第21話 ロッテ先生
「へえ、あんな辺鄙な所にねえ」
飛龍隊と帝都を連絡する荷馬車が田舎道をのろのろと走っていくさなか、御者は滅多にない珍しい積み荷に話しかけた。着任者である。
「秘書と家庭教師が要るそうで」
「じゃあ、あんた先生かい?」
御者は思わず隣に座ったその人物の方へ向き直った。確かにその人物は秘書や家庭教師という肩書の似合いそうな佇まいではある。
「あそこは飛龍が居るし、荒くれが揃ってるけど、あんたみたいな人に務まるかね?」
「家庭教師は余っていて、仕事があるだけでも…」
「はあ、それなら何とか務まるのを祈りますがね」
御者は血の気の多い地上班員にこの先生が取って食われやしないかと心配でならなかった。
一方、訓練を終えた飛龍隊はその人物を出迎えるべく営庭で待ち構えていた。何しろ皇帝の肝煎りで派遣される秘書兼家庭教師である。無碍にできない。
「司令、どんな方が来られるのですか?」
ギョームは気が気ではない。やって来るのはブレスト司令を事務面で補佐し、また愛娘ミシェルの教育を担う大変な重要人物である。
「皇后陛下の推薦でな。非常に優秀と聞いている」
ブレスト司令も直接会った事はない。ともかく、誰がやっても同じの書類仕事から解放されたかった。
「来た!」
本部の屋上に上がって見張っていた地上班員が、地平線の向こうに馬車を見つけて叫んだ。彼は読み書きの出来ない己の無学を恥じ、子供に混じって学ぶ立派な男である。新しい先生にかける期待はあるいはギョーム以上かもしれない。
ゆっくりと馬車は営門に入り、整列した隊員の前で止まった。
馬車から降り立ったのは、20代の後半くらいの女性であった。いかにも家庭教師風の地味なドレスに身を包み、結い上げた金髪と銀縁の丸眼鏡が特徴的で、見るからに知的な面構えをしている。彼女に子供を預ける面々は内心「当たり」が来たと思った。
「ようこそ近衛飛龍隊へ。司令のマルセル・ブレスト少将だ」
ブレスト司令の差し出した左手に彼女は握手を返した。
「わざわざ出迎えてもろうてえろうおおきに。シャルロッテ・ハイゼルベルグです。よろしゅうおたの申します」
「遠路来てくれて感謝する。まずは隊員の紹介より先に部屋へ案内しよう」
東部訛りで挨拶をしたハイゼルベルグは、荷物を預かった地上班員に案内されて本部に用意された空き部屋へと入っていった。
「東部の人ですね」
しばしの沈黙を破ったのは、他人事のモーリスである。
「皇后陛下のご指名なら優秀な人材であるはずです」
ベップは読み書き計算の教育に正直疲れており、彼女がそれを肩代わりしてくれる事への期待が大きかった。
「司令、あれで国語が教えられるんですか?」
ギョームは不安でならない。不敬と言われても我が子の方が今は大事である。
「大尉、それは失言では?」
ジャンヌは大尉をなだめる。ギョームが娘の事になると自分を見失うのは部下として大いに不安であった。
「どうあれ、間に合わせでクルチウスがやるよりは良い結果を産むはずだ」
ブレスト司令は鷹揚である。皇后ともあろう人が、まさか飛龍隊を預かる稲妻ブレストの秘書役に不適当な人物を勧めるはずがないという自信がある。
自分がどう思われているか知ってか知らずか、ハイゼルベルグは部屋に荷物を置いて出てきて、飛龍隊を案内された。
「こっちが飛龍の厩舎だ」
「はあ、これが。えろう大きいですな」
テオドラがリウィウスを厩舎から出して連れてくると、リウィウスはハイゼルベルグに顔を寄せた。ハイゼルベルグは恐怖に顔を引きつらせて思わず後ずさりしたが、リウィウスは付いてくる。
「先生、気に入られてますよ」
テオドラは東部国境の南端の、アルミニア語のみならずアペニン語も少なからず混在する銀嶺山脈の生まれなので、ハイゼルベルグの訛りにむしろ親しみを持っていた。
「慣れたら可愛いんかも知れんけど、ちょっと怖いですわ」
本人の意思に反してハイゼルベルグは飛龍に好かれるたちらしく、他の3頭も彼女には好意的であった。
一回りして夕食となり、ハイゼルベルグの歓迎会が初雪亭で開かれた。
「先生は何で飛龍隊に?」
テオドラが口火を切る。彼女はすっかりハイゼルベルグを気に入っていた。
「私は橋の街の生まれですけど、フークはんくらいの頃にお父はんが亡くなりましてな」
橋の街は東部国境を成す川のほとりにあり、橋を渡ればアルミニアである。
