第四話 空飛ぶ猫

4-1 悪夢を見る猫と悲しむ従者

 透子は大人に手を引かれて本邸の廊下を歩いていた。周囲をキョロキョロと見渡しても目的の人物が見つけられず、大人を見上げる。


「母上は?」

 前を向いて歩いていた大人が足を止め、透子を見下ろした。その顔はよく見えない。


「母上はどこ?」


 聞こえなかったのかと思って透子はもう一度質問する。それに対して大人はとても怖い顔をした気がした。それは分かるのに、やはり大人の顔はよく見えない。


「あの方は離れにいらっしゃいます」

「なんで離れにいるの? 透子も離れに行きたい」

「ダメです」


 キッパリと大人は言った。泣きそうになる透子を無視して、再び歩き出そうとする。透子は嫌だと頭を左右に振って、逃げようと手足に力を入れた。けれど、まだ幼い透子の抵抗なんて無力なもので、大人は無理矢理透子を引っ張っていく。


「今日は透子様の守人を決める大事な日です。あの方のことなどお忘れになって、素敵な守人をお決めになってください」

「いやっ! 母上のところに行きたい!」


 透子は足を踏ん張って必死に抵抗した。そんな透子を大人はあきれた顔で見下ろした。なんでそんな反応をされるのか透子には分からない。母親のところに行きたいと思うことはそんなに悪いことなのだろうか。


「透子様、目を覚ましてください。あの方は透子様のことなど愛していませんよ」


 大人はハッキリとそう告げた。幼い透子でもその言葉の意味はよく分かる。抵抗を止めて大人を見上げた。その顔は真っ暗だった。


「あの方は、透子様に興味が無いのです。金眼に生まれなかった透子様のことなど、どうでも良いのです」


 大人はなおも言葉を続ける。透子は頭を左右に振った。嫌だ。聞きたくない。そう言って逃げたかったのに大人は手を離してくれない。震える手を握りしめて、透子が聞きたくない言葉を口にし続ける。大人に捕まれた手から嫌なものが這い上がってくる。目の前に立っていた大人の体が崩れて、黒い塊に変わる。

 それは人の形まで大きくなったケガレだった。ドロドロと粘つく体は溶けた人間にも見えて、透子は悲鳴を上げた。手を振り回してどうにか逃げようとしても溶けた体の一部が透子の体に絡みついて、飲み込んでいく。


「あの女は頭がおかしくなってしまったのだ」

「金眼が生まれないのだから仕方ない。黄色で我慢するとしよう」

「きっと透子様は立派に務めを果たしてくださる」


 気づけば周囲は真っ暗で、暗闇の中から声が響いてくる。嫌だ、聞きたくないと耳を塞ごうとしても手足が動かず、声が響くたびに体が重たくなっていく。それでも必死に逃げようとあらがっていると、暗闇の中から白い女の手が伸びてきた。


「なんで金眼じゃないの」

 すすり泣く女の声が上から降ってくる。透子が顔を上げると白い手が透子の首を締め上げた。


「金眼じゃないなら、なんの意味も無い」


 首が絞まる。呼吸が苦しい。どうにか手をはずそうともがく透子の視界に入ったのは自分をのぞき込む女の顔。憎悪のにじんだ黒い瞳が透子をめつける。その顔は、鏡に映る自分とよく似ていた。


「透子様!!」


 空気を切り裂くような声に透子は目を開いた。心臓が早鐘のように音を立てる。暴れる呼吸を整えながら、胸に手を当て上半身を起こした。寝間着が汗で濡れ気持ちが悪い。汗をかいたところからひやりとした空気が体に広がって、透子は身震いした。


「うなされていました。悪い夢でもみたのですか?」


 隣から聞こえた心地よい声に顔を向ければ、誠が心配そうに透子をのぞき込んでいた。まだ寝間着の透子と違ってワイシャツにスラックス姿だ。女子高校生らしく、かわいらしい服が好きなのに最近はめっきりおしゃれをしていない。透子が男物の袴を着ているから合わせてくれているのだと気づいている。気づいているのに止めろともいえず、感謝もいえていない。

 起きたばかりだというのに頭が重く、鈍い。額を抑えて透子は深呼吸した。


「大丈夫だ……」


 絞り出した声は自分でも驚くほどかすれていた。先ほど見た夢の光景が頭から離れない。首を絞められた感触が、自分を見下ろす女の表情が生々しく思い出される。夢と言うにはリアルすぎると思ったところで自嘲がもれた。

 幻ではない。あれは過去に起こったことだ。


「すまなかった。すぐに着替える」

「体調が悪いようでしたらお休みください。透子様には休養が必要です」

「私がいない間になにかあったらどうするんだ」


 布団から這い出ようとしたが思うように体が動かない。それに透子は舌打ちして無理矢理体を起こした。誠がなにか言いたげに透子を見つめているが黙殺する。誠が自分のことを気遣ってくれていることは分かっていたが放っていて欲しかった。


