5-9 夢見る猫と目覚める猫

 白い霧に包まれたみたいに周囲がぼんやりして見える。視界は明るく、水中を漂っているような浮遊感を感じるものの体は少しも動かない。異常な状況。それにもかかわらず不思議と危機感はない。

 久遠は動かない首を気持ちはかしげながら目の前の光景を眺めていた。


 久遠は大人に手を引かれ、猫ノ目家本邸の長い廊下を歩いていた。手を引く大人に見覚えはないのに知っている気がする。誰だろうと考えていると急に頭に映像が浮かんだ。それは久遠には覚えのないもので、映画のように流れる記憶を眺めていくうちに、これが透子の記憶であると気がついた。


「母上は?」


 声を発したつもりはないのに自分の口から女の子の声が出る。今に比べれば高く丸いが透子の面影を感じる幼い声。


「母上はどこ?」


 幼い声に不安と悲しみをにじませながら透子が周囲を見渡す。それに合わせて視界が動く。自分の意思と反した動きに戸惑っていると透子の気持ちが流れこんできて、久遠は透子と一緒に泣きそうになった。


 透子の不安そうな声を聞いて、手を引いていた女性が足をとめる。お婆ちゃんといって良い外見だが背筋は伸び、久遠からすれば見慣れない着物姿も堂に入っていた。

 女性は一瞬悲しそうな顔をしたが、すぐさま笑顔を浮かべ、透子の前に跪いた。


「透子様の母上はご病気でお休みになっています。今は会えませんが、近いうちに元気になって帰っていらっしゃいますよ」

「……本当に?」

「もちろんです」


 女性は柔らかな笑みを浮かべる。子供を安心させようとする優しい笑顔。それでも透子の心は少しも晴れない。透子の内心がなぜだか透子と一体になっている久遠にはよく分かる。だから胸がズキズキと傷んだ。

 

 この頃の透子はまだ幼かった。母がどんな病気になったのか、なぜ離れなければならないのか分かってはいなかった。それでも、母が自分のせいでおかしくなったことだけは理解していた。


 透子はまだ小さな手で自分の首を撫でる。手に肌とは違う感触が伝わり、そこには白い包帯が巻かれていることを久遠は思い出した。その包帯がつけられたのは数日前だということも。

 

「透子、黄色だったから、母上病気になったの?」


 金眼じゃないなら意味がないと泣きながら透子の首を両手で絞めた母の姿が脳裏に浮かぶ。「好きでもない男と結婚までしたのに! なんで金眼に生まれてくれなかったの!」そう叫んだ母の悲痛な声が耳に残っている。

 当時の透子には言葉の意味はよく分からなかった。しかし、その意味を成長とともに透子は理解してしまった。自分の存在は母にとって呪いでしかなかった。猫狩を産まなければいけないのに産めなかったという証明でしかなかった。だから中学生になった透子は必死に役目を果たそうとした。そうしなければ自分のせいで病んでしまった母に顔向けできなかったし、自分が生きている価値が分からなかった。


「透子様のせいじゃありません。透子様が生まれてくださって、わたしたちは本当に嬉しいんですよ」


 現実と夢の境界線が曖昧になっている間に女性は透子の手を握りしめた。母に比べると角ばってシワの多い手。それは温かいけれど透子の求めるものじゃない。透子の黄色の瞳は熱くなり、涙が溢れそうになった。


「透子様、これから透子様の守人を決める大切な顔合わせが始まります」

「守人?」


 涙声で透子は女性の顔を見つめる。女性は透子の頭を優しく撫でながら柔らかな声で告げた。


「透子様を護り支える特別な存在です。透子様にとって一番の友人や家族になってくれるでしょう」

「……母上みたいに遠くにいかない?」

「はい」


 女性は深く頷いた。透子は考える。守人というのは唯一無二なのだという。唯一無二というものが幼い透子にはよく分からなかったが、きっと特別なのだ。

 友人、家族。どちらも透子にはよく分からない。母も父も透子が金眼じゃなかったから離れてしまった。だったら離れない誰かが欲しい。優しく頭を撫でてくれる人がいい。


 その時、子供の泣き声が聞こえてきた。透子の様子をうかがっていた女性は驚いた顔をして声の方へと顔を向ける。透子も身を乗り出すようにして声の方へと視線を向けた。


 庭に透子と同い年くらいの男の子の姿があった。転んでしまったのか、地面に尻もちをついたまま泣いている。膝からは血が出ていて痛そうだ。

 どうしようかと透子は女性に視線を向けた。女性は腰をうかせ、男の子の方へと歩き出そうとする。その歩みは「どうしたの?」という女の子の声で止まった。


 透子よりも少し上くらいの女の子は泣きじゃくる男の子の隣にしゃがみこんで頭を撫でる。「大丈夫、痛くない、痛くない」と告げる優しい声に男の子の泣く声もだんだん落ち着いてきた。


