第26話

 私は走っている。見たこともない大都会の中を走っている。嵐の中、恐らく人出は少ないのだろうがそれでも私からすれば十分に多かった。

 見たこともない人、見たこともないお店、見たこともない建物。しかし、そんなものは私の眼に留まらなかった。

 今、すべきことはそんなものを見ることではなかった。

 ただ、走らなくてはならなかった。

 ただ、目指さなくてはならなかった。

 教会を、街の中心にあるという私の旅の目的地を。

 目の前をカラスが飛んでいる。レイヴンが残した道案内だ。気付けば飛んでいた。彼が私を先導してくれる。

 いや、先導してくれなくても見えていた。巨大な屋根。十字架がてっぺんに立っている、荘厳な建築物がこの大通りの真っ直ぐ先に見えていた。

 あそこにたどり着かなくてはならない。

 あそこまでなにがなんでも行かなくてはならない。

 もうどれだけ走っただろうか。私にはそれも分からない。だが、ここまで1回も止まりはしなかった。

 労働でボロボロになった自分がまだこれだけ走れたなんて驚きだった。

 こんなに何も考えず一心不乱に走れたなんて驚きだった。

 とにかく、走る。ただ、走る。一度も止まるつもりはなかった。後を気にかけることもしなかった。たどり着くことが今私がすべきことだった。

「随分遠くまで走ったものだなジグ・フォール。ただの一般人にしては良くやる」

 しかし、走り続ける私の前に1人の女が現れた。

 労働者のような服装の女。

 私はそのままそれをかわし、その横をすり抜けようとする。

 しかし、

「ぐっ!」

 足をかけられ、私はあえなく転倒した。

「無駄だ。お前は私から逃げられない。手間をかけさせるなよ」

 私は倒れながら見あげる。その無機質な瞳を見あげる。カンパニーのヌエの顔を見あげる。

 ヌエは私をただ見下ろしていた。

 しかし、私はもう追い詰められていると言っても良いだろう。私は魔術なんか使えない。私は磨き上げられた武術なんか使えない。私はこの女に抵抗する術をなにひとつ持ってはいなかった。

 周りを行く人は私達に眼を向けることさえなかった。厄介事に関わりたくないのかと思ったがそうでもなさそうだった。違和感がある。

「お前達が散々使ってくれた隠遁を使ってある。周りに助けを求めても無駄だ」

 なるほど、今この状況の登場人物は私とヌエだけになっているらしい。周りの人間は端役でさえなく、居ないのと同じという話だった。

「ノア・フォーブスももう死んだだろう。私が最後に見たのはギースに銃口を突き付けられているやつの姿だ。外に居る『瑠璃のリーア』も『山割り』もダリル・オールドマンも今頃死んでいる。お前の助けはもう居ないんだよ、ジグ・フォール」

 ヌエの言葉は私の頭の中に鈍痛のように鈍く広がった。認めたくない話だった。信じたくない話だった。しかし、可能性は十分にある話だった。だが、私はそんなことをイメージさえしたくなかった。

 ヌエは何もしてこない。ただ、私に地獄のような言葉を投げかけるだけだった。その様はまるで悪魔のようだった。

 逃げなくてはならない。どうにかしなくてはならない。しかし、動けない。動けばその瞬間に殺されるのが分かった。

「良くここまで来たなジグ・フォール」

 しかし、次にヌエが放った言葉は私への賞賛だった。ヌエはその人間とは思えない眼をしたままわずかに笑っていた。

 私にはこの言葉の意味が分からなかった。

「魔獣に襲われ、訳も分からないまま保護され、そして襲撃を受け、そのまま旅に出た。旅とて楽なものではなかっただろう。死の危険の伴う旅だ。およそ一般人が味わうことのない苦難に見舞われ、およそ一般人が受け容れがたい境遇を耐え忍び、お前はここまでやって来たわけだ」

 ヌエの言葉にはしかし、敵意は感じられなかった。なぜなのか、親愛の情のようなものが感じられた。

「しかも、ジグ・フォール。お前が大変だったのはこの旅だけではないだろう」

 私はそのヌエの眼を見ることしか出来ない。

「お前の経歴を調べさせてもらった。貧困家庭に生まれ、幼い頃に父親とは死別。そのまま残った母親と貧しいとてもまともとは言えない生活を送りながら育つ。そして、12の時に母親が大きな借金を友人に押しつけられる。それから、社会の底のような生活を送りもちろん学校には行けなくなった。母親も身体が弱り病気がちになり、子供の頃から働きづめ。この社会の中に入れないまま大人になり、ようやく就いた仕事らしい仕事は人を人とは思わないような職場。そこで、なにもかも磨り減らしながら死人のように生活してきた。なるほど、絵に描いたような不幸な生い立ちだ。まあ、まだましな方だが」

