、でも、その言葉がぴたりと当てはまるほどの幻想的な世界が眼前に広がっていた。小鳥の囀りがあたりに響き渡ると、どこからともなく狸が数匹現れて、足元のあたりをすり抜けると吊り橋を器用に渡っていく。
「渡るのは後でいいかな」
スマホのカメラを向けて景色を撮影する。狸たちがこちらへと振り返り足を止めた。まるで撮影を終えるまで待ってくれているように感じる。設定を素早く行なってシャッターを数回押すと、狸たちは一目散に吊り橋を渡り抜けていった。撮影した写真には振り向いた狸たちが早く渡りなよ。と言ってくれているような、そんな雰囲気を纏っているように感じた。
「じゃぁ、元気よく渡ろうかな」
幾分か気力を取り戻して、一歩、一歩と細い渡板の上を歩みを進めていく。朝日はその濡れた渡板にも光を宿らせて、進むべき道をさし示しているかのように輝いている。吊り橋の中心あたりで写真を撮り、対岸までを気をつけて渡り終えると、その場から誠のスマホへと朝の挨拶と共に送信した。まだ、寝ているのか既読はつかない。
「起きたら驚いてくれるかな」
誠の素敵な笑顔を思い出して思わず頬が緩んだ。
風光明媚な景色を堪能できたことで気持ちはさらに幾分か和らいでいた。今度は2人で来きましょうと追伸で送り、急な階段をゆっくりと登っていく。ところどころで休憩をとっては振り向いて木々の合間から見えるダム湖を見つめる。先ほどまでの幻想的な風景は消えているが、それでも美しいエメラルドグリーンの湖と吊り橋が見えた。
少し残念な気持ちになりながら、最後の急階段を登り終えて近くのベンチへと腰掛ける。上がってしまった息を整えて、新鮮で優しい香りの漂うひんやりとした空気を肺へと取り込みながら俯いていると、足元に人影が姿を見せた。
「兎卯香」
聞き慣れたその声に反射的に項垂れた頭が跳ね上がる。
「誠さん・・・」
「朝早くから頑張ったね、素敵な写真をありがとう、仕事を早めに終えることが出来たから急いできたよ」
誠はそう言うと兎卯香を優しく包み込むように抱きしめた。
ひんやりとした先にじんわりと温かさが伝わってくると思わず涙がポトリと落ちる。一度、落ちれば、あとはダム湖に注ぐ美しい川の流れのように、とめどなく溢れてきて誠に手を回してしっかりと抱きしめると、誠の胸元に顔を埋めて、声が周りに響かぬようにひたすらに泣いた。
誠の温もりがただただ愛おしかった。
どれくらい泣いていたのだろうと思えるほどに自身の中では長い時間が過ぎた気がする。気持ちの底の方で溜まっていた何かは涙と共に流れ出ていて、いつの間にか、不安のような言い表すことのできない感情は綺麗さっぱりに消え去っていた。
くしゃくしゃになった顔を上げると誠の微笑みが近くにあって、やがて自然に近づいてきたのでそのまま受け入れる。
「そろそろ、歩いて戻ろう。今日はゆっくり2人で過ごそう」
そう言って誠がにこやかに笑ったのだった。
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