従って歴史上目まぐるしく帰属する国の入れ替わってきた都市であり、むしろフランコルム語よりアルミニア語の影響が強い。
ハイゼルベルグの父のアーセンは当地の弁護士であった。弁護士を雇えないような貧しい人の弁護を無料で引き受ける事で有名であり、法曹界で尊敬を受けていた人物である。
だが、その為にアーセンは弁護士とは思えない程貧しく、ハイゼルベルグを学校にやると以前にもまして家計は苦しくなり、ハイゼルベルグが中等学校を卒業する直前にアーセンは過労と病気で力尽きた。
ハイゼルベルグには病弱な母マレーネと、かなりの額の借金が残された。ハイゼルベルグは結婚もままならず、借金と病母の為にアーセンの弁護士仲間の周旋で家庭教師として働き始めた。
だが、家庭教師の稼ぎは決して良いとは言えず、借金が一向に減らないままマレーネも段々弱っていき、遂に亡くなったのが昨年の事である。
この話が皇后グレースの耳に届き、皇后は寛大にもハイゼルベルグの借金を肩代わりし、高給の取れる飛龍隊に推薦してくれたのだ。
「ここは大なり小なり問題を抱えた人間しかいないねえ」
ハイゼルベルグの暗い身の上話で湿っぽくなった空気を察し、アハメド医師が笑う。アハメド医師の言う通り、飛龍隊は飛龍隊が必要とする、そして飛龍隊を必要とする人間の集まりであった。
「医師として、こういう気分に対する最大の良薬を処方しよう」
アハメド医師の言葉を待たず、モランが図ったとしか思えないタイミングで次々とブランデーのボトルとグラスを並べ、ブランデーを配り始めた。
「俺のおごりだ。神父様、音楽を!」
指定席のピアノの椅子に座っていたコクトー神父がブランデーグラスを受け取り、地上班員の歓声と共に一気にグラスを呷って陽気な音楽を奏で始めた。
アハメド医師の力業で一気に場は明るくなった。だが、あまり飛龍隊の面々は酒癖が良くなく、ハイゼルベルグも例外ではなかった。
「司令はん、うちはそら寂しい行き遅れの女かも知れまへんけど、皇后陛下に勧められてここへ来たからには…」
ハイゼルベルグは前後不覚に酔ってブレスト司令にじゃれつく。新聞記者が来たら大事になりそうな光景だが、ブレスト司令はブレスト司令で似たようなものなので咎めようともしない。
「先生、あんたは確かに学はあるし秘書としては良いんだろうが、同時に教師でもあると辞令にも書かれてる。その訛りでも国語は教えられるんだろうな?」
ギョームは酒の勢いでハイゼルベルグへの疑念をぶちまけた。案外酒に強いので出遅れたジャンヌはこれを聞いて思わず青ざめた。
ハイゼルベルグは席を立つと、グラスにブランデーをなみなみと注ぎ、同じく立ち上がったギョームと向き合うと一気にブランデーを飲み干してギョームを睨みつけ、教会語で何か言った。
「教会語は死人と神父様の為の言葉だ」
教会語は古代の大陸で話されていた言葉であり、今や教会で用いられるだけの特殊な言語である。ギョームは教会語を知的階級の玩具とみなして軽く見ていた。
「大尉はんの家と親戚ぐるみで付き合うてはったレオ一世の言葉でっせ。『士官は訛りがあってもサーベルさえ使えればいい』って」
出自をとやかく言わない帝国軍の美徳を象徴する有名な言葉である。こうなるとギョームは言い返せない。
「喋るのと教えるのはちゃいます。うちはアルミニア語もアペニン語もアルビオン語も出来まっせ」
「小ギョーム、パスカルの男ならその辺にしておけ!」
結局のところ、こういう事態を収束させるのはブレスト司令の鶴の一声である。その夜も飛龍隊は騒がしかった。
翌日からハイゼルベルグの仕事が始まった。彼女の秘書としての能力は申し分なく、書類仕事に疲れていたブレスト司令を大いに喜ばせた。
村の学校が終わって生徒が教会に集まったのを見計らって今度は授業になる。生徒は歳も学力もまちまちなので、これは大変な仕事である。
これにハイゼルベルグはコクトー神父と二手に分かれ、更に生徒の学力に応じて時間を分けることで対処した。
上の学校まで行くつもりのない子供の補習に長い時間は必要ではなく、それは却って負担になるというのがハイゼルベルグの考えである。
「フーク。あの先生の出来はどうなんだ?」
まだ不安を払拭出来ずにいたギョームは、授業を受けたテオドラにハイゼルベルグの教師としての出来を訊ねた。
「ロッテ先生の方が博士よりいいです。博士の言う事は難しくて…」
