1-9 戦う猫とケガレ

 とっさに久遠は後ろに飛び退いた。先程まで久遠が立っていた場所にケガレの爪が深々と刺さっている。ケガレは爪を抜こうと奇声をあげながらもがく。そのたびに床に爪痕が残った。


 それはいずれも深い。普通の猫ではありえない、ノコギリで切ったような痕だった。

 あれが当たっていたらどうなっていたのか。それを想像するだけで冷や汗が流れる。


 ケガレの動きが止まっているうちに逃げたほうがいい。それは分かっているのだが、久遠の体は動かない。

 恐怖もある。それ以上に取り憑かれた黒猫のことが心配だった。あんなの普通の猫の動きではない。無理やり動かされたような不自然な動き。鋭すぎる爪。

 放っておいたらまずい。そんな根拠のない直感で久遠の動きが鈍る。


 どうにかしなければいけない。けれど、どうすればいいのか。久遠は必死に頭を動かす。時間をかければ爪を抜いたケガレが襲いかかかってくる。


 なにかあったら連絡してください。必ず駆けつけます。


 頭に浮かんだのはさっきまで見ていた言葉。久遠はすぐさま部屋に駆け戻る。ケガレの耳障りな鳴き声を無視して、机の上においたスマートフォンを掴んだ。ずっと見ていたから守の番号は覚えている。


 頼むから繋がってくれ。そんな気持ちでコール音を待つ。一回、二回、それだけでもずいぶん長い気がした。


「もしもし、久遠様ですか?」

「助けて!!」


 守の声。それに安堵する余裕もなく久遠は叫ぶ。電話の向こうで守が息を呑む音がする。


「落ちついてください! すぐ向かいます! なにがあったんですか」

「わからない……いきなり猫が……黒猫が襲いかかってきて……きっと取り憑かれたんだ」


 取り憑かれた。という言葉に守の緊張がましたのがわかった。それからなぜ。というつぶやきが聞こえる。


「久遠様は逃げてください!! 明るい方にいけば人がいます。まずは身の安全を……」

「でも、猫が!」


 自分が逃げたら黒猫はどうなるのか。

 ケガレに取り憑かれた動物がどうなるのか久遠は知らない。あの本に書いてあったのかもしれないが、久遠は流し見しかしなかった。今になって後悔する。もっと真剣に呼んでいれば解決策が見つかったかもしれない。


「今は久遠様の安全が……」

「友達なんだ!」


 猫はどう思っているか分からない。でも久遠はそう思っていた。蔵の裏にいくたびに歓迎するように鳴いてくれた。必ず久遠の近くで眠った。帰るといえば不満そうに尻尾をゆらして、また来い。というように久遠の顔をじっとみた。

 全部久遠の妄想かもしれない。それでも久遠は嬉しかった。両親が死んでからずっと感じていた不安と恐怖が猫たちと一緒にいるときは忘れられた。


 また失いたくない。もう一人になんてなりたくない。


「俺は特別なんでしょ。だから金色の目を持って生まれた。だったらなんとか出来るはずだ!」


 そうじゃないなら、なんでこの目で生まれたのか。ケガレを倒すために獣の血を受け継いだのなら、今この瞬間に使えなくてなんの意味がある。


 守がなにかを言おうとしたのが分かった。それを聞くよりも先に久遠はその場を飛び退く。背後で嫌な気配が膨れ上がった。それから逃げるように移動した久遠の視界を黒猫――ケガレが横切る。


 ギシャァア!!


