その女をどうにかしなければならない





 現実であるかどうか分からない。そんな状態で、セラはまた一人でとぼとぼ歩いていた。

 どうあれ、とりあえず仕事に行かなければならないか。

 余計な考えを取り払おうと思うと、染み付いた考えが無意識に働きかけ、自然とセラの足は執務室に向かう。


「セラ」


 執務室の前に、二人の兄弟子の内、エリオスがいた。


「どこに行っていたんだ?」

「裏庭」


 とっさに別の場所を言う発想はなく、事実を答えた。まあ、嘘をつく必要もない。


「エリオスはどうしたの? わたしに何か用?」


 泣いてしまった手前、ちょっと気恥ずかしいような気分なのだけれど、諸々のことと共に頭の隅に追いやる。


「うん、大丈夫かなと思って。……セラが泣いたのは、随分久しぶりに見たから」


 まさに追いやったものの話だった。

 ……普段、叩かれた程度では泣いたりしないし、そもそも泣いたのも、いつ以来だ。

 そう考えた瞬間、目の前にいるエリオスが『死んだ』光景を思い出した。


 傷一つ、血もついていない、前にある姿に、血だらけで起き上がることのなくなった姿が重なる。

 ずれが、生じる。


「セラ?」


 わたしは。わたしは。


「何、でもない」


 何でもなくはない。気がおかしくなりそうだった。

 自分に何が起きているのか、分からない。


「何でもない」


 自分に言い聞かせるように言い、心配そうにするエリオスとは何とか別れたことだけは、覚えている。


 その日は、そこから執務室で書類業務をして、午後からは訓練に行った。

 『いつも通り』の訓練の光景があった。セラは訓練には加わらず、ほぼ何も考えず、その光景を眺めていた。

 馴染んだ日常だった。あるべき日々。

 いつしか、記憶を、悪い夢だったのだと思おうとしていた。今があるのだから、あんなことが起こったはずがない。

 頭の中で繰り返し自分に言い聞かせ、辛うじてそう思え始めていたのだ。


 彼女に会うまでは。


 夕刻になり、今日の仕事は終わりだと執務室を出た。

 そこで、もう一人の兄弟子、アレンに会った。


「セラ、お前も今から帰るのか」

「うん」


 自然な流れで、一緒に廊下を歩き始めた。


 セラには、兄弟子が二人いる。

 エリオスとアレン。エリオスが一番年上で、アレンが二番目。

 ただの弟子繋がりで、血は一滴足りとも繋がっていないが、兄妹のような間柄だ。師に引き取られると同時に弟子となってから、共に暮らしたことが関係しているだろう。


 エリオスは穏やかな性格だ。大抵微笑んでいて、その微笑みは色彩と相まって太陽のようだと称されることが多い。

 実際、性格的にも温かな日だまりのようなものだとセラも思う。

 しかし、騎士としての資質は秀でたもので、剣の腕は国一だと言われているほどだ。頭も良く、仕事は早い。


 対して、アレンは強気な性格だ。大抵仏頂面に近い表情で、笑うときは彼が笑いたいとき。その笑みは、人が良さそうだとは口が裂けても言えない。

 まったくもって、普段の性格と表情はエリオスとは正反対だとセラは思う。

 だが、彼とて騎士としての腕は本物で、周りからの信用は大層厚い。

 セラも、もちろん信用はしているし、本人には絶対言わないが尊敬もしている。しかし何かと些細な喧嘩をすることが昔から多い。


 そして、このアレン。行動は雑な面が目立ち、思うことをそのままするが、


「朝、叩いて悪かったよ」


 自分の非だと認めれば、黙りではなく、意外と素直に謝るところがある。

 急に謝られて、セラは朝叩かれたことを思い出した。そういえば。


「ううん、わたしが寝てた、みたいだからわたしが悪い。ごめん」


 セラも謝っておく。


「なに、エリオスに言われたの?」


 セラが寝ていたのであれば、セラが悪い。

 こういう場合は、叩いたとはいえ、彼自身が悪いと思うかどうかは微妙なところだ。叩くことなんて、彼に関して言えば昔からしょっちゅうだからだ。今さらなところがある。


 そう思って、もしかしてと尋ねると、アレンが思いっきり仏頂面になった。

 違ったらしい。


「もしもエリオスに言われたとして、なんで俺がエリオスの言う通りにしなきゃならないんだよ」

「え、アレンがエリオスに怒られてっていうのがあったことがあるから」

「昔のことなんか忘れろ。……俺だって餓鬼じゃないんだ」


 確かに、今は改善されたこともあるだろうけれど、部下もいる立場だからかそういう場面は見ることは減った。

 でも、やっぱりやり取りはエリオスが一枚上手というか。客観的にエリオスとアレンのやり取りを見ているとアレンが弟だなぁ、と思うのだ。

 単なる性格の問題だろうか。


「……つーか、お前が泣いたのは焦ったからな」

「え?」


 アレンは、セラから視線を逸らし、頭をかいた。

 ……なるほど。泣いたことが謝罪の起因らしい。


「打ち所が悪かったんだと思う」

「俺はちゃんと手加減した」

「それはどうも」


 素手でされなかった時点で手加減だったのかもしれない。

 何しろ彼の素手での本気の打撃は、危険の域だ。


「大体、あそこで泣く──あ」


 あ?