「そのままだとバイキン入っちゃうんだって。洗ってから絆創膏はろう。猫の絆創膏もってるから」

 そういって女の子はポケットから絆創膏を取り出して男の子に見せた。男の子は涙目のまま頷いている。


「しっかりしたお姉さんねえ」


 女性の感心したような声が聞こえるが、透子は女の子から目が離せなかった。優しい笑顔に優しい声。透子が欲しくてたまらないものを持った女の子は誰よりもキラキラと輝いて見えた。


「あのお姉ちゃんがいい!」


 透子は隣にいる女性の着物を引っ張った。驚いた顔で透子を見下ろす女性にもお構いなしでグイグイと力強く着物を引っ張り、女の子を指差す。


「透子、あのお姉ちゃんに守人なってほしい!」


 さっきまで泣きそうだったのが嘘みたいに、黄色の瞳を輝かせる透子を見て驚いていた女性は微笑んだ。再び透子に視線を合わせてしゃがむと嬉しそうに笑う。


「では、守人になってくださいってお願いしてみましょうか」

「うん!」


 透子は女の子の元へ駆け出した。いきなり走りよってきた透子に女の子は驚いた顔をしたが、すぐに優しい笑顔を浮かべてくれる。「どうしたの?」と透子に話しかけてくれる姿は透子の待ち望んだものだった。だから透子はいったのだ。


「私のお姉ちゃんになってください!」



※※※



 夢から覚めたように急に視界が広くなった。さっきまでの透子と一体になっていた感覚が消えて、自由に体が動かせる。

 横になっていた状態から上半身を起こした久遠は自分の手を見つめ、開いて閉じてと動かしてみる。自分の意思で自由に動く体に、自分の視界。少しの間だったのに、ずいぶん懐かしい気持ちになった。


「人の記憶にズケズケと入り込んでくるとは、とんだ無作法者だな」

 先程よりもずいぶんと低く、刺々しくなった、それでも聞き覚えのある声に久遠は顔を上げた。


 普段遣い用らしい袴姿の透子が腕を組んで仁王立ちしている。その周辺は真っ白で、終わりが見えない。

 ここは現実世界じゃない。そう久遠はなぜか理解できた。着ていたはずの狩装束から、愛用しているパーカーに服が変わっているのも現実世界じゃないから不思議ではない。


「いや、どこここ」


 思わず自分の思考に自分で突っ込んでしまう。不可思議な状態だというのに焦りが全く浮かばないのがまた不思議で久遠は周囲をぐるりと見渡した。そんな久遠を透子は不機嫌そうな顔で見下ろしている。


「ここはおそらく、私の精神世界だ」

「……透子さんの精神世界?」

「霊力同士をぶつけ合うと、時折こういう現象が起こると聞いた。霊力とは魂に結びついているものだからな。お前は私を助けようと私に霊力を注ぎ込んだ。取り憑かれた私は抵抗して押し返そうとした。その結果、二人で、……いや、私がお前を自分の世界に引きずり込んだというべきか」


 透子は忌々しげに白い空間を睨みつけた。透子としては不本意極まりないのだろう。透子の立場だったらと想像して久遠は青くなる。自分だって他人に胸の内を覗かれたくはない。


「わざとじゃなかったんですけど、すみません!」

「頭をあげろ。謝罪するべきは私の方だろう」


 思わず土下座すると上から不機嫌そうな声が降ってきた。謝罪するべきと言いながら声は高圧的で、謝罪する人の態度ではない。チグハグな言動に不思議に思いながら顔をあげると不貞腐れたような顔をした透子が視界に入った。


「……嫌なものを見せた。不快だっただろう」

「そんなことはないですけど」


 そう言いながら久遠は目を伏せた。頭は上げたもののなんとなく正座の体勢は崩せない。

 不快さはなかった。ただ辛くて悲しかった。透子の感情と記憶が流れ込んできたから、苦しいほどに透子の気持ちがよくわかってしまった。


「お前には頼らず、全部一人で解決しようと思っていたのに、結局お前に助けられ、多くの人に迷惑をかけた。……誠にも辛い想いをさせた」


 毅然とした透子の顔がゆがむ。初めて見る弱々しい表情に久遠はなんだかホッとした。敵に攻撃されないように分厚く透子の周囲を囲っていた棘がバラバラと落ちていく。それと一緒に抱え込んでいた重荷も消えていくようで、久遠は嬉しかった。