 ヌエはそう言った。私の半生を端的に言葉にした。私の半生はそうだった。私の半生はそういった薄暗いものだった。そうして、生きてきた。そうして、今日ここまで来た。

 そして、ヌエはずい、と身体を折り私に顔を近づけた。ヌエの恐ろしい瞳が眼前に迫った。

「ジグ・フォール。お前は私たちに近い所に居る」

「なんだと」

 ヌエの言葉に私は思わず返した。こんな恐ろしい人間達と近しいだと。私が。

「お前は理解しているはずだ。この世界は灰色だと」

 しかし、そのヌエの言葉は驚くほどすんなりと私の中に入ってきた。その形容はあまりに理解出来過ぎた。

「この世界は絶対値が決まっている。どれだけ頑張ろうが必ず限界が阻む。誰かがバカみたいに希望だの夢だの唄ったりするが、そんなものはどこにも無い。我々の生はどれだけなにをしようが報われることはない。必ず悪意に塗りつぶされる。現実に阻まれる。人間などと偉そうにしているがその実態は少し賢いだけの獣だ。それが作る世界に愛だの相互理解だのあるはずがない。似たような何かがたまに生まれることはあってもそれは所詮似たなにかだ。本物じゃない。子供の頃聞いたような素晴らしい場所なんてものはどこにもない。希望などどこにもない。この世界の実態は欲望と悪意の絡み合いだ。この世界は灰色だ。お前はそれを理解しているはずだ」

 その言葉もあまりに私には理解出来過ぎた。それは私が今まで生きてきて理解してしまったことだった。

 この世界に希望などない。誰かが誰かを助けることなどない。人間の社会は蹴落とし合いだ。お互いを理解することなど永遠にない。

 そんなところに夢だの愛だのあるはずがない。あると思っているならそれはよほど現実を知らずに生きてこられた幸せ者だ。少なくとも私にはそう思えてしまう。だって、今までがそうだった。誰も助けてはくれなかった。誰も彼もが他人をおとしめて自分を守ろうとしていた。そういったものがこの世の姿だった。そのはずだったのだ。

「でも、リーアたちは俺をここまで送ったよ」

 そして、私は私が言った言葉を一瞬理解出来なかった。自分の言葉であることが理解できなかった。言うはずがないと思った。だが、それは間違いなく私が言った言葉だった。

「連中とて例外ではない。お前を運ぶことに利があると知っているからここまで送ったのだ。ミルドレイクと何らかの契約を交わしているのだろう。仮にそうではないのならめでたい連中だ。善意などという偽物の感情に身を任せてとうとう死んだのだから。それもまたこの世の姿だ。なにをしようが必ず現実に押しつぶされる」

「でも、あいつらはこんな俺に飯を作ってくれた。楽しく話してくれた。それだけでも何かが変わった気がしたよ」

 次から次へと私はヌエに反論していた。自分でも信じられなかった。

 そして、私はヌエに敵意を持って言ってはいなかった。いや、始めからなんとなく感じていたのだ。だから、この女の名前だけはすぐに覚えてしまった。同じだと言われて理解出来なかった、それは半分本当だが半分は間違いだ。心の底ではなんとなく分かっていたのだ。この女と私は多分頭の中が似ていると。

「なるほど、連中に希望を見てしまったのか。そして、世界にもなにかを期待しているのか」

 ヌエはゆっくりと身体を起こした。

「だが、ジグ・フォール。お前は気付いていないようだな。今また、お前の人生は悪意と現実に押しつぶされようとしているということに」

 ヌエの言葉は私の心の隙を言い当てていた。確かに、今まさに私はこの女の手によって殺されようとしている。それはこの世界がやはり夢も希望もないという何よりの証明だということになるのか。

「結局こうなるんだよ。足掻こうが何をしようが、最後にはこうした結末がやってくる。必ず、希望は失われるんだ」

 ヌエはゆっくりと手を懐に入れる。それを見て、私は瞬時に飛び起きた。一瞬の隙、それを私はなんとかたぐり寄せたのだ。

 ヌエは一瞬驚いたような表情をした。

 私は、私は剣を抜いた。ダリルからもらった剣を。軽くてシロウトでも扱いやすい剣を。そして、構えた。

 少しだけでも抵抗する。私はなにか、この状況の突破口を見つけようとしていた。

 それを見たヌエは深々と溜め息をついた。

「連中に言われなかったのか? 敵わない相手からは逃げろと」

 そして、その時私の身体が急激に重くなった。脂汗が全身からにじみ出る。嘔吐感が腹の中からせり上がってくる。私はたまらず、膝を突いて倒れた。

「お前の呪いを増幅した。だが、安心しろ。殺しはしない。お前にはまだやってもらうことが残っている」

 ヌエがゆっくりと私に近づいてくる。だが、私は身体が動かない。地面に嘔吐し、意識も遠のいていた。

 ヌエに何も抵抗出来ない。

「逃げる方を選べばまだ可能性は残っていたものを。剣を抜いたお前の失敗だ。お前の人生はお前自身の手で絶望に落ちるんだよ」

 白くなっていく景色の中でヌエの言葉だけがはっきりと頭の中に響いた。

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