 猫とは思えない絶叫。毛を逆立て、歯をむき出し、目をつりあげたケガレが久遠をにらむ。


 ケガレの後ろには真っ二つに割られた机があった。飛び退かなければ二つに引き裂かれてのは久遠の体だ。


 向こう側に久遠の手から滑り落ちたスマートフォンが光っている。守のすぐ向かいますから!! という言葉を最後に通話は終わり、ツーツーという音が部屋に響く。


 ケガレは二度も避けられたためかすぐにとびかかってはこなかった。次に久遠がどう動くのかじっと観察している。

 黒いモヤに完全に覆われた黒猫の体は目だけが殺意で光っている。その姿はもはや猫ではない。ただの化物だ。


 どうすればいい。

 久遠はケガレを見つめながら考えた。目をそらしたら負けだ。そんな気持ちだけでケガレを見つめ続ける。

 ケガレは見ていて気分の良いものではない。見ているだけで不安になる。嫌なことを思い出す。だから久遠はケガレが嫌いだった。母に目をそらすなと何度言われても泣いて嫌がった。


 けれど今は、母のいった言葉の意味がわかる。目をそらし、隙きを見せればケガレはすぐさま久遠を切り刻む。友達を助けることもできずに無様に死ぬ。

 それだけは嫌だと久遠はケガレを睨みつけた。


 久遠、目をそらしちゃ駄目。怖いときこそじっと見るの。


 母の声が頭に響く。


 あなたは特別な子。怖がらないで両目でしっかりと見るの。そうすれば必ず見える。あなたを救う光が。


 久遠には意味がわからなかった言葉。母もいつか分かると詳しいことは教えてくれなかった。けれど、今なら分かる。母がなぜあんなにも久遠に目をそらすなといったのか。


 大嫌いな金色の瞳。久遠を孤独にする瞳。それを見開いて久遠はケガレを凝視した。まだこの血のことも目のことも好きにはなれない。それでも、友達を救うにはこれしかない。久遠は誰に教えてもらわなくても本能で知っていた。


 ケガレから立ち昇る黒いモヤ。意識を集中するとその中に輝く光が見えた。それがなんなのか久遠はわからない。それでもするべきことは知っていた。

 首からさげていたおもちゃのナイフを握りしめる。乱暴に頭から引き抜くとケガレに向かって飛びかかった。

 ケガレは突然の久遠の行動に驚いたようだった。逃げようとするが動きが鈍い。黒猫の体を使いこなせていないのだ。


 今しかない。


 久遠はケガレにタックルするように飛びつくと迷わずおもちゃのナイフを突き刺した。物に触れれば刃先がひっこむ子供だましのおもちゃ。それがたしかにぶよぶよとしたなにかを突き刺す感触がした。


 ギャアァアアァ!!


