第一印象は覆えすのが難しいので大事だよ

 黒ノ巢商事株式会社代表取締役社長、黒野時治との約束からちょうど一週間目の朝。


 研修という名目ではあるものの、修二にとって初出社の日でもあり、少しずつ慣れてきた一人暮らしの中で、また独特な緊張が胸中に流れつつもあった。


 そして、彼の目の前で朝食を食べる女の子……黒野愛琉を会社に連れて行くことも、彼の仕事の内である。


「愛琉ちゃん、わかってると思うけど……今日から会社だからね。準備できてるよね?」


「えぇー……ほんとに行かなきゃだめ? 今まで四人で回してきた会社なんだし、わたし一人いなくたってなんとかなるんじゃないかな……」


「そういうわけにもいかないだろ。てか、結局この一週間、ずっと俺にメシ作って貰ってる君に拒否権はない。嫌なら明日から自分のことは全部自分でやりな」


「くぅ……正論突きつけるんじゃないよ。一番人の心を傷つけるのは正論なんだよ?」


 当の愛琉は、相変わらずやる気を全く見せないものの、身の回りの世話を任せっぱなしにしている手前、断りづらい様子。流石に申し訳ないと思う程度の良心は残っているようだ。


「……まあでも、いいよ。行くよ、会社。じゃなきゃ、修二くん困っちゃうんでしょ」


「その通りだけど……やけに聞き分けがいいね。正直、もっとごねるもんかと」


 苦い顔をしつつも、自分から会社に行く、と愛琉は言った。これは修二にとっては意外な展開だ。


 この一週間、付きっきりとは言わないまでも、食事の用意やら最低限の日用品の買い出しやらで振り回されてきた立場からすれば、味気なさすら覚える。


「ごねるつもりなんか……少しはあったけどさ。あんまり迷惑かけると、本気で嫌われちゃうんじゃないかって……」


「なんだ、そんなこと考えてたのか。心配しなくても、嫌いになんかならないよ」


 一週間も実家マンションを離れて過ごしたのは愛琉にとっては初めてのことだったが、不思議と居心地の良さを感じていた。その要因は、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた修二のおかげであることくらい、自分でもわかっている。


 だからこそ、修二に見放されてしまうことだけが不安の種だった。


 しかし、そんな思いとは裏腹に、修二はあっけらかんに言いきったのだ。嫌いにはならない、と。


「そういう約束っていうか、仕事だし、割り切っちゃえば別になんとも……そもそも、好きとか嫌いとか以前の段階で世話係やってんだから」


「……以外とドライなんだね。自分で言うのもなんだけど、ウザがられてるのかと思ってたのに」


「思ってたよりもうざくなかったしなぁ。結局は慣れだよ慣れ。もう愛琉ちゃんのことは猫みたいなもんだと思ってるから」


「猫……猫かぁ……」


 行動を共にすることが増えれば、相手に対してなんらかの情が湧きそうなものであるが、どうも修二にはそれがない。ある意味では気楽だが、なんとも思われていないのはそれはそれで複雑なものだ。


 別に修二が悪いわけではない。むしろ限りなく健全な関係とも言えるのだが、愛琉は胸のあたりにモヤモヤしたものを感じずにいられない。


「猫でしょ。気ままに振る舞って、ごはんの時だけ寄ってくる感じとか」


「別に理由の方を聞きたいわけじゃないけど」


「そうかい……じゃ、早く食べちゃって。初日だし、絶対遅刻はしたくないからね」


 どこか噛み合わない会話。それでもおそらく修二は気にしてはいないのだろうから、余計にモヤモヤするばかりだ。


 しかし、冷静に考えてみればどうして愛琉がモヤモヤしなければならないのだろうか? そう思い始めたら、今度はだんだんムカついてきた。


「初日から遅刻ってのもロックでいいかもね、逆に。インパクト残せるよ」


「そんな覚えられ方したくないから、定刻通り出社するよ」


 等と軽口を叩いてみたり。少し困らせてやろう、という程度のものであったが、結果的には少しも困った様子なくあしらわれてしまった。


 どうも愛琉にとって、修二は相性が良くなきというか、勝てない相手となってしまっている。それが嫌なわけではない。むしろ、この関係を心地良くすら思っていた。


「さあ、行こうか」


 なにかと忙しい朝の時間は、あっという間だ。修二は食後の片付けや最低限の掃除などをパパッと済ませてしまい、気が付けば家を出る準備が整っていた。


 その間、愛琉は特に何かをしていたわけでもなく、修二の様子を見守っていた。昨日までならさっさと自室へ戻っていたところなので、はじめて修二の片付ける姿を目撃したが、その手際の良さには目を見張る。


「きっと修二くんは、いいお嫁さんになれるよ」


「夫にはなれないのか、俺は」


 仲良くならんで歩くその姿は、むしろ兄と妹のよう。もしかすると、実の兄妹よりも。


 本日快晴、門出には良い日だ。正確には研修期間の身ではあるが、既に社会人になった気分を味わっている。


「しかし、私服で出勤っていうのも……なんか変な気分だな。周りのリーマンはみんなスーツだし、学生の時は制服だったし」


「わたしはこっちの方が好きだな。動きやすいし、好きな格好できるし」


「そりゃまあ、愛琉ちゃんはそうかもしれないけど。いざ自由にしていいって言われると結構困るんだよな……」


 毎日同じ制服を着て行けばよかった中学、高校時代。休日も返上で部活動に取り組んでいた修二は、おおよそオシャレというものに無関心だった。田舎ゆえに、見栄を張る必要もなかったことも一因だろう。


