2-3 引きこもりたい猫と隻眼の守人
頬に湿った感触がして久遠は身動ぎした。生暖かいなにかが頬にふれる。それから逃れようと手を動かせば今度はその手になにかが触れる。
久遠はゆっくり目を開いた。障子を通して朝の光が差し込んでいる。ケガレとの戦いで壊れた障子ではない。裂け目一つないきれいなそれに、あの戦いは夢だったのではないかと半分眠った頭で考える。
あれもこれもきっと夢。久遠は朝の日差しを避けるように体を動かして、再び布団に潜り込もうとした。
それを阻止するように猫の声が頭上で響く。つづいて頭に小さくて柔らかいなにかが触れる。猫の足だと覚醒してきた頭が理解した。
「ヨル……もうちょっと、寝かせて」
正体がわかれば不思議に思うことはない。久遠の頬や手を舐め、頭を前足で叩いているのはあの夜保護した黒猫。ヨルと名付けられた女の子だ。
赤い首輪につけられた鈴がチリン、チリンと音をたてる。猫は獲物を狩る時、鈴の音がならないように動く。初めて首輪をつけられた日はヨルも戸惑ったようだが、次の朝には久遠の枕元にネズミが三匹きれいに並んでいた。あの時のヨルのドヤ顔を久遠は忘れられない。
ということは、今ヨルが鈴の音をうるさいほど頭上で鳴らしているのはわざと。こうしてうるさく音を立てたら久遠が起きると分かってやっているのである。
「ヨル……お願いだからもうちょっと……」
てしてしどころか軽く爪をたててくるヨルから逃れ布団の中に避難する。もう朝という理論は引きこもりの久遠には関係ない。もう少ししたら守が様子を見に来る時間だから、ご飯はその時にもらってくれと心の中でヨルにうったえる。
再び意識がまどろむ。にゃあ、にゃあというヨルの声が聞こえたけれど、眠気には抗えない。そもそも昨夜、遊んでくれとはしゃぎまわったヨルのおかげで眠いのだ。俺は悪くないとヨルに向かって心の中で言いながら、久遠は再び眠りに落ちようとした。
「おっはようございまーす! 久遠様!!」
スパーンと勢いよく障子の開く音がした。直後に部屋に響き渡るどころか襖を突き破りそうな快活な声がする。さすがの久遠も飛び起き、ヨルは毛を逆立てて猫用ベッドに逃げ込んだ。
上半身を中途半端に起こした状態で目を瞬かせる。まどろみから無理やり起こされた、ぼんやりとした状態のまま久遠は声の主を見上げた。
染めたらしい金髪の髪を逆立て、片目に黒い眼帯。その下には眼帯では隠しきれない大きな傷が顔半分どころか首までのびている。人によっては顔をしかめてしまいそうな傷跡だが、当の本人は全く気にした様子がなく自信に満ち溢れた表情。ド派手な刺繍が施されたスカジャンを身にまとった二十代くらいの青年が障子を開け放った体勢のまま久遠を見下ろしていた。
お近づきにはなりたくないタイプ。そう判断した久遠はとっさに逃げようと腰を浮かせたが、すぐに無理だと気づいた。
ここは久遠の部屋で、部屋の隅にはヨルがいる。猫用ベッドごと抱えて逃げるにしても、唯一の出口は青年が塞いでいた。
となれば久遠に残された道は一つ。猫ノ目に来た当初にやった押し入れへの籠城だけである。
チャンスは一度だと久遠は障子をあけた体勢のまま動かない青年を睨みつけた。そんな久遠の態度に、なぜか青年の表情が楽しげなものへと変わる。
予想外の反応に久遠は目を見開いた。この人は何者で、なんでそんな顔で自分を見るのか。混乱した頭で久遠が考えていると、廊下を全力で走る大きな足音が近づいてきた。
「
そう叫びながら走り込んできたのは守だった。久遠に見せる落ち着いた表情をかなぐり捨てて、血走った目で要と呼ばれた青年の体を掴むと前後に勢いよく揺さぶる。要を警戒していた久遠ですら同情してしまうような手荒な動作だったが、やられた要の方は歯を見せて笑った。
「守から繊細って聞いてたから心配してたけど、思ったよりも強そうなお人じゃないか。いやー良かった、良かった」
「よくないですよ!! 久遠様が怖がって、再び押入れの人となったらどうするつもりですか!! せっかく会話してくれるようになったのに! 一生恨みますからね!!」
「最悪、襖壊してでも連れてこうと思ってたからさー。ごめん、ごめん」
