1-8 悩む猫と黒猫
月明かりに照らされた猫ノ目家の庭を一匹の黒猫が歩いていた。
足音を立てないようにそろそろと移動し、軒下を覗き込みネズミを探す。いくら目を凝らし耳を動かしてもネズミ一匹見つからない。
この間捕まえて遊んだから住処を変えてしまったのかもしれないと、黒猫は不機嫌そうに尻尾を揺らした。
金色に届けてあげようと思ったのに、どうにも幸先が悪い。
金色は最近やってきた毛のない猫の新入りだった。他の毛のない猫よりも小さくて、ひょろくて弱々しい。
他の毛のない猫たちは昼も夜も忙しそうに動き回っているのに、金色だけは部屋に引きこもっているか、蔵の裏の溜まり場で黒猫たちと一緒にぼんやりしている。とても変な奴だった。
毛のない猫のことを年寄り猫は「人間」と呼んでいた。二本足でたって歩いて、毛の代わりによくわからない布を着て歩いているよくわからない生き物だが、くれる食べ物はうまい。特にこの家の人間は黒猫たちに美味しいご飯を大盤振る舞いしてくれるし、黒猫たちが雨風をしのげる部屋も用意してくれている。猫がえらい生き物だと知っている賢い奴らだ。
だから黒猫はここにいる毛のない猫たちのことは奇妙だとは思いつつ嫌ってはいなかった。外にいる毛のない猫は変な声をあげて追いかけ回してきたり、捕まえようとしてくる。小さいやつなんて遠慮なく尻尾を掴もうとしてくるから黒猫は嫌いだった。それに比べてここの毛のない猫たちは黒猫のことを放っておいてくれる。
しかし、金色はどうにもおかしい。毛のない猫たちはみんな変だが、その中でもさらに変だ。毛のない猫なのに、黒猫たちと同じ匂いがする。
ここの猫を牛耳っている年寄猫は大昔に存在した偉大な猫の血を引いた高貴な方だと金色のことをいっていた。猫じゃないのに猫みたいに輝く金色の瞳が証明なんだという。
その話を聞いてから黒猫は新入りのことを金色と呼んでいる。
金色は自分と同じく元々いた縄張りから追い出されたのだと黒猫は思っている。ここで一番年下の黒猫よりも弱そうなのだ。きっと元いた場所でいじめられ、ここまで逃げてきたのだ。
黒猫も金色と同じく縄張りを追い出されてここにたどり着いた。
目が覚めると兄弟たちと一緒に段ボールとかいうものに詰められていた。食べ物もなければ雨風をしのぐには心もとなさすぎる代物。それが倒れたことで脱出できたが、気づけば兄弟たちと離れ離れになっていた。
寝床とご飯が欲しかった。それだけだったが、どこにいっても強い猫がいて、弱くて小さい黒猫は追い出された。追い回されて時には怪我をし、逃げて逃げてここにたどり着いた。
兄弟たちがどうなったのか黒猫は知らない。考える余裕すらなかった。探そうにも黒猫は弱すぎて、黒猫を受け入れてくれたここから出ることも出来ない。
金色はそんな黒猫と同じに見えた。弱くて小さくて、誰かに守ってもらわないと生きられない。
黒猫は年寄り猫が守ってくれた。ここにいていいと他の猫もいってくれた。けれど金色にはそんな存在がいないように見えた。
ならば自分が元気づけてやろう! そう黒猫は思った。大きくて立派なネズミをつれていけば金色も喜ぶ。そう黒猫は確信していた。金色が喜ぶ姿を想像して黒猫は尻尾を揺らす。早くネズミを捕まえなければと暗闇で目を凝らす。
黒猫はネズミを探すことに夢中だった。だから気づかなかった。年寄り猫たちから何度も言われた忠告も頭から抜けていた。
夜には黒くて恐ろしいものが現れる。見かけたらすぐに逃げなさい。決して捕まってはいけないよ。
そう何度も何度も言われていたのに黒猫は理解していなかった。黒いそれがどれほど恐ろしいものかを。
ネズミを探す黒猫の背後に黒いものが湧き出した。大きな口に赤い舌、白い牙を見せたソレはよたよたと黒猫に近づく。そして大きな口を一層大きく開け、黒猫に噛み付いた。
※※※
その夜、久遠はスマートフォンを睨みつけていた。机の上には守から貰ったメモ用紙が一枚。そこには守の電話番号が書かれている。
スマートフォンとメモを見比べて久遠は唸る。これをどうすればいいのか、本気で困っていた。
制服の染み抜きが終わると久遠は逃げるように部屋に戻った。守がなにか言いたそうにしていたが、人の気配が近づいてきたことに気づいた久遠は逃げたいという衝動をおさえきれなかった。背後でなにかを言っている守を置き去りにして部屋に駆け戻った。
酷いことをしてしまった。その自覚が久遠にもあった。部屋に戻って久遠は自分の行動を反省した。いくら守以外の人間が怖くとも事情を説明する時間くらいあったのではないかと。そしてもう守は久遠を見限って、話かけてはくれないのだろうなとも思った。
しかし、夕餉の時間になると守は何事もなかったように現れた。制服の染みは久遠のせいで守は文句をいってもいいのに、障子越しに丁寧にお礼を言われた。夕餉ののったお盆の上には守の連絡先が書かれたメモが置いてあった。なにかあったら連絡してください。必ず駆けつけます。という同世代にしては達筆な筆跡で書かれた電話番号とメッセージに久遠は落ち着かない気持ちになった。
そして久遠は困った。今までの人生で友達といえるものはおらず、持っているスマートフォンにも両親以外の電話番号なんて登録されていない。
登録の仕方はなんとか覚えていたが、登録していいものかがわからない。電話番号をくれたのだからしていいのだろうが、あんな失礼な態度をとってしまったのにという気持ちが久遠から消えなかった。電話をかけたとして、なんといえばいいのだろう。ごめんなさい? ありがとう?