「見たならわかるだろう。私は弱い。臆病者だから必死に虚勢を張っていただけだ。帰ってきたばかりのお前にもずいぶん酷い態度をとってすまなかった」


 透子はそういったが久遠から見れば透子は十分強い。母に殺されそうになり、父は自分に無関心。兄のように慕っていた道永の目が見えなくなってから、心の拠り所は誠だけだった。それでも猫ノ目を護るために甘えを捨てた。姉のように慕うのをやめて、主と従者という立場であるべきだと己を律した。それがさらに透子を追い詰めたが、それでも透子は立っていた。不安や恐怖を殺して、猫狩として戦い続けた。そんなこと久遠には出来ない。


「俺、小さい頃から母に目をそらすなっていわれて育ちました。目をそらしたらもっと怖くなるって」

 急に関係ないことを話し始めた久遠に透子は眉を寄せる。何を言っていると視線で問われたが久遠は話し続けた。


「俺はそれでも目をそらし続けました。ケガレは怖かったし、金色の目を不気味だっていう他人も怖かった。護ってくれる両親に甘えて、逃げ場所にして、母の目をそらすなって言葉からも逃げた。

 でも透子さんは逃げなかったんですよね」


 金眼に生れられなかったという劣等感を抱えながらも猫狩であることからは逃げなかった。家からも使命からも逃げなかった。


「俺、ここに来て、やっと目をそらさないようになったんです。目をそらしたら大事なものがなくなってしまうって両親が死んでやっと気づいたんです」


 久遠が怖がって引きこもってる間に両親は死んでしまった。一緒についていったからといって何かが変わったとは限らない。一緒に死んでいたかもしれない。それでも久遠は「いってきます」と笑った両親の姿が忘れられない。臆病で怖がりな自分が勇気を振り絞っていたら、助けられたのではないかと考えてしまう。


「透子さんは俺がやっと気付いたことにずっと前から気づいていた。自分が臆病者だって自覚しながらずっと目をそらさなかった。透子さんが自覚していないだけで、透子さんは強いんです。だから誠さんは透子さんを支えようとしたし、透子さんを諦めなかった」


 立ち上がり久遠は透子に手を伸ばした。


「透子さん、帰りましょう。誠さんが待ってます。俺も透子さんと話したいことがあるんです」

「……私はお前に酷い態度をとっただろう」

「最初は怖い人だと思いました。あんまり関わり合いになりたくないと思ってました。けど、今は違います。俺、すぐに逃げようとしちゃうので、透子さんみたいな人が見張っててくれないと困るんです。守さんも道永さんも俺に甘いから」


 久遠が苦笑すると透子は眉を下げ、困ったような顔で笑う。


「お前だって十分強いよ」


 透子の手が久遠の手にふれる。柔らかくて温かい。生きてるとわかる温度。それに久遠は安堵した。



※※※



 再び目が覚める感覚。今日何度この感覚を味わっただろうと思いながらぼやける視界を眺める。徐々に焦点が結ばれ、視界が鮮明になると久遠を覗き込む守の表情がよく見えた。


「く、久遠様が起きました!!」


 寝起きには遠慮して欲しい大声が耳を通り抜け、久遠は思わず顔をしかめた。体がやけに重いし頭が痛い。もしかしてまだ夢の中? と考えたが、体の節々が妙に痛いことで現実だと気がついた。


「体……痛い……」


 うめき声を上げると大騒ぎしていた守がハッとして久遠の顔を覗き込む。心配そうな守に大丈夫だと伝えたいのだが、体が重たすぎて声を出すのも億劫だ。


「動こうとするな。体ができあがってない状態で相当無理したんだ。霊力も空っぽになってるし、しばらく大人しく療養しろよ」


 動かせない視界の中に生悟が入り込んでくる。鳥の面は外され、上半身は裸だった。そこに巻かれた白い包帯が痛々しい。よくよく見れば細かいかすり傷がたくさんあり、戦いの名残が見えた。


「ケガレ……は?」

「お前と透子が気絶してる間に片付いた。透子に取り憑いていたケガレを浄化したら、ケガレたちの勢いも落ちついた。数は多くて面倒だったが、それだけだ。久遠のおかげで事態は丸く収まった。怪我人は多数だが死者はゼロ」

 生悟は歯を見せて笑い、久遠の頭を撫でる。


「伝説に残る初陣だ! おめでとう! そしてありがとう! お前のおかげで誰も死なずにすんだ」


 良かったと言葉にならない安堵の吐息が漏れた。安心したら急に眠くなってくる。空を見上げれば遠くの方が明るくなっていた。空を覆っていた暗闇が晴れ、明るい日差しが差し込んでくる。その事実にこれほどまでに安心したのは初めてだった。


「守さん……俺、疲れたので……寝ます」

「はい。ゆっくりお休みください」


 そういって守が久遠の手をとった。夢の中で触れた透子の手に比べると角ばった男らしい手。両親の手ともまるで違う。それでも久遠は守の手に安心した。

 不思議だなと思いながら久遠は目を閉じる。


 よく頑張ったという両親の穏やかな声が聞こえた気がした。

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