祖母のうどん

沢田和早

祖母のうどん

 到着駅を告げるアナウンスが車内に流れた。

 立ち上がって網棚から荷物を下ろすと、窓側に座っている彼女が手で髪をきながら言った。


「なんだか緊張してきちゃった」


 この癖が出た時の対処法は心得ている。頭を軽く撫でてやればいい。


「変に気を遣う必要はないよ。ちょっと頑固なところはあるけど根は優しい人なんだ」

「でも東京に来てから一度も帰っていなかったのでしょう。それってあなたにとっても苦手な相手だからじゃないの」

「それは、まあ……」


 答え切らないうちに電車が止まった。料金箱に整理券と切符を入れてホームに降りる。晩秋の風が吹く無人駅。懐かしい光景。十年前、大海原に漕ぎ出すような気持で電車に乗り込んだあの日を思い出す。


 * * *


 生まれも育ちも東京だった。両親と子ひとりの平凡な三人家族。

 転機は小学六年の時に訪れた。交通事故で両親が亡くなったのだ。親戚一同が話し合った結果、三重県に住む母方の祖母が引き取ってくれることになった。


「おー、よう来た。えらかったやろ。もう何も心配せんでええからね」


 祖母は一人暮らしだったこともあり大喜びで迎えてくれた。すでに年金生活ではあったが実家は裕福で経済的不安はなかった。家は大きくどの部屋も広々としていて、狭いアパート暮らしだった東京よりもはるかに快適だった。学校では東京からの転校生ということで珍しがられることはあっても、いじめられたりからかわれたりすることはなかった。

 見知らぬ土地での新しい生活は順風満帆の滑り出しだった。ひとつだけ、どうしてもなじめない点を除けば。


「うちでは駄菓子は禁止や。買い食いもしたらあかん」

「え~、でもお菓子食べたいよ」

「食べたければ言い。ポテチもケーキも作ったるから」


 健康な心身は健康な食事によって作られる、それが祖母の信条だった。スナック菓子や清涼飲料水は大嫌いで、特にインスタント食品に対しては敵意に近いものを抱いていた。日々食卓に並べられる食事も惣菜や弁当の類は一切なく、全て祖母の手作りだった。


「ごちそうさま」

「もうええのかね。遠慮することないんやよ」

「ううん、お腹いっぱいだから」


 祖母の料理は申し分のないものだった。しかし私の口には合わなかった。味が薄すぎるのだ。塩や醤油を使おうとしても食卓に調味料は置かれていない。


「これ以上の味付けは不要やから、そのまま食べや」


 仕方ないのでご飯をフリカケだらけにして味をごまかしながら食べた。しかし主食が麺類だとその手は使えない。祖母はうどんが好きだった。食べるだけでなく作るのも好きで、麺もつゆも祖母が一から作ったものだった。


「今日はきつねうどんや。おあがり」

「いただきます」


 自家製の麺はコシがあってモチモチしてうまい。しかしつゆは耐えがたいものだった。まるで湯のように味がない。細かく短冊に切られた油揚げにも味は付いていない。東京で食べていたきつねうどんとはまるで別物だった。


「どうや、おいしいやろう」

「う、うん」


 もっと味を濃くしてほしい、とは言えなかった。引き取って面倒をみてもらっている祖母の料理に文句をつけるのは子供心に申し訳ないと感じたからだ。


 何年経っても祖母の薄味を好きにはなれなかった。高校生になり電車通学が始まったある日、ふらりと立ち寄ったコンビニで懐かしいパッケージが目に入った。赤いきつね。子供の頃から慣れ親しんだカップ麺だ。思わず購入してしまったが持ち帰って祖母にばれたら確実に叱られる。そのままコンビニのイートインで食べることにした。


「うまい!」


 それは東京で食べていた赤いきつねと同じ味付けだった。久しぶりに味わう濃いつゆの風味が胸にしみる。同時にまだ両親が生きていた頃の思い出もよみがえってきた。家族三人でうどんを食べていた日々。もう二度と味わえない幸せ。食べ終わった私に残ったのは大きな満足感と深い悲しみだった。


 それからは月に数回、祖母に隠れてコンビニで赤いきつねを食べるようになった。食べ盛りだったのでカップ麺一杯くらいなら夕食も普通に食べられる。祖母は気づいていないはず、そう思い込んでいた。

 だが違った。高校三年の夏、いつものようにコンビニで赤いきつねを食べているといきなり背中を叩かれた。振り向くと祖母が立っていた。


「こんなもん食べよって。インスタントは体に悪いと言うとるやろが」


 よほど腹に据えかねたのだろう、祖母は完全にけんか腰だった。そしてその時の私もどうかしていたのだろう、素直に謝れなかった。


「たまに食べるくらいならいいじゃないか。それにばあちゃんの料理はボクの口には合わないんだ」

「なんやと。わしの料理がマズイとでも言うのか」

「マズイと言うか味が薄いんだ。関東と関西じゃ味に対する好みが違うんだよ。でもこの赤いきつねは同じだった。東京と同じ味だった。だから食べずにはいられなかったんだ」

「……そうか。ようわかった」


 その日から食卓に調味料が置かれるようになった。しかしそれを使う気にはなれなかった。

 祖母と仲直りできないまま高校を卒業した私は東京の大学へ進学した。一人暮らしの祖母が気にはなったが帰る気にはなれなかった。帰る理由がなかった。もともと私の居場所は東京なのだ。両親が生きていた時も帰省するのは父の実家ばかりで、母の実家には一度も行ったことがなかった。今日こうして久しぶりにここへ来たのは結婚相手から、