同世代の友達がつくれず、両親ばかりと一緒に過ごしていた久遠にとって守は未知の存在すぎた。
ずっとにらみつけていた電話番号から目をそらし息をつく。こんなことを真剣に悩んでいるのは馬鹿らしいとわかっている。初めて両親以外から電話番号をもらったという事実に喜びと淡い期待を抱いている。もしかしたら仲良くなれるかもしれない。そんな期待。
同時にそんなわけがないという諦めも感じている。
両親以外が久遠を受け入れてくれるはずがない。守が久遠を気に掛けるのは久遠が金色の瞳をした獣の血をひく存在だから。久遠自身に興味を持っているわけではない。そう考え始めたら心がどんどん重くなってきた。
少しだけ感じたワクワクも消え、久遠は衝動的にメモ用紙を破り捨てようかと思った。そのとき久遠を見てうれしそうに笑う守の姿が脳裏に浮かぶ。破られたメモをみたらきっと守は悲しむ。久遠は手を止め、メモを丁寧に机の上においた。
「……夜風にでもあたろう……」
一人でずっと考えているから気分も滅入るのだ。そう思った久遠は立ち上がり、障子をゆっくりと開いた。
障子をあければ月明かりに照らされた庭が見える。夜の景観を意識して設置されてた灯籠が周囲を淡く照らす。民家というよりは高級旅館のような庭を見るたびに久遠は自分が別世界に来てしまったのだと思った。
縁側に座ってぼんやりと庭を眺める。月と灯篭の明るい光のおかげで陰鬱とした気分が少しだけまぎれた気がした。
遠くで人が動く気配がするが、ここまで来ないことは知っている。
五家にとって重要なのは夜だ。ケガレが活発になるという十二時も過ぎたいま、猫ノ目の人間はあわただしく動いているだろう。
だからこそ昼間から人通りのない久遠の部屋まで来るものはいない。特に忙しい十二時前後であればなおさらだ。
ただぼおっと庭を見つめていると自分がなんでここにいるのか、なんのために存在しているのかよく分からなくなってくる。母は目をそらすな。そういったが、じっと見つめたところで答えがわかるわけでもない。
不安になって首から下げているおもちゃのナイフを取り出した。じっと見つめていると少しだけ安心する。それを胸に抱きしめて目を閉じると久遠は大きく深呼吸した。
にゃぁあ……。
その声に久遠は目を開けた。
灯篭があるとはいえ今は夜。すべてを明るく照らすことはできない。久遠の部屋よりもさらに奥、あまり使われておらず物置になっているらしい場所。そちらの方角からなにかが近づいてくる気配がした。
なぜだかわからないが久遠は不安を感じた。母からもらったおもちゃのナイフを握りしめ、縁側に立つ。じっと暗闇を見つめるがよく見えない。やがて闇から這い出るように姿を現したのは黒い猫。久遠を蔵の裏へと案内してくれた、あの猫だった。
「なんだ……」
久遠は胸をなでおろした。おもちゃのナイフから手を放して黒猫を見つめる。猫は夜行性だ。眠る人間よりもよほど夜の世界を知っている。目だって久遠よりもずっといい。昼間一緒にいた自分の姿を見つけたから声をかけてくれたのかもしれない。そう思って久遠は黒猫に近づこうと立ち上がり、違和感に動きを止めた。
にゃあ……。
黒猫が鳴く。けれど黒猫は下を向いていた。足取りも酔っぱらいのようにおぼつかない。よろよろと力なく足を動かして、ゆっくり、ゆっくりと久遠に近づいてくる。下を向いているのに、久遠の居場所がわかるみたいに迷いなく。
理由のわからない怖気で久遠は後ずさる。冷たい床の感触でこれは夢ではなく現実なのだとわかった。
にゃあお。
一層高い声で黒猫が鳴く。下げていた頭をあげて久遠をみた。その目は黒く濁り、久遠を見ているはずなのに何もみえていないようだった。
黒猫の体から黒いなにかが立ちのぼる。靄のようなそれが危ないものであると久遠はなぜか知っていた。
ケガレは人や動物に憑りつく。
本で読んだ記述を思い出し久遠の顔がこわばる。
「嘘でしょ……」
かすれた久遠の声に反応したように黒猫、いやケガレは黒猫の体を乱暴に動かして、久遠に向かってとびかかってきた。
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