家猫の義務と思ってください





 セラは、家の自室に入ると、抱えていた猫を床に下ろした。


「はい、お疲れ様」

『……』


猫は力なくぺたりと床に沈んだ。


『……まさに悪夢の再来……俺がやり直すとしたら、絶対あの女王に見つからないようにする……風呂なんて嫌いだ……あの日々が戻ってくると思うとゾッとする……』

「……? 悪夢の再来なんて人聞きが悪い」


 散々ごねられて、今日やっと洗えた。

 仮にも人の家、部屋に出入りするのだ。一回くらい洗わせてくれたっていいではないか。

 すっかり毛も乾いて、倍ふわふわになっているが、猫は動く気配がない。

 セラは猫を放って置くことにして、机へと歩いていく。

 窓の外はすっかり暗く、カーテンを引く。

 椅子に座り、ポケットから取り出した小さな鍵で引き出しの一つを開けると、中にはとある報告書が入っていた。

 セラは、それを机の上に出す。


 部下に、密かにアルヴィアーナを尾行させていた。

 アルヴィアーナが侵攻の原因となった。牢にも堂々と出入りし、他国の王の隣にいたということは……普通にあの国との関係があったと考えるべきだろう。


「どうして、アルヴィアーナはアレンの側にいて、アレンを殺したんだろう」


 これも普通に考えれば……


「アレンから、何か情報を得るため……」


 アレンが高い地位にあると分かっていて近づいた?

 アレンは彼女が行き倒れているところを保護したはずだが、それさえも計画だった、と。

 他国の密偵。アルヴィアーナの正体が何だと予測すれば、この一点だった。

 では、殺されたのはアレンが用済みになったからか。


「でも、さすがにアレンは機密の部類は言わない……」


 いくらアレンでも。たぶん。

 セラは、アレンを信用しているが、ここで言い切れなくなってしまうのは、アルヴィアーナという身元不明の女を側に置くことにしたからだ。

 いや、でも、それでも仕事と私生活の線引きは出来ているはずだ。

 意外と酒癖は悪くはないので、理性がなくなってぽろっと言ってしまうことも考えられない。


「……」


 なぜ殺されたのかは、今は置いておこう。

 殺されたと分かっていることが重要だ。


 セラは、報告書の黙読を再開した。

 命令の内容は単純なものだった。

 アルヴィアーナの一日の動向──アレンが帰るまでの彼女の行動を見張ること。アルヴィアーナも、その他の誰にも気がつかれずに、だ。アレンには絶対に気がつかれてはいけない。


 アレンが帰宅してからの見張りを無しにしている理由は、二つある。

 一つは、単にアレンがいる時間にはアルヴィアーナが密偵だとしても怪しい行動は出来ないはずだから。

 二つ目は、アレンが見張られていることに気がつく可能性が大いにあるから。

 二つ目に関して言えば、アルヴィアーナが密偵であればその感覚が鍛えられており、同じことが言えるかもしれないが、一つ目の理由と合わさって、とにかくアレン帰宅後は無しにしていた。


 報告書によると、アルヴィアーナは、アレンが仕事に向かってからあまり外には出ていないようだった。

 出ても、使用人を連れて街に少し出るだけで、外出内容も単なる買い物だったりだ。店の人以外に接触している人はいない。

 また、店の人も元から店を構えている人ばかりで、とりあえず、首都の外からやって来た人を新しく雇ったとかいう人ではないようだ。とりあえずは。

 そして家にいても訪ねて来る者は届け物以外にはない。


 アルヴィアーナは、貴族を始めとして個人的な付き合いをする関係の人間はいないらしい。

 他所から来て元からの知り合いがいないことが一番大きいだろうが、アルヴィアーナはここに来てからも馴染めていない印象だ。


 そもそも、アレンの人気はあれで無駄に高いので、アルヴィアーナは裏で色々と言われているようだった。

 どこから来たとも知れぬ女が、王の騎士と婚約したのだ。

 見合い話はいっぱい来ていたし、エリオスと共に令嬢人気は高かったからなぁ、とセラは過去の行事の場を思い出した。

 セラは昔からの付き合いで、言い合い、取っ組み合いなどアレンに雑な扱いを受けるが、アレンは令嬢方にはそんなことしない。一体どんな風に見えているのか、一度令嬢の誰かの視界を拝借したい。


 それはともかくとして、アルヴィアーナが馴染めず、周りから色々言われていると知っているならば、アレンもアルヴィアーナを守りたくなるというものだろうか。


 と、今、アレンの気持ちが多少分かっても、セラがアルヴィアーナを気の毒に思う気持ちはもちろん一切ない。


 しかし、この報告書の内容では、アルヴィアーナは他国の者と思わしき人物と接触した様子がない。

 手紙でも出しているのか?

 報告書にはないが、明日から手紙の類いを使用人が出しに行っていないかも見ていてもらおうか。


『それに比べて、お前の兄弟子はいい奴だ』


 後ろを見やると、猫がようやく動く気になったらしい。ノロノロと身を起こしていた。


「エリオスのこと?」


 ギルが兄弟子と言うとして、ギルが一方的に見ている場合を除けば、直接関わりがあるのはエリオスの方だ。

 今では邸内を歩き回っているようだし。

 予想は当たりだった。猫は『そうそう、きらっきらした外見した方』と、褒めているのか失礼なのだか、よく分からない表現をして肯定した。


『すっげえ毛並み整えてくれるぜ。あのブラッシング技術、只者じゃねえな』

「何してんの」


 いつの間に、そんな関わり合いを。

 エリオスは、猫がけっこう好きなのだろうか……?


