第2話 彼女はガラス細工の様な存在だった。

 真里香まりかと付き合う様になって二月ほど過ぎた頃、俺は真里香まりかと一緒に暮らせるマンションに引っ越していた。

 3LDKのそこそこ広い物件で二人で暮らすには十分な広さがあった。

 駅からも徒歩圏内で俺の会社へも真里香まりかの大学へも乗り換えなしに移動できる。

 家賃は多少高めだが俺達の未来への投資と思えば決して高いものではない。

 真里香まりかとのこの部屋での生活を想像するとさらにが正しい投資だったと思える。

 ただ問題なのは、当の真里香まりかにこの件を告げてない事だった。


 真里香まりかとの関係は真里香まりかに自分の本意を告げた時以来進んでいない。

 欲を解消する為に女遊びをしていた俺の事を考えると信じがたいのだがこれは事実だ。

 真里香まりかとは接吻すらしていない。

 俺にとっての真里香まりかは何物にも代えれない存在となっていた。


 代えのきかない存在。

 絶対に手放したくない存在。

 ものすごく大切な存在。


 そう、彼女の事がでそれ故に彼女を失うのを恐れているのだ。

 真里香まりかの雰囲気、容姿、性格を考えるとその思考は更に高まった。


 儚げな雰囲気を持っており強く触れると壊れてしまいそう印象だった。


 以前、自分の気持ちを伝えた時、彼女を抱きしめた際その様な印象を持ってしまっていた。

 真里香まりかは決して肉付きは悪くは無かった。

 だが、抱きしめた際、彼女のウエストの細さが考えを決定的な物にした。

 普通に考えればスタイルの良い女性という事になるのだろう。

 だが俺にはその腰回りの細さから、強く抱きしめてしまっていたあの時、折れてしまうのではないかという不安の感情が湧きだしてしまっていた。

 感情が高ぶっていた為、彼女真里香を強く抱きしめていたのは事実だが、彼女真里香を大切に感じていたのは確かだ。

 彼女真里香を壊すほどの力は入っては居ない事は確かだ。

 だが俺は今思い起こしても、あの時の真里香まりかの体が壊れてしまうのではないかと感じて不安になっていた。


 そして、真里香まりかの性格もその印象に一役買っていた。

 会話の能力が男より遥かに優秀な女にしては会話は少なく、必要最低限の会話しかしてこない。

 我儘なんて聞いたことも無いし自己主張することも無い、真里香まりかの事を真里香まりかの口から聞きたくとも、まず自分の意志で話す事は無い。

 だからと言って、自分の事を話したくないという訳でもない様だ。

 俺が彼女真里香の事を聞くときちんとそれに応えてくれる。

 話しかければ応えてくれるし、会話が途切れたら沈黙したままになっていた。

 まあ、仕事疲れで会話するのも億劫な時もあるが、そんな時には角が立たなくて良いのだが、そんな時は彼女の存在感が薄れていく感覚を覚えてしまう。

 俗な言い方になるが、彼女はまるで繊細な、か細い硝子細工のような存在に感じる事がある。

 強く扱えば壊れてしまい、ほおっておけば明度の無さから存在感がない。


 だが丁重に扱い、その存在に光を当ててやれば、彼女真里香はプリズムの様に様々な輝きを見せてくれる。

 地味で目立たない外見も本質を見極めれば美しい女性だし、性格も控えめでおしとやかと思えば問題ない。

 そして何より彼女真里香には、俺の中途半端な能力の、カメラのファインダーから見える人物のを全く感じない。

 そんな彼女真里香を決して失いたくはない。

 それが故に、俺は憶病になってしまっていた。


 以前の俺はそんな物は気にして居なかったが、学生時代の恋愛に通じるものがあるのかもしれない。

 好きな異性に想いを告げる。

 叶うと晴れて恋人となり、叶わぬと友人という立場も危うくなる。

 以前は鼻で笑っていた俺だが、今はその感情が痛い程、理解できる。