「六年間も面倒を見てくれた人なのでしょう。直接会って結婚報告しましょうよ」

 と言われたからに過ぎない。


「こんにちは」


 呼び鈴を押して返事を待つ。しばらくして懐かしい声が聞こえてきた。


「鍵は掛けてない。入っておいな」


 玄関に出迎えはなかった。「おじゃまします」と言って家に上がり居間に入ると、こたつで丸くなっている祖母がいた。ひどく老けて見えた。無理もない。もう八十を超えているのだ。


「どれ、お茶でも淹れるかね」


 よろよろと動き出した動作も危なっかしい。立ち上がるだけで一苦労のようだ。


「ばあちゃんいいよ。ボクがやるから」

「そうかい。なら頼もうかね」

「あ、あたしも手伝います」


 彼女からの申し出は断った。勝手を知らぬ彼女がいても足手まといになるだけだ。居間を出て台所に入ると無造作に置かれたダンボール箱が目に入った。何気なく中を見て驚いた。様々な種類のカップ麺がたくさん入っていた。


「なぜこんな物が……」


 いぶかりながら湯を沸かし茶を淹れた。湯呑と急須を持って居間に戻ってもカップ麺のことは訊けなかった。


「この十年、何しとったんや。聞かせてくれ」


 それからは他愛もない世間話が始まった。彼女はよく喋った。私との出会いや交際中の失敗談。祖母は黙って聞いているだけだった。小一時間も経った頃、不意に祖母が言った。


「昼も過ぎたし、うどんでも食べていかんかね」

「えっ、でも」

「いいから」


 こちらの返事も聞かずに立ち上がろうとする。それなら手伝うと言ってもお茶の時とは違って頑として拒み続ける。


「久しぶりにおまえに食べさせてやりたいんや。大人しくそこで待っとき」


 頭の固さだけは変わっていない。素直に従うことにした。


「お待たせ」


 ほどなくして祖母は盆を持って戻ってきた。得も言われぬ悲しみが込み上げてきた。盆にのせられていたのは赤いきつねだった。


「どうして……あんなに嫌っていたのに」

「この年では粉も満足にこねられん。これは便利でええな。湯を注ぐだけですぐ食える」


 時が経つことの非情さを痛感せずにはいられなかった。老いるとは、つまりこういうことなのだ。信念を曲げても従わねばならないことがある。それは私自身、学生時代も就職してからも何度も経験した。祖母もまた老いによって自分の信念を曲げざるを得なかったのだろう。


「一人になってカップ麺を食べるようになって、ようやくおまえの気持ちがわかった。昔を思い出していたんやろう。まだ両親が生きていた時の幸せを思い出しながら食べていたんやろう。わしもカップ麺を食べながらおまえを思い出していた。それでようやく気づけたんや」

「ばあちゃん……」


 胸が詰まった。今日まで一度も帰らなかった自分を責めたくなった。


「叱ったりして悪かったな。でもな、これだけはわかってほしい。おまえの体を心配してのことやったんや。大切な一人娘のたった一人の孫であるおまえが心配で仕方なかったんや」

「もういいよ昔のことは。それよりも食べよう。もうとっくに五分経ったし」

「ああ、そうやな」


 フタをはがして七味をかける。大きな油揚げとかまぼこ、黄色い玉子。いつもと同じ赤いきつねだ。麺をすする。


「うっ!」


 だが味は違っていた。これは赤いきつねではない。驚いて祖母の顔を見ると十年前と同じ悪戯いたずらっぽい笑顔が浮かんでいた。


「ははは、驚いたか。粉はこねれんでも出汁は取れる。おまえの大嫌いな薄味のつゆや。どうや、不味かろう」

「やられた」


 添付の粉末スープを使わず自前のつゆで味を付けたのだ。懐かしい薄味。懐かしい不味さ。それはこれまで食べたどの赤いきつねよりも不味かった。そしてこれまで食べたどの赤いきつねよりも嬉しかった。祖母に手料理を作ってもらっていたあの頃の幸福が胸にしみた。


「ありがとう、ばあちゃん」


 心の底から感謝の言葉が言えた。祖母は笑顔で頷いた。



 私たちが結婚した翌年、祖母の家は取り壊されて更地になった。


「最近空き家が増えてきて問題になっとる。この家もわしが死んだら誰も住まんようになるでな。おまえはずっと東京で暮らせばええ」


 そう言って祖母は老人ホームに入った。食事はインスタントではなく調理師が作った料理を提供されているようだ。


「これなら何の心配も要らないな」


 今でも赤いきつねを食べていると不意に祖母のうどんを思い出す。もう二度と食べることはないであろう薄味の不味いうどん。その思い出は祖母の優しさと子供時代の幸福とともに私の記憶の中でこれからもずっと輝き続けることだろう。

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