第9話

 恵美はびっくりして振向いた。


 立っていたのはまさやだった。まだ鐘の音の余韻が耳に残っているけれど、まさやの言葉はそれを消し去ってしまうほどのものだった。


「まさや君、今、何て……」

「え?」

「お願い、もう一度言ってほしいの」


 潤んだ目から涙がとめどなく流れてくる。

 優しく微笑んだまさやは、恵美の涙を指で拭うと、自分の目と恵美の目が向かい合う位置まで腰を屈めて、瞳を覗き込むようにして言った。


聖夜ぼくは奇跡を起こすんだよ。恵美さとみさん」


 体中の力が抜け落ちていくような気がした。背負っていたものがとれたような、もう頑張らなくてもいいんだ、というようなそんな安心感。


「――ずっと誰かに見つけて欲しかったの」


 恵美は恥ずかしそうに鼻を啜って、まさやを見つめた。


「本当の私を……。見つけてくれて、ありがとう……」


 どういたしまして、そう言ってまさやは笑った。





   ☆   ☆   ☆






「ひどいなぁ、泥棒だなんて」


 まさやは拗ねたように唇を尖らせた。


「ごめんなさい。でもなんか怪しく思えちゃって。だけど、どうして私の正体を知ってたの? あの手紙だって、なんであなたが持ってたの? 机を開けたの?」

「それは……」


 まさやはもったいぶるようにして服の間に手を潜り込ませて、何かを取り出す。


「……警察手帳? 嘘でしょ、あなた刑事?」

「はい。新米です」

「まさか、だって……まさや君って年いくつ?」

「若くみられがちなんですけど、これでも25歳です」


 それは見えない。恵美は唸った。

 まさやは笑っていた。

 しばらく無言で考え込んでいた恵美は、神妙な表情で口を開いた。


「じゃあ、私逮捕されちゃうんだ? 不法侵入罪だし」

「不法侵入? いえ、ちゃんと恵美えみさんから許可をもらってますよ。ひょっとしたら今日恵美さとみさんが家に来るかもしれないから、相手してやってくださいって」

「……え?」


 恵美さとみは目を丸くして尋ねた。


恵美えみは知ってたの?」

「はい。そもそも脅迫状をもらったと騒ぎたてているのはお母様であって、恵美えみさんとお父様は気にしてません。もちろん明日香あすかさんもあんな賑やかな感じの子ですから、たいして怖がってもいないですし」


 毎日深夜まで遊び惚けている明日香の姿を思い起こし、それはそうだろうと恵美さとみは納得した。


「いちおう僕が事件の捜査に当たってたんですが、その時、恵美えみさんから全てを聞きました。父親の不倫相手にも子供がいて、犯人は彼女だろうって。お父様の方もそれが分かってらしたから、あえて大事おおごとにしなかったんです」

「……そう」

「ただ、あなたが僕のこと警戒してたので、警察に通報されないか冷や冷やでした。実は大学生の頃、恵美えみさんの家庭教師をやっていたので、その縁で今回の事件にもプライベートで付き合ってたんです。単独行動で下手したら懲戒免職です」


 気弱そうに微笑むまさやを見て、恵美さとみもつられて笑みを見せた。


――恵美さとみ、お父さんはね、貿易関係の仕事をしていていつも海外を飛び回ってるの

――今度いつ帰ってくる?

――そうね。まだ当分は忙しいみたいね


 子供を落胆させない為の小さな嘘。


 否、子供のためとは建て前で、本当は母親の精一杯の見栄だったのかもしれない。

 自分達親子が父親にとって一番の存在、ゆえに向こうが偽物である。母親はきっと毎日自分にそう言い聞かせていたに違いない。


 恵美さとみはそんな母親を守るために、何も知らない子を演じ続けていたのだ。


 本当はクリスマスが大嫌いだった、父親が帰ってこないと分かっていたから。自分たち家族が捨てられたと気づいていたのに、母親のために分からないふりをし続けた。


 そうして次第に心が蝕まれていったのだ。

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