第2話
恋は惚れた方が負けと言うけれどその通りだ。
リクルートスーツに身を包んで、目指していた職種の会社の面接を受けては、お祈りメールばかりの絶望的な就職活動をしていた。大学もそこそこ名の知れたところ、成績も上位の方で、面接の感触も悪くはなかったのだけど、結局として上手くはいかなかった。
不意に何もかもが嫌になって、雨がしとしと降る中を濡れながら、そして泣きながら歩いてアパートへと帰宅する道すがらに人とぶつかった。
「ご、ごめんなさい」
先に謝ったのはぶつかってしまった相手だった。こちらが謝らなければいけないのにも関わらずだ。
「こ、こちらこそ、ごめんなさい」
顔を上げるとスーツを着た男性でぶつかった所が見事に濡れて少し困ったような顔をして立っていた。
「風邪ひくよ?」
そう言って彼は持っていた鞄から袋に包まれたタオルを取り出して、それの封を切って私へと差し出した。
「これ使いなよ、うちの会社のだけど、新品で綺麗だしタダだから」
断ろうとすると、彼の手が伸びてきて私の手を掴んでタオルを握らせた。
「きちんと拭くんだよ、風邪ひいたらつまらないからね。ああ、後これあげる」
彼はさしていたビニール傘も、もう一方の手に握らせると、カバンから折り畳みの傘を取り出して何事もなかったかのようにその場を離れていった。
私はその流れにとても心がついて行かず、何が起こったのか分からないまま、しばらくその場で立ちすくみ、その二つの手に握られている傘の柄とタオルを呆然と見つめていた。結局、タオルを使うことなく、傘をさしてアパートまで帰宅した。ずぶ濡れでベトベト張り付くスーツとブラウスを玄関で脱ぎ捨てて、脱衣所で下着類をほっちらかし風呂場へと駆け込むと暖かいシャワーを浴びた。
電球色の温かみのあるお風呂場でシャワーから心地よい温水が肌を伝って流れてゆく。その温かさに思わず目を瞑ってしばらく放心状態で過ごしていた。時間的には少しだったと思うのだけれど、上を向こうとして顔を上げたとたん、くしゃみを立て続けに連発して、ようやく体の芯から冷えていることが理解できた。
バスタブにお湯を張りながら浸かると意識がだんだんと戻ってきて鮮明になり始めた。
「馬鹿みたい」
そう呟いて先ほどまでずぶ濡れで歩いていた自分を嘲笑う。
『風邪をひいたらつまらないからね』
唐突に先ほどタオルと傘をくれた彼の声が聞こえた。思わず肩まで湯につけてしっかりと温まる姿勢をとる。
同じ大学の友人達は夢を追うことをそうそうに諦めて、志望とは違う、でも、それなりの就職先へと合格を果たして大学生活を謳歌している。私は夢を諦めきれず、今だその坩堝の中で必死にもがいていた。
「いい加減にしなさい。そろそろ、決めないとダメじゃないの」
母子家庭で必死に育ててくれた母親から、就職活動のことを聞かれるたびにそう小言を言われる。貴女には私のようには生きてほしくないの、無理しないでいいから安定した仕事を見つけなさい。とも。
でも、それは私とっては負けなのだ、と思う。身勝手な話だけれど、それでも諦めることができない。なんて難儀な性格なのだろうと思う。目の前に置かれたキャラクター物の鏡に映る自分はとても惨めな表情でこちらを見ていた。
「見るな、ばか」
鏡に向かってそう言いながら、私はお湯から上がると一通りのことを済ませて脱衣所へと出る。しばらく面接はないので、スーツをクリーニングに出さなければと身体を拭きながら考えていると、その上に置かれたタオルに目が止まった。
『これ使いなよ・・・』
再び彼の声が聞こえた。バスタオルを体に巻き、そして徐ろに手を伸ばしてそれを広げる。
そこに社名が書かれていた。
志望の業界大手の企業名がそこにあった。流石にその実力はないからと私ですら応募に躊躇ったところだ。そう思いながら畳もうとして床を見ると1枚の名刺が落ちていた。拾い上げて表書きを見ると「〇〇株式会社 東京本社 第二営業企画課 課長補佐 大河原 誠」と書かれており、裏面には、個人の標語と印刷されて、その「 」に達筆な字で「 三振からのフォアボール 」と記されている。野球には詳しくないけれど、思わずクスリと笑ってしまった。三振で負けてもその後に出塁している。一旦負けて、その後に取り返す、そんな意味なのだろうか。
「面白い人」
これが最初の出会いだった、そして、私は彼の会社に就活を挑み、長く険しい苦戦の末に見事に採用を勝ち取った。高倍率であったのに何が良かったのかいまだにわからない、でも、アルバイトから帰宅して郵便受けに入っていた分厚い封筒をドキドキしながら開くと美しい採用通知が入っていた。私の就活を何よりも心配していた、特にこの会社は夢を見過ぎだと言っていた母親に採用通知の写真を撮って送ると、すぐに電話が来た。号泣して電話口で何を言っているかわからないくらいであったけれど、とても喜んでくれていることはよく分かって私も同じように号泣した。
お互いに泣き止んで一通りのことを話した後に、手帳の片隅に綴じていたあの彼の名刺を取り出す。
『三振からのフォアボール』
その言葉通りに最後は理由がよく掴めないままだけれど勝ち得た。この名刺の裏書標語は生涯の宝物といっても差し支えない、いや、宝物となったのだった。今でも丁寧にラミネートした上で常に持ち歩いている。