目の前で繰り広げられるまったく笑えない会話に久遠は気づかれないように距離をとった。守のいつにないハイテンションも引くが、頼みの綱だった押入れ籠城も破壊によって突破される予定だったと聞けば穏やかでいられるはずもない。
唯一の癒やしであるヨルのもとによろよろと近づけば、ヨルも怯えた目で要と守を見つめていた。心の友はヨルだけだ。
「というかいいのか守、久遠様、怯えてるけど」
「えっ」
揺さぶられながらも久遠の動きは見ていたらしい。その事実に久遠は警戒を強めてヨルが入った猫用ベッドを抱きしめた。ヨルも毛を逆立ててベッドの中でシャーと唸り声をあげる。
その様子を眺めた要はなぜか笑みを深め、嬉しそうにうなずいた。
「なにも知らず外で育ったって聞いてどうなることかと思ってたが、才能ありそうだな」
「当たり前です! 久遠様ですよ!!」
要から手を離した守が拳を握りしめる。一体どこに当たり前要素があったのか久遠には分からない。
「……守さん、この人は?」
いつになくハイテンションな守も怖いといえば怖いが、知らない人よりはまだマシである。久遠はヨルを背に隠しつつ、じっと要を見つめた。要は久遠の視線を受け止めると、いきなりしゃがみこんで頭を下げる。
「ご無礼をお許しください。私は猫狩筆頭、道永様の守人を務めております。要と申します。以後お見知りおきを」
ガラリと変わった態度に久遠は目を瞬かせた。守も戸惑った様子で要を見つめ、居心地悪そうに要の隣に正座する。
「要さん……最初からそうしてください……」
「最初に障子の前でこの挨拶したら開けてくれました?」
顔をあげた要が口角をあげて久遠を見つめた。久遠は目をそらす。その様子を見て守は眉を寄せた。
「だから私と一緒にくればよかったんです。私と一緒だったら久遠様も……」
「開けました?」
再び要に笑顔で問いかけられて、久遠は気まずくなった。その反応に守がショックを受けた顔をしたのは申し訳ないと思ったが、怖いものは怖いのである。
「久遠様の人見知りが激しく、警戒心が強いこともよく分かっています。出来ることなら怖がらせたくはありませんでした。信じてもらえないかもしれませんが」
要はそこで言葉を区切ると頭を下げた。真摯な態度を見ると文句もいいにくく、久遠は居心地悪い空気から逃れようと畳を見つめた。
「今回うかがったのはこの部屋から、我が主が暮らす離れに移っていただくためです」
提案ではなく決定事項だった。数日前に一ヶ月暮らした部屋から移り住んだばかりだというのに、すぐにまた別の場所へ移れという。しかも知らない人が暮らす場所に。
久遠は畳を見つめるのをやめてヨルが入った猫用ベッドを抱きしめた。それから嫌だという気持ちをこめて要を睨みつける。
「もちろん、そちらの黒猫、ヨル様をお連れして構いません。ヨル様用のおやつ、おもちゃ、キャットタワーも用意してありますよ」
キャットタワーという言葉に久遠はピクリと反応した。
ヨルはまだ幼いらしく、好奇心旺盛で遊ぶことが好きだ。久遠も出来る限りかまっているが、猫じゃらしやおもちゃがあったらもっと遊んであげられるのに。そう思うこともあった。それがすでに用意されていると聞くと久遠の心は揺れる。
だが、相手は知らない人だ。なんで久遠に良くしてくれるのかも分からない。知らない人に物をもらってはいけないと両親にもきつく注意されていた。
「しかも、こちらと違って離れなので、我が主と私、守くらいしか出入りはございません。猫ノ目本邸からも離れているので、人の目を気にする必要も」
「いきます」
気づけば考えるよりも先に声が口に出ていた。要は満足そうにうなずいているが守は嘘でしょ。という顔で久遠を見つめている。
少し冷静になった久遠は守から顔をそむけた。
「では、久遠様の気が変わらないうちにお引越ししましょうか」
膝をついたままニコニコ笑っている要を見て、この人結構食えない人なのかもしれない。そう久遠は思った。決して自分がちょろいわけではない。そう誰ともなく言い訳しながら少ない荷物をまとめるために立ち上がる。
「く、久遠様……」
情けない声を出す守とは目を合わせられなかった。
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