第38話 Brandy a Go Go
音楽、ギャラリーの声、グラスのぶつかる音が初雪亭を包む。ほとんど息をつかずに2人はテーブルをたちまち4分の1周した。
だが、何しろテーブルに並んだのはブランデー2本半である。勢いが続いたのはここまでで、この先は泥試合の様相になった。
「いいペースだ!」
「遅れてるぞ!」
こういう場合、声援は邪魔にはなっても足しにはならない。だが、全員かなりの金を賭けているので黙ってはいられない。今や初雪亭は非生産的な熱狂のるつぼであった。
そうして双方半分を通過したところで足元がおぼつかなくなった。この先は気力の勝負である。世界は歪み、声援は聞き取れなくなり、ひたすら残りのグラスの数を数えながらブランデーを胃に流し込むばかりだ。
先に外周のグラスを空にしたのはジャンヌであった。だが、もはやテーブルに手をついてどうにか立っている状態だ。あと6つのグラスを飲み干せば勝ちだが、今のジャンヌにはそれが6樽にも感じられる。
「やい、お姫様。足がふらついてるぞ…降参するなら今のうちだ」
ブランコは時間を稼ごうとしてジャンヌに揺さぶりをかける。
「馬鹿にするな。その言葉はそっくり返す…」
ジャンヌは一気に畳みかけようとして最後の力を振り絞ってペースを上げた。
だが、これが却って悪かった。5つのグラスを一気に空にしたまでは良かったが、銀貨の入ったグラスを前にしてついにジャンヌはテーブルを枕に倒れ伏した。
「シャルパンティエ!貴様それでも軍人か!」
ギョームがいくら叫んでもジャンヌは反応が無い。これを見て分遣隊のボルテージは最高潮に達した。
「ざまあ見やがれ。外人部隊を舐めるなよ」
ブランコは意識を失ったジャンヌを見下ろしながら、しかし苦悶の表情でグラスをゆっくりと空にしていく。
そして、最後のグラスを手に取った瞬間事件が起きた。ブランコもまたグラスを道連れにしてぶっ倒れたのだ。グラスはテーブルに落ちて割れ、ガラスの破片とブランデーと銀貨がテーブルに飛び散った。
「こりゃいかん。引き分けだ」
アハメド医師が2人を並べて床に転がし、続行不可能と判断して裁定を下した。初雪亭の先程までの喧騒は一転、水を打ったように静かになった。
「引き分けは胴元の総取りだ!」
しばしの静寂の後にマリオンは極めて身勝手な事を宣言し、金の詰まった帽子を手に出口めがけて駆け出した。
「ふざけるな、この老いぼれ野郎!」
「やっちまえ!」
地上班員もまた外人部隊に負けず劣らずの乱暴者揃いであり、酒が入っている。たちまちマリオンはとっ捕まって引きずられ、大乱闘になった。
金が飛び散り、その上を踏み越えて数十人の男が殴り合う。流石に外人部隊は喧嘩慣れしていて、壁に張り付く事で人数の不利を潰して持久戦に突入した。
店の奥の壁に張り付いた分遣隊に飛龍隊が群がり、壁板の壊れそうな勢いで闘いが続く。
彼らの代表者は床に転がっていて、コクトー神父はこの期に及んで演奏を止めない。女性陣はカウンターの奥に逃げ込み、モランとアハメド医師はブランデーの残りを飲みながら笑っている。
飛龍隊は今夜も賑やかであった。だが、地上班員の誰かが厩舎から凶器になりそうな道具を持って来ると、将校団は止め役に回る羽目になった。
そこへ1発の銃声が響いた。一同が思わず振り向くと、そこに居たのは帯剣して拳銃を持ったブレスト司令である。
「一体何事だ!?」
ブレスト司令は初雪亭で争いが起きると予見して不干渉を決め込んでいたが、目の前の光景は不干渉が許されるレベルを逸脱していた。
「我々は畏れ多くも近衛親衛隊だぞ。多少の喧嘩ならともかく、内乱は許さん」