 頭の中で声が木霊する。

 金眼が良かった。黄色はいらない。金眼じゃないなら意味が無い。


 奥歯を噛みしめると歯がぶつかり合う音がした。頭に血がのぼる。なにも知らず、親から愛され、のんきに生きてきた久遠の顔が浮かんでイラついた。


「湯浴みに行く」

「はい。準備は出来ております」


 誠が恭しく頭を下げる。その姿に一抹の寂しさを覚えて透子は慌てて振り払った。今、猫ノ目で動ける猫狩は自分だけ。普通の子供のように甘えたいなどと軟弱なことを言っている場合ではないのだ。

 透子が起きる時間を考えて使用人はお風呂を用意してくれている。食事だって夕方に起きて、夜にかけて準備を整える猫狩と追人のためにわざわざ作ってくれているのだ。そんな好意を無にするわけにはいかない。自分が踏ん張らなければ猫ノ目は潰えてしまう。


 着替えとタオルを持つと誠が障子を開けてくれる。差し込んだ日差しに透子は目を細めた。時間帯としては学校が終わった頃だろうか。昼に眠り夜に活動する生活を送っていると学校に通えていた頃が遠い昔のように思える。


「透子様、今お目覚めですか」


 夜の巡回に参加する者の部屋が固まっている区域に、珍しい人物が立っていた。透子と違って朝から起きていただろうにくたびれた様子はない。なでつけた髪も高級そうなスーツも一切の隙がなく、大人の貫禄を見せつける。それでいて値踏みするようにこちらを見下ろす目が透子は苦手だった。


「十兵衛さん、なにかご用ですか?」


 透子を守るように前に出た誠が固い声を出す。場違いな人物に警戒しているのがわかった。

 

「用ってほどでもありませんが、在宅だったのかと」


 口調は丁寧だが十兵衛の目は冷ややかだ。形ばかりの敬称はむしろ透子をバカにしているようだ。それに透子はひるみそうになるのを堪えて、十兵衛をにらみつけた。


「どういう意味です?」

「道永様と久遠様が定例会に出席したと聞いたもので、てっきり透子様も一緒だと」


 わざとらしく首をかしげた十兵衛に透子は目を見開いた。

 聞いていない。定例会が今日あることは知っていた。知っていたが、透子と違って血の濃い狩人たちの中に混ざるのは気が進まなかった。特に生悟の混じりけの無い赤色を見るのが嫌だった。だから忙しさにかまけて欠席し続け、周囲になにも言われないのをいいことに報告もしていなかった。

 定例会の詳しい日時と場所を道永は知らないはずだ。透子は伝えていない。となれば誰かが道永に伝えた。いや、それ以上に……。


「なんでアイツが……!」


 霊力が制御下から外れて膨れ上がった。誠が慌てた様子で透子を見た。抑えなければいけない。そう分かっていたのに怒りが沸々とわき上がる。


「透子様はお疲れの様子なので、気を使ったのでしょう」

 十兵衛はそういうが相変わらず声も表情も冷たい。透子の反応を値踏みしているような嫌な視線に苛立ちが増していく。


「道永様はお優しい方ですから、久遠様が戻ってきたからといって透子様を見限ることなんてありませんよ」

 そういって十兵衛は薄く笑った。その言葉と表情に透子は凍り付く。


「当然です!! 透子様はしっかり務めを果たしてらっしゃいます! 道永様はあなたのような薄情な方ではありません!」


 誠が透子の前に立ち塞がって吠えた。いつも透子の後ろをついて歩く、穏やかな誠らしからぬ荒々しい声。それに十兵衛は意外そうな顔をしたがすぐに表情を消す。


「そうですね。道永様はお優しい方だ。人を切り捨てるなど出来るはずもない」


 例え、黄色の用なしでも。

 そんな言葉が裏に潜んでいる気がして透子の体はこわばった。


「無礼な! こちらは猫狩様であらせられます! 自分の身分をわきまえなさい!」

「失敬。そんなつもりはなかったのですが、不快にさせたようで」


 軽く頭を下げた十兵衛は、「それでは失礼します」とすぐさまきびすを返した。誠は立ち去る十兵衛の後ろ姿をにらみつけている。いつになく殺気だった誠を主人として諫めるべきなのに言葉が出ない。


 金眼じゃないなら、なんの意味も無い。


 かつて言われた言葉が頭の中で響く。頭を殴りつけられるような感覚がして、透子は頭をおさえた。異変に気づいた誠が透子を支えてくれるが、お礼をいう気力もない。


「大丈夫、私は大丈夫だ」


 透子はそう繰り返す。言葉にすれば大丈夫なのだとひたすら。言えば言うほど喉が渇いて、心が悲鳴を上げている気がしたが、そんなの気のせいだと言い続けた。そんな透子を誠が泣きそうな顔で見ていることにも気づかずに。

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