第32話 女泣かせの少尉殿

 この町の教会は司祭一人で切り盛りしているため、部屋はあるが食事の用意はない。


 飛龍隊はファイヨル曰く「模範的な帝国臣民にして信徒」の経営する食堂で食事を取る事になった。ただし、ブレスト司令は彷徨う人の処遇について掛け合うために町長の家で会食である。


 町の目抜き通りと称するささやかな通りに、その雨傘亭という一風変わった名前の食堂兼酒場兼宿屋はあった。


 ギョームが店のドアを開けると、奥行きがあって意外に広い店内は近在の牧夫や農夫らしき客でなかなかの繁盛である。店の奥では彷徨う人らしきバイオリン弾きのの2人連れが陽気な音楽を奏でている。


「いらっしゃいませ、飛龍隊の皆様。主人のアレクサンドル・アルノーです」


 カウンターの奥に居たギョームと同年代の中年男が非常にゆっくりと歩いて出てきて、飛龍隊を出迎えた。


 なぜそんなに歩くのが遅いのかというと、アルノーの左足は膝から下が木の義足だからだ。彼は傷痍軍人だという話であった。


「さあ、席を用意してあります。どうぞ奥へ」


 アルノーは空けておいた一番奥の席を指し示し、カウンターへまたゆっくりと戻っていった。折り目正しい、見るからに実直そうな男である。


「ようこそこんな田舎町へ。女将のディアナです」


 席に着いた飛龍隊の元へ、エプロンドレスに身を包んだ女将がワインボトルを手に現れた。


 長身で細身、背中まで伸ばしたプラチナブロンドの髪と白い肌、珍しい紫の瞳の印象的な美人である。アルノーより随分と若く見えた。


「こっちは娘のラウラ」


 ディアナと一緒に出てきてワイングラスをテーブルに並べていたテオドラと同じくらいの年頃の娘が、ディアナに紹介されて軽く会釈した。


 母親よりいくらか背が低く、髪の毛に癖があるが、その他は限りなく母親似の美しい娘である。どうもこの母娘が目当ての男で店は繁盛しているらしかった。


「女将、あんたはアペニン半島の人だね?それも南の方だ」


 ギョームはグラスにワインを注ぐディアナにいわくありげな視線を送る。


「あら、お分かりですか?」


「2年ばかり出征していたんでね。酒と女にかけては大陸一の国だ」


「流石は名高いパスカル大尉殿、お察しの通りですよ。だからうちはアペニン料理が自慢ですの」


「そいつはいい。アペニンの料理は美味い。何より、テーブルマナーに神経を使わずに食える」


「あら、うちの料理がお気に召すとよろしいんですが」


「よし、乾杯だ。アペニン美人と親善に!」


 ギョームが乾杯の音頭を取り、飛龍隊がワインを飲み干したのを見届けてディアナは厨房に入っていった。


「大尉、そういう振る舞いを奥方が知ったら怒るのでは?」


 ラウラにワインを注いでもらいながら、ジャンヌはギョームの意外な一面に困惑を隠せない。


「軍人の行く先には酒と女がつきものだぞ。極東には知らぬが仏という諺もある」


「親衛隊将校としての体面という物があるでしょう」


「おや?貴族の世界にはもっと酷い醜聞があるんじゃないのか?」


「醜聞があるのとそれがどう世間に評価されるのかは別の問題です」


 二人が言い争っている間に、ラウラ相手にジャンヌの言う体面の逆を行くのがモーリスである。モーリスは親衛隊将校である以前に海の男なのだ。


「将校さんは、海の人?」


「わかるのかい?」


「海の匂いがするから」


「そうさ。一昨年の今頃は鯨を追いかけてたのに、今は飛龍に鞍替え」


「海って素敵な所でしょうね」


「荒れてなきゃね」


「私、まだ海を見た事ないの」


 ラウラがモーリスと話し込みながら給仕をしていると、女将自慢のアペニン料理と当地の特産の牛のステーキが運ばれてくる。


「この店の人は吸血鬼じゃないですね」