 選択肢が広がる、と言えば聞こえは良いが、1から10に増えるのと、100に増えるのとではその意味合いは全く異なる。今まで自ら選んでこなかった者に選択権を与えたところで、それを十全に活かせるはずもないのだ。


「修二くん、背が高いから何着ても似合うと思うけどなぁ。今度、わたしが選んであげよっか?」


「そりゃありがたい申し出だ。給料入ったらお願いしようかな」


 これから初出社だというのに、初任給後のオフの話とは些か気が早いが、既にそれほど打ち解けていることの何よりの証左だ。


 決して長くはない出勤時間。満員電車に乗っている時間を除いても、二人で話しながらだとその体感はさらに短く、ほどなくしてオフィスを視界に捉えることとなる。


「あー……もう会社着いちゃった。通学してた時よりも早い……」


「近いのはいいことでしょ。通勤、通学の時間ほど無駄な時間はないと思ってるよ、俺は」


「それはそうだけど……初出社だよ? 緊張しないの?」


 もともと働く気なんてこれっぽっちもなかった愛琉は、会社が近づくほどに足取りが重くなる。修二の手前、仕方なく入社を了承してここまで着いてはきたが、気が進まない事に変わりない。


 一方の修二は、非常に落ち着いた様子。少なくとも愛琉から見た限りでは、堂々としていて緊張とは無縁に思えた。


「一度は社長に会ってるし……愛琉ちゃんもいるからね。なんにも不安なことはないよ」


「そっかぁ。修二くん、メンタル強いんだねぇ……」


 テンション下降中の愛琉をリードするように、修二は率先して前を歩く。その迷いなき足取りで、オフィスの扉を叩いたのだ。


「おはようございます。本日からお世話になります、千桐院修二です。よろしくお願いします!」


 エントランスに入り開口一番。腰の角度は90度。体育会系百点満点の礼儀正しい挨拶だ。


 その陰に隠れ、愛琉はおそるおそるオフィスへ入っていく。何度か足を踏み入れたことはあるが、社員としてここに来るのは初のことで、兄とその腹心である副社長以外の社員と会うのも初めてのこと。自分らしく生きることを信条とする愛琉でも、初対面の人と会うのは緊張するのである。


「おはようございます。あなたが新入社員……研修の方ですね。社長から話は伺っています」


 私服出社可能な本社において、ビシッとスーツを着こなした女性が、修二たちを出迎えた。


 女性にしては背が高く、170センチくらいはあるだろうか。艶やかな黒髪をハーフアップにしており、非常に清潔感のある美人だ。少なくとも、修二のこれまで出会った女性の中では誰よりも。


「あ、凛ちゃん! おはよー!」


「おはよう、愛琉。でも今日からあなたも社会人なのだから、会社では丁寧な言葉遣いを心がけなさい」


 そんな美人に、愛琉は臆することなくお気楽な挨拶をかましてみせた。


 そういえば、ここ一週間で愛琉がよく話題に出していた。黒ノ巢商事の創立メンバーにして、黒野兄妹の幼馴染……大田凛という名の女性のことを。それが、今まさに目の前にいる彼女のことなのだ、と。


「大田凛さん、ですよね。あなたのことは、愛琉ちゃんから聞いています」


「それは話が早くて助かります。では私のことはそこそこに、他の社員を紹介しましょうか」


 そう言うと、凛は社内にある大型モニターの前へと移動した。


 そして、凛は真っ白な画面に向けて語りかけたのである。


「天花、新入社員の二人がいらっしゃいました。あなたもご挨拶しなさい」


「はいはーいっ、例の新人さんたちですね! はじめまして! 岩戸天花でーすっ!」


 すると、モニターの下からひょこっと美少女が、顔を出し、満面の笑みでこちらに手を振ってきたのだ。


 ただし、実写のリアルな人間ではなく、3Dモデルの、美少女キャラクターであるが。


「え、アニメ……? これ、社員なんですか?」


 修二には何を見せられているのか、さっぱり理解が及ばないというのが正直なところ。凛へと向けられたその視線は、何かに縋るような目にも似ていた。


「事情があって、天花はこの姿でしか活動しませんが、れっきとした我が社の技術者エンジニアです。戸惑うことも多いとは思いますが、仲良くしてあげてくださいね」


 だが、凛の反応を見るに、ドッキリだとか、そういった類の仕込みではないらしい。社員の者がそういうものだと受け入れているのなら、これから社員となる修二も同様にするしかない。