 まさか、三十も目の前に迫っている大の男がこんな気持ちになるなんて、俺自身想像すらしていなかった。


 そんな思いを抱えながら、そして体の関係を未だ持たぬ関係ながら、俺は先走って彼女真里香と住む部屋を用意しているのだ。

 まったく何をやっているんだが・・・。





 お互い休日である今日は、俺の新居に真里香まりかを招待した。

 真里香まりかは以前の住んでいた部屋にも何度か来たことはある。

 だが、真里香まりかの部屋は訪ねた事は無い。

 真里香まりかは進学の為、上京するにあたって姉である真理沙まりさと同じ部屋で暮らしていた。

 真理沙まりさに会ってみたい好奇心はあったが、真里香まりかは俺との付き合いを真理沙まりさには話していないのだろう。

 俺を部屋に招待しようとする素振りは見せなかったし、俺も何となく事情を察していたので真里香まりか達の部屋を訪ねようとは思ってはいなかった。


 最寄りの駅で待ち合わせをし、近所のスーパーへ買い物に行く事となった。

 俺の新居で手料理を振舞ってくれるそうだ。

 真里香まりかは以前の部屋でも俺の部屋で料理をしてくれていた。

 真里香まりかの作る料理は懐かしい故郷の味がした。

 俺達の故郷と東京では料理の味付けが微妙に異なる。

 一番印象に残っているのが、かけうどんやかけ蕎麦だが、上京して初めて食べたそれらは見た目から違った。

 故郷と比べて出汁の色が非常に濃い。

 正直最初は出汁が黒いと思ってしまった程だ。

 故郷の出汁は薄口醬油を使用して作るみたいだが、濃口醬油を使用している東京の出汁をその様に感じてしまっていた。

 無論、味も異なる。

 出汁の味が微妙に異なり、最初は違和感しかなかった。

 ここ東京は、積極的に探せば故郷の味を探す事もそれほど難しくはないのだがそこまでの事は俺はしなかった。

 まあ、慣れればこちらの出汁の味もそれはそれで美味いからだ。


 だが、真里香まりかの手料理を食べると懐かしい味がした。

 幼い頃から慣れ親しんでいた味である。

 こちらの味に慣れてそれを不味いとは思っては居ないが、かつて慣れ親しんだ故郷の味付けはやはり懐かしく安心感があった。


 真里香まりかは料理が非常に得意な様だ。

 本人は料理が得意だと決して言う事は無いが、真里香まりかの作った料理に満足しなかった事は無い。

 特に手の掛かる煮物なんかは絶品だった。

 真里香まりかは必ず料理を多めに作り、タッパーに入れ冷蔵庫にそれを入れてくれていた。

 電子レンジで温めたらすぐ食べる事が出来るように一度分の食事の分量に分けてくれていた。

 普段は外食の俺だが、真里香まりかが作ってくれた料理が冷蔵庫に入っているとパック飯を購入してそれを食べる事にしていた。

 彼女真里香のそういった気配りを無駄にしたくなかったというのもあったのだが、それ以上に彼女真里香の作る食事を俺は好んで食していた。

 料理なんてしない俺にとっては料理の手間は理解できないが、彼女の調理作業を眺めていると、到底俺には無理だと感じていた。


 今まさにその瞬間でもあった。


 食材を切る際にするリズム良い包丁の音、フライパンから不定期に脂がはじける音、そして煮込んでいる鍋からただよってくる何とも言えない香り・・・。

 俺は不意に料理を作る際の真里香まりかの表情が以前と異なる事を感じていた。

 鼻歌こそ歌っては居ないが、そうさせていると感じる程楽しそうに調理をしている。


 俺は不意に真里香まりかにその事を訪ねていた。


真里香まりか、今日はいつもより楽しそうに料理をしているね。」


 何か良い事でもあったのかと思っていたが彼女の返答はそういった類のものでは無かった。


「ええ、キッチンがとても広く使いやすくて料理するのが何だかとても楽しいの。」