 謝罪ターンから切り替わって来たな、と思って聞いていたら、言葉が途切れた。

 アレンは、前方を見ていて、仏頂面が変化する。笑みへ。


「アルヴィアーナ」


 彼の口から紡がれた名に、セラの歩みが鈍った。

 弾かれたように、アレンと同じ方向を見た。

 気がつかない内に外に出て、門をくぐり、そして、その場に女が待ち構えていた。一人の女が。


 ほっそりとしつつ、女性らしい体つきは、衣服の上からでも分かる。

 未婚の証に、まだ結われていない黒髪が華奢な肩を覆っている。

 化粧っけはないが、その唇は紅を塗っていないとは思えないくらい真っ赤で、唇を開く動きだけで艶めいてさえ見える。


「アレン様」


 微笑むアルヴィアーナに、アレンが歩み寄る。彼女に微笑みかける。

 二人は、恋人の距離になり、触れ合う。


 セラは、その様子を身動き出来ず見ていた。彼女の姿を見た瞬間、体が固まり、顔が強ばったのが分かった。瞬きもろくに出来ない。


「あっ」


 女性の声が聞こえたと思ったら、アルヴィアーナがセラに気がついた反応だったらしい。


「セラさん」


 最初はセラ様と呼ばれたところ、居心地が悪く、セラでいいと言ったが、結局は「さん」に落ち着いた。


 セラさん、という声は控えめで、彼女はアレンに隠れるように身を寄せる動作をした。


 セラが友好的ではないからかもしれない。

 元々、出会ったときから感覚的に『駄目』な対象だったことと、別の理由が重なって友好的には出来なかった。


 それを感じ取ってか、アルヴィアーナはセラに対して窺うような姿勢を取った。控えめに。

 普段なら、セラはもう無理に友好的にすることもなく、さっと去って行っただろう。彼女を庇護しているアレンのことを考えると、こじらせるのは避けたい。


 だが、今。

 今日エリオスに重なった光景があったように、アルヴィアーナの姿に重なる『記憶』が甦ってきた。

 否、エリオスのときより、遥かに強く。鮮やかに。


 ──「アレンの死体は見つけてあげた?」

 ──「彼を殺したのは、私よ。気がついていた?」


 カッと、頭に血が上った。

 体が動いて、アルヴィアーナの腕を掴み、引いていた。アレンに近づくな!


「きゃ」

「セラ、何してんだ!」


 セラの手は、乱暴に振りほどかれた。


 瞬きをした後には、前には、アルヴィアーナを抱き庇ったアレンがいた。


「セラ、どういうつもりだ」

「……アレン、その女はダメだよ」


 言葉は、勝手に出てきた。

 こういったことを言ったのは初めてだからか、アレンは目を見開いた。

 それから、険しい表情になる。


「なんで、そういうことを言う。……確かに、お前がアルヴィアーナと仲が良くないのは知ってるが、そういうことを言ったことはなかっただろう」

「だって、──っ!」


 セラは、無意識に言い返そうとして……唇を噛んで止めた。

 これ以上言っても、どうにもならない。変化するとすれば、自分とアレンの距離だ。アレンの様子に、感情に任せれば修復出来ないことになりそうな予感がした。


 セラの感情は、ぐちゃぐちゃだった。

 アルヴィアーナを見て、思い出して、瞬く間にぐちゃぐちゃになった。

 心の中で強く叫ぶ自分がいる。

 どうして分からない。分かってくれない。

 その女は駄目なのに。


 自分の中にある記憶と光景は夢か現実か。まだ分からない。わけが分からない。

 だが、夢にしては、生々しすぎる。

 感情を覚えている。悲しかった、悔しかった、怒ってもいた。

 体験した感覚も覚えている。肉を切り続けた感触、伝う血、におい。痛かった、かつてない疲労があった。あの戦場は、過去の経験から作られた既視感の類いではない。

 違うのだ。


「──セラ!」


 セラは、走ってその場を去った。


 あの女を、どうにかしなければ。

 その強い思いだけが胸にあった。









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