第6話 口紅(ルージュ)の伝言

 まさか、真里香まりかが退職していたなんて・・・。


 俺は昨夜、真理沙まりさから聞いた俺と別れた後の真里香まりかの状況を知り困惑していた。


 俺が真里香まりかと別れる事となった原因ははっきり言ってしまえば俺のエゴだ。

 当時を振り返っても冷静になって考えれば俺にとって真里香まりかの事は何事にも代えれない存在だったのは間違いない。

 だが俺の中で今となって考えれば自尊心が二人の関係を悪くしていった。

 いや、俺だけが関係悪化の原因を提供していただけなのだ。


 夫が家庭の収入を支えそれを生きがいとするといった古い考えが俺にはあった。

 しかし真里香まりかはコツコツと努力し会社からも認められいつしか俺と真里香まりかの収入は逆転していた。

 努力して俺より収入の良くなった真里香まりかが悪い訳では無い。


 加えて真里香まりかは俺との生活の中、家事の一切を引き受けていた。

 炊事、洗濯、掃除全てが好きだからといった理由で・・・。

 俺は仕事が終わり帰宅すれば家事の一切を行う事は無い、真里香まりかが全てやってくれていた。

 俺と真里香まりかが夫婦で真里香まりかが専業主婦ならば何も問題ない。

 真里香まりかは俺と同様に会社勤めをしており家事の一切は帰宅後に行っている。


 収入も真里香まりかに負け、家の管理も真里香まりかにまかせっきりである。

 俺は一人勝手に真里香まりかに対して引け目を確かに感じていた。

 何をやっても真里香まりかには勝てない・・・そう思い込んでしまった。

 真里香まりかに対する俺の醜いの感情が二人の関係を悪化して行った。


 自然と真里香まりかに対する対応が冷たくなり、真里香まりかへの俺の態度は日を重ねるごとに悪化して行った。

 それでも真里香まりかは俺との関係を修復しようと俺に尽くしてくれた。

 だが俺はそういった真里香まりかの態度すら煩わしく感じ余計に真里香まりかとの距離を取るようになってしまった。


 いつも一緒に出掛けていた休日も一人で出かけ、平日帰宅すれば真里香まりかが食事を用意してくれているのも承知で外食の後帰宅するなど真里香まりかを避ける行動を取っていた。


 それにもかかわらず真里香まりかは相変わらず俺に尽くしてくれる。

 真里香まりかにはどうして俺の態度が変化した理由は告げていない。

 真里香まりかにとっては手探りで関係修復を自問自答していた事だろう。


 今となって思い起こせば、真里香まりかは何も悪くない。

 俺が勝手に真里香まりかに嫉妬し、その理由を真里香まりか告げず、真里香まりかと距離を取っていただけだ。


 悪いのは全て俺だ・・・。


 俺達の関係は、からへと変化して行った。



 そして、俺達の別れを決定づける出来事が訪れたのだ・・・。



 俺は夕食を外食で済ませ帰宅しリビングでくつろいでいた。

 別に真里香まりかの帰りを待っていた訳では無いのだが、まだ真里香まりかは帰宅していない。

 俺はリビングのソファーでくつろいでいるといつの間にか眠り込んでいた。




 ふと眠りから覚めると、俺は時計に目を向ける。

 二十二時か・・・。

 いつの間に寝ていたらしく、夜寝られるかなと余計な心配をしつつソファーから起き上がった。

 ふと何かの気配を感じ振り向くとソファーの後ろに真里香まりかが立ち尽くしていた。

 俺の態度がずっと冷たい為、俺が起きるまで待ってたのだろうか?

 俺は真里香まりかから視線を逸らした。


「あの・・・実は相談が・・・。」


 ついにこの時が来てしまったと俺は冷静に思考を巡らせていた。

 俺の態度は一年近く真里香まりかに対して余所余所しく冷たい。

 真里香まりかから別れ話を告げられるのだろう・・・。


「なに?」


 俺はそのまま振り向かず真里香まりかに最低限の返事を行った。


 ついに真里香まりかと別れる時が来たか・・・。

 本音を言うと俺にとって真里香まりか以上の存在はこの世に存在しない。

 所帯を持つとしたら真里香まりか以外はあり得ないとも思っている。

 そして真里香まりかの事は誰よりも愛している。

 だが、俺の態度はそんな感情は毛ほども感じられない程、真里香まりかに対して冷たい態度を取り続けていた。


 当然の報いだな・・・。


 だが真里香まりかの相談は俺の想像とは別の物であった。


「実は今日会社で内示をもらったの・・・。」


 俺は黙って聞いていた。


「海外の赴任が決まったの・・・。」


 俺は返事を返さない。

 そんな俺の態度だったが真里香まりかは言葉を続けた。


「期間は二年間・・・二年後には本社勤務が約束されてる・・・。」

「また、ここへ戻って来られるの・・・。」

「私、行った方がいいのかな?」


 何を言っている?