大学卒業から入社式、新人研修と目まぐるしく過ごした日々が終わると、私は静岡支社に配属となった。研修資料と支給された物品を持ちながら、今では開け閉めにも慣れた静岡支社営業企画課の電子錠にセキュリティーカードをかざしているのに一向に開かない扉にオロオロとしていると、近づいてきた男性が自前のカードでロックを解除した。
「あ、ありが・・・・」
「今日から配属の子かな?確か名前は西部さんだったかな?」
そこに彼がいた。あの時と同じように少し困った笑みを浮かべている。
「は、はい。本日よりお世話になります、西部兎卯香です。よろしくお願いします」
「うん、よろしくね。みんな、新人さんきたよー」
屈託なく笑った彼がドアを開けて室内へ大声でそういうと中からパン、パンとクラッカーの音が響いて細い紙糸が彼に勢いよく飛び散った。
「なんでお前にかかるんだよ」
悪態をついたその時の男が課長補佐の東郷春人さんだ。課内で盛大に笑いが起きて思わず私も笑ってしまう、すると彼がそのままの容姿で私を室内へと招き入れた。
「今日からお世話になります。西部兎卯香と言います、よろしくお願いします」
全員のにこやかな笑顔に囲まれて私は頭を深く下げると、隣から同じように声が聞こえた。
「今日もお世話されます、課長の大河原 誠です。よろしくお願いします」
頭を同じように深々と下げてから彼が私の方を見る。さらにドッと笑いが起きて私の初日はとても楽しく、そしてとても不思議な気持ちで社会人としての第一歩を踏み出したのだった。
そこからは、時に厳しく、時に優しく、仕事を先輩方に教えて頂きながら必死に追いつこうと猛烈に努力を重ねた、夏頃からは1人でも任せて貰える現場が増えてくると、課長から社内コンペに参加するようにアドバイスされ、無い頭でアイディアを必死に絞り出しては先輩と課長に相談し応募したところ社内コンペで優秀賞を勝ち取った。
この頃から、私は課長の一挙手一投足がとても気になり始めていた。あの出会いから課長のことは気になっていたけれど、異性として意識し始めたのはこの頃だ。そこからは持ち前の性格を遺憾なく発揮してあの手この手で振り向かせようと頑張り始めた。当初は周りも不思議そうに眺めているだけで、迷惑にはならないようにね、などと小言を言われたりもしたが、しばらくすると、課長のあまりにも鈍感すぎる性格のおかげもあってか、私は課の全員から同情されるようになった。
「あそこまで気が付かないもんかね」
東郷課長補佐が呆れ果てたように言いながら、今日もうまくいかなかった私を宥める。課長に直談判をすると息巻いていた女性陣にも、私は応援だけ頂いて自力でなんとか頑張り堕とすと断言した。そして新年会の話が出た時に、課内で最長老の源さんがついに痺れを切らして、いい加減、直にいっちまえと、お膳立てをしてくれたのだった。
結果は惨敗。
帰りの道すがら涙を拭きながら家路へとついているとスマホが鳴った。東郷課長補佐からの電話だった。私の恋をとても真剣に応援している1人だ。
「どうだった?」
「駄目でした・・・」
そう言って再び涙腺が緩んでくる。じわりと湧いた涙が頬を伝った。
「そう・・・なんだ。あいつなんて言ったの?」
「年の差があるからふさわしくないって」
「そんなこといったの!?」
「はい・・・」
「すごいね、もうちょっとだね」
「へ?もうちょっと?」
先ほど駄目だと振られたはずだ。
「いいかい、あの唐変木、君を嫌いと言ったの?」
「いえ、それは言われませんでした・・・」
「あいつなりに気を遣ったんだろうけどね、でも、気持ちは傾きかけてると思うよ」
「そうでしょうか?」
その言葉にも心の中でそんなことはないと思てしまう。
「ああ、あいつその辺は誤魔化したりしないから、はっきりというときは言うやつだよ」
「でも・・・」
「諦める?」
「え?」
「いや、諦めるのかと聞いているの」
諦めると言葉に出されてしまうと、持ち前の性格が悲しみを抑えて立ち上がってくる。
「諦めたくありません」
「うん、ならよし。年の差で逃げただけの腰抜けだもの、三振からのフォアボールでいけるんじゃない?」
「え!?」
あの名刺の標語を聞かされて、思わず私は驚きの声をあげた。
「あ、ごめん、あいつの話をしてるとね、ついこの言葉が出ちゃうんだ。あいつが本社で敵無しだった頃に名刺の裏に書いてた標語なの。そうか、この話はしたことないね。あいつもね、食い付いたら離れない性格だったんだ。最初は負けても次は相手が思わずエラーしてしまうくらいの攻勢をかけて勝ち取る、そんな性格だった。色々あって今みたいになってるけどね」
今の様子とは考えても思い付かないほどの姿だ。課長はいつものんびりと、雄大に構えていて、大人の余裕以上に落ち着いた感じのする、悪い言い方をすれば気力の抜けたような人でもある。
その言葉に私の気持ちに再び火がついた。
「もう少しだけ、挑んでみます」
翌日から私は更なる攻勢にでた。
嫌われるのを覚悟して怒涛の勢いで徹底的に挑み続け、そして半年後、飲みに誘われた帰り道にあのベンチで謝罪から始まる告白を受けた。返事をせずに立ち上がってその場を離れようとすると人目も憚らず、引き寄せられて思いっきり抱きしめられ、心からとも言える愛の宿る想いをしっかりと受け取ることができたのだった。
一年と少しを経て私の恋は叶い、あの標語に再び私は救われた。そして大学からの仲の良い友人達からは、「重たい女」の称号も頂いた。
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