第2話 彼女はガラス細工の様な存在だった。
3LDKのそこそこ広い物件で二人で暮らすには十分な広さがあった。
駅からも徒歩圏内で俺の会社へも
家賃は多少高めだが俺達の未来への投資と思えば決して高いものではない。
ただ問題なのは、当の
欲を解消する為に女遊びをしていた俺の事を考えると信じがたいのだがこれは事実だ。
俺にとっての
代えのきかない存在。
絶対に手放したくない存在。
ものすごく大切な存在。
そう、彼女の事が大切でそれ故に彼女を失うのを恐れているのだ。
儚げな雰囲気を持っており強く触れると壊れてしまいそう印象だった。
以前、自分の気持ちを伝えた時、彼女を抱きしめた際その様な印象を持ってしまっていた。
だが、抱きしめた際、彼女のウエストの細さがその考えを決定的な物にした。
普通に考えればスタイルの良い女性という事になるのだろう。
だが俺にはその腰回りの細さから、強く抱きしめてしまっていたあの時、折れてしまうのではないかという不安の感情が湧きだしてしまっていた。
感情が高ぶっていた為、
だが俺は今思い起こしても、あの時の
そして、
会話の能力が男より遥かに優秀な女にしては会話は少なく、必要最低限の会話しかしてこない。
我儘なんて聞いたことも無いし自己主張することも無い、
だからと言って、自分の事を話したくないという訳でもない様だ。
俺が
話しかければ応えてくれるし、会話が途切れたら沈黙したままになっていた。
まあ、仕事疲れで会話するのも億劫な時もあるが、そんな時には角が立たなくて良いのだが、そんな時は彼女の存在感が薄れていく感覚を覚えてしまう。
俗な言い方になるが、彼女はまるで繊細な、か細い硝子細工のような存在に感じる事がある。
強く扱えば壊れてしまい、ほおっておけば明度の無さから存在感がない。
だが丁重に扱い、その存在に光を当ててやれば、
地味で目立たない外見も本質を見極めれば美しい女性だし、性格も控えめでおしとやかと思えば問題ない。
そして何より
そんな
それが故に、俺は憶病になってしまっていた。
以前の俺はそんな物は気にして居なかったが、学生時代の恋愛に通じるものがあるのかもしれない。
好きな異性に想いを告げる。
叶うと晴れて恋人となり、叶わぬと友人という立場も危うくなる。
以前は鼻で笑っていた俺だが、今はその感情が痛い程、理解できる。
まさか、三十も目の前に迫っている大の男がこんな気持ちになるなんて、俺自身想像すらしていなかった。
そんな思いを抱えながら、そして体の関係を未だ持たぬ関係ながら、俺は先走って
まったく何をやっているんだが・・・。
お互い休日である今日は、俺の新居に
だが、
俺を部屋に招待しようとする素振りは見せなかったし、俺も何となく事情を察していたので
最寄りの駅で待ち合わせをし、近所のスーパーへ買い物に行く事となった。
俺の新居で手料理を振舞ってくれるそうだ。
俺達の故郷と東京では料理の味付けが微妙に異なる。
一番印象に残っているのが、かけうどんやかけ蕎麦だが、上京して初めて食べたそれらは見た目から違った。
故郷と比べて出汁の色が非常に濃い。
正直最初は出汁が黒いと思ってしまった程だ。
故郷の出汁は薄口醬油を使用して作るみたいだが、濃口醬油を使用している東京の出汁をその様に感じてしまっていた。
無論、味も異なる。
出汁の味が微妙に異なり、最初は違和感しかなかった。
ここ東京は、積極的に探せば故郷の味を探す事もそれほど難しくはないのだがそこまでの事は俺はしなかった。
まあ、慣れればこちらの出汁の味もそれはそれで美味いからだ。
だが、
幼い頃から慣れ親しんでいた味である。
こちらの味に慣れてそれを不味いとは思っては居ないが、かつて慣れ親しんだ故郷の味付けはやはり懐かしく安心感があった。
本人は料理が得意だと決して言う事は無いが、
特に手の掛かる煮物なんかは絶品だった。
電子レンジで温めたらすぐ食べる事が出来るように一度分の食事の分量に分けてくれていた。
普段は外食の俺だが、
料理なんてしない俺にとっては料理の手間は理解できないが、彼女の調理作業を眺めていると、到底俺には無理だと感じていた。
今まさにその瞬間でもあった。
食材を切る際にするリズム良い包丁の音、フライパンから不定期に脂がはじける音、そして煮込んでいる鍋からただよってくる何とも言えない香り・・・。
俺は不意に料理を作る際の
鼻歌こそ歌っては居ないが、そうさせていると感じる程楽しそうに調理をしている。
俺は不意に
「
何か良い事でもあったのかと思っていたが彼女の返答はそういった類のものでは無かった。
「ええ、キッチンがとても広く使いやすくて料理するのが何だかとても楽しいの。」
確かに俺の以前の部屋のキッチンは簡易的な物であり、この部屋のキッチンとは比べ物にならない。
この部屋に引っ越すタイミングで調理器具も一式買い揃えたというのも大きな理由だろう。
「それは良かった、思い切って引っ越して良かったよ。」
「でも調理器具もこんなに揃えて、もしかしてこれって・・・。」
俺は
「ああ、
余計な一言を言ってしまった。
遠慮がちな彼女の性格からして、発言すべき言葉では無かった・・・。
大型の冷蔵庫、オーブンレンジ、炊飯器、ホットプレート、食洗器、ミキサー、フードプロフェッサー、ハンドミキサーなどの家電製品からフライパンや鍋も鉄、アルミ、ステンレス、テフロン加工品など様々な素材と大きさを取り揃えていた。
包丁も牛刀からペティーナイフ、更には和包丁数種類、無論菜箸、お玉、泡だて器、ヘラなども抜かりなく揃えている。
「私が調理する為に、こんなにも調理器具を買い揃えたの?」
返答も困ってしまったが、俺は料理が出来ないし、始めようとも思わない、何より
「うん・・・余計だったかもしれないけど
俺は正直に
「でも、これだけ買い揃えるなんて・・・あ・・・。」
「これだけ買い揃えるなんての続きは何?」
想像はついていたが、俺は
「まるで新婚生活が始まるみたいだと思って・・・。」
そして
「俺はそうなれば良いと思っているよ。」
「実際、こんな広い部屋、俺だけで住むには広すぎるし・・・。」
「俺はいつでも
そして部屋の棚に入れてあった合鍵を取り出し、
「君が俺と生活をしても良いというなら、この鍵を使っていつでもここに来てほしい。」
俺が差し出した合鍵を
俺は
今は気持ちが固まらなくても、いつかはその気持ちがあるという行動だと思っていたからだ。
だが
「受け入れるつもりって、いつから?」
「いつでもだよ。」
「一年後でも?」
「ああ。」
「五年後でも?」
「うん。」
「十年後でも?」
「そのつもりだけど、できればもっと早い方がいいな。」
俺は少しはにかんでいた。
俺の表情を見ていた
「なら、今の瞬間からでも?」
予想もしなかった
俺は内心戸惑ってしまっていたが、それを悟られぬように
「うん、この瞬間からでも。」
俺が
部屋の中は料理の得意な嫁を貰ったかの様な、調理途中の料理の良い匂いに包まれていた。
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