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 「ねえ、今日はどうだった?」


この質問をされる度に彼は少しずつ自分の口が達者になっていくことを感じていた。


「良い曲だったね。また雰囲気の違う歌い方で。杏奈は大人っぽく歌えるんだと感心したよ」


彼女は彼の感想などまるで入らず上の空で、BGMにすらならないと言わんばかりだった。カウンター奥の酒瓶に向けた顔は全く動かない。


「どうしたんだい杏奈?ぼうっとして。いつもなら、とりあえず言葉で殴りかかってくるか本当に殴りかかってくるかなのに。今日は黙ってしまって。昨日変なものでも食べたのかい?」


マスターがうっすらとピンクを表面にした赤いカクテルを彼女の前に置いた。


彼女は指でゆっくりとテーブルをなぞり、グラスに触れるとその感触を確かめ、持ち上げる。


一口だけ飲んでからコースターの位置を確かめて、音を立てないように静かにグラスを置いた。

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