 食べ慣れないが美味なアペニン料理を口に運びながら、テオドラは隣の席のベップに耳打ちした。


「おや、何故ですか?」


「料理にニンニクが入ってます」


「フーク君。それは考え過ぎというものです。会う人全てを疑っていては身が持ちませんよ。第一、彼らがニンニクを嫌うのかも不確かなのですから」


「それはそうですけど…」


 テオドラの心配を他所に、飛龍隊の面々は美味い料理と酒で出来上がり始めている。


「すると御主人、あなたもあのアペニンの戦役へ出征したのですか?」


「ええ、当時は歩兵第12連隊の伍長でした。大尉殿と御父上の活躍はあの頃から聞いております」


「すると、あの緒戦の山岳戦で顔を合わせたかも知れませんな」


「私はあの戦闘でこの通り。足をやられて落伍して死にかけていたところを助けてくれた村娘が居ましてね。それがあいつですよ」


 カウンターで話し込んでいたギョームとアルノーにディアナがワイングラスを掲げて微笑む。


「良き細君を持ちましたな」


「足と交換でも決して惜しくはありません。こうして子宝にも恵まれて、商売も繁盛しておりますから」


 ギョームは自らと同じ戦争に身を投じ、国家の為に身を捧げたアルノーに大いに好感を持った。初対面でも戦友だからこそ分かち合える不思議な絆がもはや芽生えつつあった。


 一方、その子宝たるラウラとモーリスは怪しげな雰囲気である。


「海の男って気持ちが良いわ。ここいらの男は皆互いの事に首を突っ込んでばかりで陰湿だもの」


「船に乗ったらそうも言ってられないよ。嫌われて海に放り込まれた奴も居るんだぜ」


「けど、私も海を一度見てみたいなあ」


「見れるさ。もう生まれた村で死ぬまで暮らすような時代じゃない」


「けど、私はこの店の跡取りだもん。毎日ここで働いて、丘の教会から見えない所まで行ったことないの」


 モーリスが機嫌の良い時だけ吸う葉巻に火をつけてやりながら、ラウラは少し寂しそうな表情を浮かべた。その物憂げな様はモーリスも思わず息を呑む美しさである。


「すると、あなた達彷徨う人はどういう基準でもって移動するのですか?」


「旦那、あっしらはそういう事を家のある人に話しちゃいけない掟なんですよ」


 一方、彷徨う人の実態を知りたいベップはバイオリン弾きを質問攻めにして困らせていた。


「そこを曲げて。彷徨う人についてはまだ謎が多く、聞きたいことが無限に…」


「弱ったな。そちらのお嬢さん、一曲いかがです?」


 バイオリン弾きは答えに困ってテオドラにリクエストを求めた。


「よし、君らのレパートリーで一番賑やかなのをやってくれ」


 一人つまらなそうにしていたジャンヌが割り込み、銀貨を手にバイオリン弾きに所望した。


 楽士の数日分の稼ぎにあたる銀貨だ。バイオリン弾きは目を白黒させながらその銀貨を押し頂くと、相方に何やら耳打ちして店を飛び出て行った。


「女伯さん。機嫌悪いですね」


 テオドラはジャンヌの様子がおかしいのを見て少し心配になった。しかし、その一方で次々運ばれてくる珍しくて美味なアペニン料理に酒が入って上機嫌である。


「男どもは親衛隊将校としての自覚が足りない。司令は今頃帝国の名誉の為に交渉しているというのに。ああいう連中こそ吸血鬼に血を盗られてしまえばいいんだ」


 男衆のだらしなさにジャンヌは憤慨する。確かに彼らは浮かれ気味である。雨傘亭は実に楽しい店であった。


 そうしていると出て行ったバイオリン弾きが他の酒場から仲間を呼び付けて戻ってきた。ギター、手風琴、踊り子らしき娘も加えて彷徨う人は5人編成となった。


「帝国万歳!」


 バイオリン弾きがそう叫び、気前の良いジャンヌの為に急拵えの楽団が一斉に音楽を奏で始めた。流石に海千山千の彷徨う人だけあって勘が良く、隣の客の話し声もよく聞こえない大音量である。