 ケガレが絶叫する。怖気が走るその声は猫というより人の声に聞こえた。暴れるケガレを押さえつけて、久遠はさらにナイフを深くに突き立てる。


「返せ! この体はお前のものじゃない!!」


 久遠は声を張り上げながらケガレからナイフを引き抜き振りかぶる。続いて動きの鈍くなったケガレに力いっぱい突き刺した。


 肉を引き裂く感触。ナイフを握りしめた指先からゾワゾワとしたなにかが這い上がってくる。思わず手を放したくなるような不快感。それでも久遠は手を離さなかった。


 ケガレの絶叫が消えるとともにケガレが倒れる。ケガレから立ち上っていた黒いモヤが霧散し、ぐったりした黒猫が現れた。死んでいるような姿に久遠の心臓が音をたてる。

 まさか、自分が殺してしまったのか。そんな不安で久遠は動くこともできずに黒猫を凝視した。


「久遠様!! ご無事ですか!!」


 大声とともに守が部屋に駆け込んでくる。肩で息をする守を見つめて久遠は泣きそうになった。


「守さん……猫が……」


 久遠の言葉で守は久遠の足元に倒れている猫に気づいた。泣きそうな久遠を見た守はすぐさま黒猫に近づくと体に耳を当てる。


「……っ! 久遠様! 生きてますよ!」


 勢いよく顔をあげて守は叫んだ。喜色の浮かんだ表情を見て、固まっていた久遠の体も動く。

 恐る恐る黒猫に近づくと小さな体に触れる。黒猫の体は蔵の裏で一緒に眠ったときと同じようにあたたかい。胸に耳を当てると心臓の音がした。


「……良かった……」


 その言葉を絞り出すだけで泣きそうになった。守が気遣うように久遠の背を撫でてくれる。その手もあたたかくて余計に涙がこぼれそうになる。


 久遠は潤んだ瞳を手で拭う。泣いている場合じゃない。生きているとはいえ無事だとは限らない。ケガレに取り憑かれたのだ。なにか影響が出ているかもしれない。


 守にそのことを聞こうとしたとき、バタバタと複数人の足音が近づいてきた。とっさに久遠は黒猫を抱きかかえ、守の後ろに隠れる。


「ケガレが出たというのは本当か!?」

「久遠様は!?」


 開け放たれた障子の向こうに見知らぬ人が現れた。その人たちは廊下の爪痕と真っ二つに割られた机を見てしばし唖然とした。それから守の後ろに隠れている久遠を見て信じられないという顔をする。


「ケガレは? まさか、久遠様が……」


 大勢の視線が一斉に集まる。久遠は一層守の後ろに隠れた。恐る恐る視線を上げて守を見つめる。守は今気づいたという様子で部屋の中を見渡して、真っ二つに割れた机を見ると慌てて久遠を振り返った。


「く、久遠様!? お怪我ないですか!!」


 肩を掴まれそうになり久遠はとっさに守から距離をとった。しかし守はそんなことは気にならないといった様子で詰め寄ってくる。久遠の体を上から下まで凝視して怪我がないのを確認するとやっと安堵したようすで息を吐き出した。

 それからきょとんとした顔をして久遠の顔、それから真っ二つに割れた机を見つめる。


「……久遠様、この机は?」

「この子に取り憑いたケガレが」


 久遠はそういうと黒猫を抱き直す。

 守の視線が黒猫に向けられたのがわかった。廊下でこちらのやり取りを見守っている人たちの視線も。居心地の悪さに身じろぎしながら久遠は守を見つめる。できることなら黒猫を病院につれて行きたいのだが、守も他の人達も固まったまま動かない。


「……久遠様がそのケガレを浄化したのですか?」

「……よくわからない。ただ夢中で。じっと見たら光が見えたから、刺した」


 そういうと久遠は少し離れた場所に落ちていたおもちゃのナイフを指さした。


 素直に答えてからまた嘘つきといわれるのかなと久遠は怖くなった。あのときは必死だったから細かいことは考えなかったが、冷静になればおもちゃのナイフで刺せるはずがない。刃が引っ込むようにできている子供だましのおもちゃだ。人間相手だってなんの意味もないのに、ケガレ相手に効くとは思えない。


 どうしてケガレを倒すことができたのだろう。今になって久遠は自分のしたことに不安を覚えた。


「さ……さすが久遠様です!」


 不安で動けずにいる久遠の肩を守が勢いよく掴んだ。今度は逃げることもできずされるがままに久遠は守を見上げる。守の瞳は夜空に浮かぶ星みたいにキラキラ輝いていた。


「霊力を扱う訓練も受けていないのに、初めてでケガレを浄化するなんて!」

「霊力……浄化?」


 知らない単語に久遠は眉をよせた。しかし興奮した様子の守は困惑した久遠に気づかない。

 廊下にいる人達も守と同じく興奮した様子で、すごい。さすが金色だ。と語り合っっている。


 ただ一人置いてけぼりをくらった久遠は腕に抱えた黒猫を見下ろす。先程に比べて呼吸が安定して見える。ただ眠っているだけに見える姿に安堵して、久遠は黒猫の体を撫でた。


 分からないことだらけだ。なぜケガレが襲ってきたのか。どうして自分は無事でいられたのか。霊力とか浄化とか、久遠は知らないことがたくさんある。

 それでも、胸に抱いたこのぬくもりは護ることができた。そのことに久遠は心の底から安堵した。

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