テオドラの言う通り、ハイゼルベルグは数日中に子供たちからロッテ先生と呼ばれるようになり、確かな評判を獲得した。ベップは類稀な学者であったが、それ故に小学校の代用教員には不向きだった。
それを裏付ける事件が数日後に起きた。その日の昼休み、初雪亭のテーブルでベップはミシェルにチェスを教えていた。ベップは帝国一の名手を自称し、少なくとも飛龍隊にはどんなにハンデを貰っても勝てた人間はいなかった。
「ミシェル君、チェスというのは最高の彫刻に似て、あらゆる無駄をそぎ落とした末に完成する芸術なのです。芸術を解さなければ、それは果たして人間と言えるでしょうか?」
ミシェルが悩んだ末に駒を動かすと、ベップはチェスがいかに知的階級にとって大事な物か説きながら、ミシェルがそう指すと知っていたとしか思えないスピードで厳しい手を返す。
どうにか駒を間違いなく動かせるようになったばかりのミシェルにはあまりに手厳しいレッスンと言えた。テーブルにはミシェルがなす術なく敗れたことを示す棋譜が何枚も積み重なっていた。
ギョームはこの手の勝負事は厳しく仕込んで欲しいと特に頼んでおいたのだが、これを見て驚いたのがロッテ先生だった。
「あら、チェスを指してますの?」
ロッテ先生は6連敗を喫して涙目のミシェルを見つけ、棋譜を手に取った。
「博士はん、ちょっと話がおます。モランはん、ミシェルに紅茶を出してあげとくんなはれ」
ロッテ先生はそう言い残し、ベップを連れて棋譜を手に初雪亭を出て行った。
「あんさん、何を考えてますのや!」
人影のない司令部の裏手まで来ると、ロッテ先生は怒りも露わにベップに詰め寄った。
「御覧になった通り、チェスの指導です」
「指導?子供相手にこんなえげつない、嬲るみたいな手を差して」
ロッテ先生は棋譜を手に声を荒げる。棋譜に記されたのは所謂嵌め手という代物で、事前に対処法を知らないと訳も分からずに負けるという奇襲戦術である。
「これを自力で打ち破る事がチェスプレイヤーとしての第一歩です。特に5局目は『クルチウス・トラップ』と称して各種の棋書にも記載される、私の考案した…」
ベップもかつてはこうして手厳しい指導を受けて名の知れたチェスプレイヤーになった。なのでミシェルに同じように指導したのだが、それを何故ロッテ先生が怒るのか理解できず、おろおろするばかりである。
「これがチェスやからええもんを、これが拳闘の稽古やったらあの子今頃死んでまっせ」
「チェスは血を流さない戦争と申します。だからこそ…」
「あの子、次からチェスや言うたら嫌がって逃げますわ。刃物の傷は放っておけば治っても、心は違いますのや。男と生まれて子供の心を傷つけておいて、あんたはそんなことしか言えまへんのか?」
ベップは今や生まれて初めて言い負かされようとしていた。それ程ロッテ先生はベップのミシェルへの仕打ちに怒っていた。
「あんた、自分はこの世で一番利口や思うてはるのやろけど、うちに言わせれば弱い者の心の分からんアホですわ」
ロッテ先生はそれだけ言ってミシェルの元へ戻っていった。ベップのチェスの指導はこの日限りで取りやめとなった。
ベップの心には大きなわだかまりが残った。言い負かされるという初めての経験はベップの頭脳の処理能力を超えていた。
「エスクレド君、大尉が漁師は殴り合って酒を酌み交わせば分かり合えると言っていましたが、本当ですか?」
翌日、モーリスと一緒に郵便飛行に向かったベップは、待ち時間にモーリスに真顔で馬鹿馬鹿しい質問をした。
「ああ、おやっさんが言ってた。確かに、漁師の揉め事は大抵それで済みますね」
モーリスに質問をするとすれば鯨の生態やエウスカル語の事くらいのベップが、今日に限って変な質問をしたのでモーリスはつい笑ってしまった。
「しかし、相手が女性の場合は?女性への暴力は倫理的に問題が…」
「女?そりゃあ駄目ですよ。女は一度怒らせたら嵐みたいに過ぎるのを待つだけ」
「それでも、君の御父上も御母上を怒らせることがあるはずでしょう?」
「そう、お袋は闘牛が好きだから、夏場に陸に居たら親父は連れて行って機嫌取ってましたね」
「闘牛?これは弱った。帝都では稀な興行ですな」
「博士、どうかしちゃったんですか?」
そこへずしりと重たい郵便袋がやって来て、ベップは思いつめた表情で返事をせずに飛んで行ってしまった。
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