 確かに俺の以前の部屋のキッチンは簡易的な物であり、この部屋のキッチンとは比べ物にならない。

 この部屋に引っ越すタイミングで調理器具も一式買い揃えたというのも大きな理由だろう。


「それは良かった、思い切って引っ越して良かったよ。」


「でも調理器具もこんなに揃えて、もしかしてこれって・・・。」


 俺は真里香まりかの疑問に対してうっかりと本音を漏らしていた。


「ああ、真里香まりかによく料理作ってもらっているからね、少しでも調理しやすいように買い揃えてしまったんだよ。」


 余計な一言を言ってしまった。

 遠慮がちな彼女の性格からして、発言すべき言葉では無かった・・・。

 大型の冷蔵庫、オーブンレンジ、炊飯器、ホットプレート、食洗器、ミキサー、フードプロフェッサー、ハンドミキサーなどの家電製品からフライパンや鍋も鉄、アルミ、ステンレス、テフロン加工品など様々な素材と大きさを取り揃えていた。

 包丁も牛刀からペティーナイフ、更には和包丁数種類、無論菜箸、お玉、泡だて器、ヘラなども抜かりなく揃えている。

 真里香まりかの為と思いついつい散財してしまっていた。


「私が調理する為に、こんなにも調理器具を買い揃えたの?」


 返答も困ってしまったが、俺は料理が出来ないし、始めようとも思わない、何より彼女真里香に嘘はつきたくない。


「うん・・・余計だったかもしれないけど真里香まりかに使ってほしくてつい・・・。」


 俺は正直に真里香まりかの疑問に答えた。


「でも、これだけ買い揃えるなんて・・・あ・・・。」


 真里香まりかは言いかけた言葉を途中でやめて黙ってしまった。


「これだけ買い揃えるなんての続きは何?」


 想像はついていたが、俺は真里香まりかの言いかけた言葉の続きが気になった。

 真里香まりかは少しの間黙ってしまっていたが、やがて観念したかのように俺の質問に答えた。


「まるで新婚生活が始まるみたいだと思って・・・。」


 真里香まりかはうつ向いて下を向いてしまった。

 真里香まりかの表情はおそらく耳まで真っ赤になっている事だろう。

 そして真里香まりかの反応を見た俺は、告げるなら今しかないと根拠も無く感じてしまっていた。


「俺はそうなれば良いと思っているよ。」

「実際、こんな広い部屋、俺だけで住むには広すぎるし・・・。」

「俺はいつでも真里香を受け入れるつもりで居るよ。」


 そして部屋の棚に入れてあった合鍵を取り出し、真里香まりかに渡す素振りをした。


「君が俺と生活をしても良いというなら、この鍵を使っていつでもここに来てほしい。」


 俺が差し出した合鍵を真里香まりかはゆっくりと受け取ってくれた。


 俺は真里香まりかが合鍵を受け取ってくれたことに安堵していた。

 今は気持ちが固まらなくても、いつかはその気持ちがあるという行動だと思っていたからだ。

 だが彼女真里香からは意外な返答が帰ってきた。


「受け入れるつもりって、いつから?」


「いつでもだよ。」


「一年後でも?」


「ああ。」


「五年後でも?」


「うん。」


「十年後でも?」


「そのつもりだけど、できればもっと早い方がいいな。」


 俺は少しはにかんでいた。


 俺の表情を見ていた真里香まりかだったが意を決した様に俺の事を見つめ言葉を続けた。


「なら、今の瞬間からでも?」


 予想もしなかった真里香まりかの一言。


 俺は内心戸惑ってしまっていたが、それを悟られぬように真里香まりかの質問に答えた。


「うん、この瞬間からでも。」


 俺が真里香まりかの質問に答えた瞬間から、俺と真里香まりかの同居が始まった。

 部屋の中は料理の得意な嫁を貰ったかの様な、調理途中の料理の良い匂いに包まれていた。

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