 考えて決断するのは真里香まりか自身だろ・・・。


「行っても良いんじゃない?」


 真里香まりかの人生を考えたら行くのが最善の選択だろう。

 海外赴任をえて本社に栄転、更に上の役職が待っている・・・そんな所だろう。


「それでね・・・私達の事なんだけど・・・。」


 本題が来てしまった・・・。

 俺は真里香まりかと別れた後の事を想像し、急に寂しさを感じていた。


「二年間・・・。」


 二年も会う事が出来ない、今の関係からして別れるのは当然だ。

 俺はこうなるならもっと真里香まりかにたいしてやさしく接するべきだったと後悔していた。


 だが、真里香まりかの言葉は俺が想像していた物とは全く違うものであった。


「・・・二年間・・・待っててくれるかな?」


 俺の真里香まりかに対する態度は約一年間、褒められるような態度では無かった。

 別れを切り出されて当然だと考えていた。

 なのに、真里香まりかは・・・。


「二年か・・・長いな・・・。」


 二年、真里香まりかと合えずにいれば真里香まりかの存在の大切さに改めて気づかされるに違いない・・・。


「二年も待てないな・・・。」


 俺は何を言っている!?

 俺には真里香まりか以外の存在は考えられないだろう!?

 本音を話して関係を修復するのが一番いい選択だろう!?


「たとえ二年待ったとして、君は更に偉くなって俺よりまた収入が良くなる・・・俺は益々惨めな気持ちになるな・・・。」


 俺は初めて真里香まりかに俺が抱えていた真里香まりかへの嫉妬心を打ち明けた。

 ・・・違うそんなそんな本音ではない・・・俺は何を言っている・・・。


「そう・・・だったんだ・・・。」

「そういう事だったんだ・・・。」


 真里香まりかは俺にあった嫉妬心を理解したのだろう。

 頭の良い彼女の事だ、俺の態度の変化の理由を想定して居ない筈はない。


「だったら、私は会社を辞めます!」


 俺が全く想定していなかった彼女の言葉に複雑な心境になっていた。


 俺が理想としていた家庭には一番の解決策であった。

 真里香まりかがそれを自ら提案してくれている・・・。


「何を言っているんだい・・・君は・・・。」


 本音とは別の言葉が先走ってしまう。


「仮にそうなって俺達が夫婦となって、仕事の出来る妻を俺の都合で会社を辞めさせたとでも周りに話すのかい?」

「益々俺が惨めになるじゃないか・・・。」


 俺は本当に何を言っているんだ・・・。

 このままでは本当に真里香まりかを失ってしまう・・・。


「ならどうすればいいの!?」


 真里香まりかが珍しく感情を露にしていた。

 俺はゆっくりと真里香まりかのいる方向に頭を向けた。


 真里香まりかは当然泣いていた。

 俺の感情は複雑であった。

 心が痛むとはこういった事を言うのだろうか?

 彼女を抱きしめて一緒になろうと言えばすべて解決するだろう・・・。

 その後の事は後で考えればいい・・・それだけの事だ・・・。


「別れよう・・・。」


 本心とは別の言葉がまた出てしまった。

 俺はいったい何を言っている!?


「俺より仕事ができる女を家庭に入れとは言えないし、ましてやそんな女とは一緒に居られない・・・。」


 真里香まりかは顔を伏せ寝室へ逃げる様に俺の前から立ち去って行った。




 真里香まりかが寝室に居る為、気まずい俺はそのままリビングにて過ごしていた。

 真里香まりかに対する先程の態度を後悔しながら・・・。

 なぜあんな事を言ってしまったのか・・・。

 俺はずっと意地になっていたのだろう。

 それがあの大事な場面での修復不能な態度を取ったのだろう。


 俺は、真里香まりかの事をずっと考えていた。

 子供の頃の真里香まりか

 再会した時の真里香まりか

 そしてこの部屋で一緒に過ごした真里香まりか

 俺は真里香まりかと別れたいのか?

 いや、別れたくない・・・。

 例え収入が多かろうが冷静に考えるとそんな事はたいした問題ではない。

 それなのに何であんな態度を・・・。


 明日の朝、真里香まりかに謝ろう・・・。

 そして素直な気持ちを打ち明けよう・・・。

 そして真里香まりかと一緒に相談して解決すればいいだけの話ではないか・・・。

 そう、それがいい・・・。



 翌朝、俺はいつもより早く目覚めてしまっていた。


 俺はそのまま真里香まりかの居る寝室へと向かい昨晩の気持ちを伝える事にした。


 だが・・・。


 真里香まりかが居ない!?


 俺は不安を感じ家中、真里香まりかを探した。


 キッチン、書斎・・・どこにもいない・・・。


 そして風呂場の傍の洗面台にいつもとは違う物があった。


 洗面台の鏡に文字が書かれていた。


 さよなら


 赤い文字で書かれたそれを見て俺は真里香まりかがこの部屋から出て行ったことを理解した。


 この赤い文字は血か?


 いやちがう、クレヨンの様な・・・いやこれは・・・口紅か!?


 口紅で書かれたその文字を呆然と眺め俺は、真里香まりかとの関係が完全に終わってしまったと後悔の念に捕らわれていた。


 そしてそのメッセージに違和感を感じつつも、その時の俺はそれを確信するに至れずにいた。

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