ブレスト司令の力業で初雪亭の騒乱はひとまず収まり、ブランコとジャンヌは医務室に運び込まれて夜を明かした。
ブランデーでブランデーを洗う争いの代償は大きく、夜明けになってもどちらもベッドから起き上がる事も出来ない。しかも勝負が引き分けとあっては全くの無駄骨である。
「ご両人、良い朝だな!」
アハメド医師がジョッキを両手に持って医務室に入って来た。これにはたまらずジャンヌもブランコも耳を塞いだ。頭が割れるように痛い。
「手打ちの盃としゃれ込もうじゃないか。俺のおごりだ」
アハメド医師は2人を抱き起してジョッキを無理矢理持たせ、飲むように催促した。
「センセ。これ何です?」
「飲めばわかる」
ジャンヌはこれが何なのか知っている。だが、覚悟を決めてブランコと一緒にジョッキの中身を呷った。次の瞬間、悶絶しながら2人はベッドから転げ落ちた。
「毒を盛ったな!?」
「心配するな。まだ死んだ奴はいないよ」
アハメド医師特製の気付け薬はブランコに暗殺の疑念を抱かせるに十分な刺激があった。
「アハメド医師、後遺症は無いでしょうね?」
どうにか正気を取り戻したジャンヌが息も絶え絶えに言った。
「ブレスト司令はちょっと性格が暗くなったが、これのせいじゃないだろう」
「畜生!寿命が縮んだ」
「毒を盛るなら、もっと上手で確かなやり方が色々あるさ」
アハメド医師は恨み言を言うブランコに怖い事を言った。ジャンヌはあまり本気にしなかったが、ブランコは真実味を感じて一層肝を冷やした。
とにかく、薬が効いてどちらもその日の勤務に無事就くことが出来た。
ジャンヌとモーリスは帝都へ郵便飛行に出たが、居残り組は午前は戦闘訓練である。
「パスカル大尉。あんたは帝国一の使い手を称してるらしいが、本当かね?」
あくまで親衛隊との決着に拘るブランコは、防具を身に着けて訓練用の刃引きしたサーベルを手にしたギョームに露骨な挑発をした。
「先帝陛下はそうおっしゃった。字が読めるなら、年代記にも書かれているから読んでみろ」
「だけど、随分と戦場とはご無沙汰でしょう?パレードの山車同然の親衛隊じゃあねえ…」
「戦場でしか強くなれないと思うのなら、それは浅はかだな」
ギョームは自らのサーベルをブランコの鼻先に突き付けて笑った。
「回りくどいことを言うな。試そうじゃないか」
「そう来なくっちゃね」
第2ラウンドが始まったというので地上班員ばかりか近所の農民まで大騒ぎで見物にやって来た。万一の事態に備えてアハメド医師が呼ばれ、コクトー神父が祝福を授け、ギャラリーが2人を取り囲む。
勿論賭け金が飛び交っているが、マリオンはもはや信用されないと見えて、昼間は退屈しているモランが胴元を買って出た。
営庭は人で埋め尽くされ、直径10メートルほどの空間だけがギョームとブランコを残して空けられた。ブレスト司令でも止める事は出来まい。
2人は防具を着けて刃引きしたサーベルを持っているが、それでも血を見るのは明らかだ。ギャラリーはまるで闘牛かボクシングでも観るように熱狂している。
「とっつぁん。あんたの時代は終わりだ」
「パスカルの男は生き延びるごとに強くなる」
「じゃあ、それも今日で終わりだ」
「そっちこそ、その怪しい爵位を誰に継がせるか遺言しておくんだな」
「女々しいねえ。パスカルの男ってのはたかが下士官なのにそんな事をするの?」
「おや?下士官を軽んじるような将校を闇討ちするのは外人部隊の得意技じゃないのか?」
「さあねえ。何のことだか?」
「そうだろう。嘘もお前たちは得意だからな」
罵倒の応酬の末、唐突に剣戟の音と火花がギャラリーの目耳をくらませた。
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