「エリオスの前で喋ってないよね」

『喋ってねぇよ。……ただ、ミルクはもういらねえなぁ』


 ギルは、猫に似合わぬふっとしたため息をついた。

 しかしながらセラにとってはどうでもいいことだ。報告書を仕舞って、別の仕事を済ませるべく、持ち帰ってきていた途中の書類とペン、インクを取り出す。


「ミルク、飲みなよ」

『嫌だ。人間の食べ物とか飲み物は俺様の口には合わねえんだ』

「ついに俺様とか言い出したよこの猫」


 呆れるばかりだ。

 でも、ご飯をあげようと思っても食べ物も飲み物もいらないと言うのは、これまた不思議猫だなぁ、という感じだ。


『何してんだ』

「仕事。あ、そこ乗ったら……」

『うわ、インクがつきやがった』


 猫らしい身軽さで、机の上に飛び乗ってきたギルの足がインク壺に入った。ほんの少し、先だけ。

 しかし、ギルが足を浮かせると、長めの毛がインクに染まっていて、ぽたり、と黒い雫が落ちる。


「……絶対、そのまま歩かないでよ。そのまま止ま」

『あ、悪い』


 猫が、軽く足を振ったのである。傘から雨の滴を払うように。

 作成途中で、一頁ちょうど終わるところだった書類に、インクが飛んだ。


「──この猫は!」

『おい! 止めろ!』


 首根っこを掴んで、すぐさま浮かせたが、ついたインクが消えるわけではない。

 掴んだ猫を睨んでいたセラだったが、瞬間的な怒りが冷めていき、猫を床の上に下ろした。

 足からではなく、背中からだ。


「動かないで」

『この状態にして、何言ってんだ?』

「だって、足が汚れてるから、立ったら絶対にどこかが汚れることになる」

『だからってお前、この状態──』

「ギルが、インクを足につけちゃって、わたしの邪魔をしたんだよね?」

『……』

「取ってあげるから、ちょっと待ってて」


 仰向けという、猫になると途端に間抜けに見える体勢のまま残し、セラは一旦部屋の外に出た。


 水を溜めた容器と、布を持って戻って、猫を持ち上げて足をつけようとすると、猫は抵抗した。さっきの再来か。


「足先だけだから」

『足先でもつけるんだろ!? 俺、水にしっかり浸かる感触が大嫌いなんだよ!』


 お風呂場じゃないからって、思いっきり喚くよこの猫。


「……ギル、そんなに暴れてると手が滑って水の中に落としちゃうかもしれない」

『おま──極悪人か!?』


 どうしてこの猫は人聞きの悪い言い方をするのか。


「はい、つけまーす」

『ああああぁぁぁやりやがったあああぁぁ……………………』


 声は途中で途切れ、静かになった。

 その間に、足をもみもみ、インクを落としていく。完全には取るのは難しいか……元々灰色だから、いいか。


 大まかに黒色を取ると、足を水から解放し、布で拭く。

 水気を取ってあげている最中、ギルはうんともすんとも言わなかった。

 少し前に風呂に入れたときも、急に暴れなくなったため、二度目だ。極端な猫だな。

 それにしても、黙っていれば単なる猫だ。

 と、思って、何だか妙案を思い付いた気がした。この猫、猫なのだ。


「ねえ、ギル」

『ああ?』


 柄の悪い聞き返しをされた。どこぞの兄弟子を彷彿とさせる。

 訂正。喋るところを抜いても、目付きは普通の猫じゃなかった。

 大体、そっちが悪いのに怒るなよ。


「はい、終わった。動いていいよ」

『ふん、やっとか』


 態度が悪い。

 相当水が嫌いなようだ。

 ギルは、解放されるやセラの膝の上から下り、乾いた足を確認するように軽く振った。

 そして、首だけで振り向いて、『で、何だよ』と尋ねた。どうも機嫌が悪くても話は聞いてくれるようだ。変に律儀だ。


「うん。わたし、今部下にアルヴィアーナを尾行させてるんだけど。アルヴィアーナっていうのは、」

『アルヴィアーナ──ああ、例の。見た見た。先を続けろ』

「そう。……それで、思ったんだけど、ギルがアルヴィアーナを尾行してくれればいいんじゃないかと」


 何しろ、ただの猫に見えるのだ。

 人が尾行するより、目立つことも危険もないに等し──


『無理』


 猫が、即答した。


「無理? それは」

『俺がしたくねえっていうのも正直あるが、それ以前に出来ない、しない方がいいって言った方がいいな』

「……しない方がいいって、どうして」

『あれ、俺に気づくだろうから。ほら、俺はそいつがいるとき、お前の側には絶対いねえようにしてんだろ?』

「いや、それは特に意識したことなかったけど……何、もしかしてアルヴィアーナ、猫が苦手なの」


 猫を大量に送り込んでやろうか。


『今のでその結論に至るのは何なんだ。まぁ、仕方ねえか。俺も色々面倒で話してねえし』


 『面倒くせえ』、と猫はぼやき、とことこと歩いてベッドに飛び乗った。

 そして、もぞもぞと動き、座るポジションを調節して、やっと座った。

 どうでもいいけど、普通にベッドの上に行くよね。毛がつきそうだから、正直止めてほしい。まあ、不思議と毛がついていたことはないようなのだが。


 ベッドの上で満足いく体勢になり、猫はセラを見た。


『あれ、魔女なんだよ』









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