「帝国万歳とは調子の良い事を。これはアルミニアの軍歌じゃないか」


 ギョームはアルノーと一緒に苦笑した。彷徨う人にしてみれば国家などというのは馬鹿馬鹿しい概念なのだろう。


 テオドラは調子に乗って踊り子と一緒に踊りだした。修道女のような装いのテオドラが彷徨う人と一緒に踊る姿に居合わせた客は驚きが隠せない。


「将校さん。教会の麓に出来た建物が飛龍の厩舎よね?」


 花火のような喧騒の中、ラウラはモーリスの耳元にあからさまに顔を寄せて囁いた。


「それがどうした?」


 ゾクゾクとしながらモーリスは答える。


「どれが将校さんの飛龍なの?」


「向かって右端だよ」


「じゃあ、2時にそこで会えないかしら?」


 ラウラの大胆な申し出にモーリスの口から葉巻が落ちた。勿論、星と飛龍を眺めながらコーヒーを飲もうなどという話ではあるまい。


「将校さんは厩舎に居て。私が来たら厩舎の裏を3回叩くから、それが合図よ」


 ラウラはそう言い残してモーリスにウインクし、ワインを取りに厨房へと入っていった。


 モーリスは喜びを爆発させたいところだが、これは流石に自分の一存では決めかねる重大事項だ。


 そこで、モーリスはギョームを元居た隣の席に呼び戻してお伺いを立てた。


「エスクレド、お前も隅に置けんな!」


 その旨を聞いたギョームは怒るどころかモーリスを小突いて妙に嬉しそうである。


「司令が怒りやしませんかね?」


「軍人と男の先任者として言うが、そういう役得がないと軍人などやっておれんぞ。ブレスト司令だってあれで若い頃は…」


 モーリスにはブレスト司令の女遊びなど想像もつかないが、長年の付き合いのギョームが言うからにはそういう過去もあったのだろう。


「海の男の流儀で楽しめ。旅の恥はかき捨てだ」


 ギョームは戻ってきたラウラの背中を叩き、密かにお墨付きを与えた。つまり、ジャンヌの計略は完全に裏目であった。


 日付の変わる頃にお開きとなり、飛龍乗り達は教会に戻った。だが、モーリスの夜はこれからだ。


 身支度を整えて厩舎に入ったモーリスは、持ち帰ったワインをちびちびとやりながら時を待った。スパルタカスは知らぬ風で寝藁に身を横たえている。


 約束の2時より少し早くに誰かが厩舎の裏を3回叩いた。モーリスが慌てて表に出ると、そこでは白いワンピースに着替えたラウラが月明かりに照らされながら微笑んでいる。


「入っていいかしら?」


「勿論」


 ラウラはモーリスの返事と同時に厩舎の栓棒をくぐって厩舎に入ってきた。


「飛龍って大きい」


「あっちの2頭はもっと大きいよ」


 モーリスは密かに店から持ち出したワイングラスにワインを注ぐと、ラウラに手渡した。


「こんなのに乗って空を飛ぶなんて、将校さんは勇気があるのね」


 ラウラは逆にモーリスのグラスにワインを注ぐと厩舎の奥に座って乾杯し、同時に最初の一杯を飲み干した。


「今は将校じゃない。モーリスでいいよ」


「じゃあモーリス、私のこともラウラって呼んで」


 ラウラは空のグラスを藁の山に投げ捨てると、モーリスに覆いかぶさるようにして肩を掴み、紫の瞳でモーリスを見つめた。


「ラウラは大胆だな」


「これからが本番よ」


 そう言ってラウラはモーリスに唇を寄せ、そのまま藁の上に倒れかかった。


 夢のような一夜が過ぎ、鶏の鳴き声でモーリスは目覚めた。ラウラは既に姿がない。外は霧雨で冷たい空気が立ち込めている。


「モーリスさん。何をしてるんです?」


 そこへ早起きなテオドラが飛龍の様子を見に来たのが悪かった。


「その、飛龍が気になって」


「ふうん。そうですか」


 何があったか察しているテオドラの冷ややかな視線が痛い。モーリスはいそいそと教会に戻っていった。


 雨傘亭が昨夜のうちに朝食を届けておいてくれていて、モーリスが着替え次第朝食となった。良い思いをしたとはいえモーリスは気まずい。


「エスクレド。君は厩舎で寝ていたそうだな?」


 意外にもその事を最初に追及したのはブレスト司令である。


「不寝番としては失格だな」


 ジャンヌは一層モーリスに冷たい。軽蔑の眼差しがモーリスに突き刺さる。


「エスクレドは私の指示で飛龍を吸血鬼が襲わないように見張っていたのです」


 ギョームはモーリスの味方である。もっとも、ブレスト司令も立場上追及しただけで、あまりとやかく言うつもりはないらしい。


「それで、飛龍は無事かね?」


「ええ。見物に来た人は居たみたいですけどね」


 テオドラは嫌味を言う。もっとも、テオドラとて昨夜の振る舞いとて親衛隊の一員として適切とは言い難かったのだが。


「ならいい。エスクレドにはその元気を買って9時には雨天飛行の実験も兼ねて、司令部へ伝令に飛んでもらう」


 ブレスト司令は一通の手紙をポケットから取り出し、モーリスに託した。

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