 さて、では修二と同じく新人の愛琉はどうか。同じように困惑しているのだろうか……と思い、視線を隣に向けてみると、その表情は自分のものとは違うもののようだ。


 驚いてはいる……が、困惑からくるものではない。むしろ、歓喜からくるものに見える。


「ほ、ほ、本物の天花ちゃん⁉︎ えっ、これドッキリじゃないよね⁉︎ ホントのホントに、天花ちゃんってこの会社の社員なの⁉︎」


「私のことを知ってくれてるんですね! うれしいですーっ! もちろん、ドッキリなんかじゃありません! 撮影もしてないです! 正真正銘、岩戸天花は黒ノ巢商事の社員です!」


 なにやら二人だけで盛り上がっている。愛琉は天花のことを知っているようだが、彼女は有名人なのだろうか? ますます謎が深まるばかりだ。


 それにしてもこの喜びようは凄い。この一週間では見たことがない。天花がどのような人物なのか、少し興味が湧いてきた。


「愛琉ちゃんは、この子のことを知ってるみたいだけど……何者なの?」


「修二くん、本当に天花ちゃんのこと知らないの? でも大丈夫、安心して! 無知は罪じゃない! 知ろうとしないことこそ罪なんだよ! 天花ちゃんのこと、丁寧に教えてあげよう!」


「……お手柔らかに」


 いや、流石にテンションの上げ幅が天井知らずすぎるかもしれない。どれだけ熱烈に語ってくれるのだろうか。ついていけるのか不安になってくる。


 そんな修二の気を愛琉が知るはずもなく、肯定されたことでさらに気分が良くなり、早口気味に話し始めたのだ。


「天花ちゃんはね、U-tubeユーチューブチャンネル登録者数百万人を超える、大人気Vチューバーの一角! ゲームもトークも上手いし、歌やダンスだってできちゃう、スーパーバーチャルアイドルなんだよ!」


「Vチューバー……って、聞いたことはあるな。実際動画見たことはないけど……要するに、顔出しはしない代わりにキャラクターを使うユーチューバーってことね」


「ざっくりそんな感じの理解でオッケーです! 興味が出たら、ぜひ私のチャンネルに遊びに来てくださいね!」


 そのVチューバーの中でも、岩戸天花は生配信を主体として活動しており、一晩で500万の投げ銭を稼いだこともある上澄み中の上澄み。


 月一の頻度で投稿される動画のクオリティにも定評があり、なんでもできるオールラウンダーとしてその界隈のファンからは高く評価されているのだが、そのことを修二が知るのはもう少し後になってからだ。


「とにかく、AIとかじゃないってことなら、仲良くなれそうだ。なんか変な気分だけど……すぐ慣れるよな、多分」


 変わり者という意味では、隣人であり同期の愛琉や、その兄の時治も大概なので、ここに一人や二人加わったところで誤差の範囲である。


 むしろ、活動形態が常人とはかけ離れているというだけで、性格的には前者二名よりだいぶまともなのではないか、とさえ思える。打ち解けるのも時間の問題だろう。


「早速凛や天花と交流を深めているようだな! 会社に早く馴染めそうで安心したぞ!」


「うぉわぁ⁉︎ 社長ッ⁉︎ いつから背後そこに……ってか、急に出てこないでください!」


 まるで瞬間移動でもしたかのように突然背後に現れたのは、修二とは一週間ぶりの対面となる社長……黒野時治その人だった。


 やたらとでかい声で話しかけられるまで、欠片も気配を感じ取ることができなかった。故に、修二は口から心臓が飛び出るほど驚いたわけだが、その様子を見て時治はいたずらっ子のような笑顔を浮かべている。


「時治……年下の子をからかうのはよしなさい。まして彼は、今日が初日なんだから」


「いや、すまんすまん。隙だらけだったもんだからつい、な。それより珍しいな、凛。素が出ているぞ」


「……失礼しました」


 先ほどから一貫してお堅い敬語口調を崩さなかった凛が、時治相手には緩んだ表情を見せている。幼馴染相手ゆえに油断が出たのだろう。


 しかし直後に切り替えて、最初のイメージ通りである真面目な表情に戻ったのは流石である。


「よーし、そんじゃあちょっと早いけど、全員いるようだし朝礼を始めよう」


「ちょっと待ってくださいしゃちょー! まだアキ君が来てませんよ? そりゃ、アキ君の遅刻癖はいつものことですけど、いなかったことにするのなんてあんまりじゃないですか!」


「心配は無用だ。既に暁斗と連絡はついてる。先に現場に向かってもらってんだ、わざわざ会社来てたら遠回りになっちまうからな」


 ここにいないもう一人の社員について言及する天花だが、そこはやはり承知の上。当然、社長たる時治がたった三人の仲間を忘れるはずもない。


 ちゃんと説明を受けたことで、天花は「ならいいんですが」と納得して引き下がる。彼女のほかには、何か異議を申し立てる者もいないようだ。


 その様子を確認するのに一呼吸間を置いて、時治は口を動かす。


「さて、暁斗の話も出たことだし丁度いい。さっさと本題に入るが……修二、そして愛琉! お前ら二人とも、早速実地研修に行ってもらう!」


 そう、これは名指しされた新人二人にとって、長い一日の始まりにすぎないのだ。

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就職先は零細悪役企業でした。 遊佐慎二 @yusashinji

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