第9話

 社会的なイデオロギーの転換はどうすれば起こるのか。

 宗教改革においては、ローマ・カトリック教会の腐敗がその要因となった。教会の位階制度やこれに付随する特権、聖職の売買、果ては資金調達のための贖宥状の販売など、聖書の教えとはかけ離れた教会のあり方に対して、ドイツの神学者ルターが「95箇条の意見書」によって異を唱えたことがその始まりとされる。


「人は神への信仰によってのみ救われる」


 ルターの唱えた福音主義は当時の民衆の偽らざる思いであっただろう。ローマ教会に対する抗議という意味からプロテスタントという言葉が生まれた。聖書の教えを忠実に守ろうとする彼らの姿勢は、謹厳実直な生活に反映され、努力した者が報われる社会へと発展した。これは、カトリックや東方正教会への信仰を保持した国々に比べて、プロテスタンティズムを標榜する北ヨーロッパや北アメリカが経済的な成功を収め、裕福になっていることと無縁ではない。

 しかしその一方で、ローマ教会の矛盾を糾弾し、信仰の原初に立ち返ろうとした彼らの合理性が資本主義の台頭を許したこともまた一面の真理である。ルターを生んだドイツは後にカントやマルクスといった偉大な思想家を世に送り出すが、合理性や論理的思考に重きを置くこの国の土台の上にナチという悲劇が生まれたことも忘れてはならない。現代アメリカにおいても、声高に白人至上主義を唱える人間が現れ始めている。彼らの思想はユダヤ人の迫害を是としたナチズムに通ずる。福音派のキリスト教徒にこれを支持する人が多いが、福音派のそもそもの始まりを辿ればルターの唱えた福音主義に行き着く。改革の名の下に不正をただしたはずの理念がいつの間にかまた歪められてしまうのは、歴史の皮肉と言うほかない。

 翻って日本はと言うと、資本主義のもたらす豊かさにおぼれ、何か大切なものを忘れてしまっているのではないだろうか。


 わび、さび、和の心、弱き者に対する惻隠の情、礼節、奥ゆかしさ・・・。


 耳に心地よい言葉は、徒にナショナリズムを煽るばかりだ。資本主義の先鋭とも言うべきグローバリズムや新自由主義が蔓延し、経済の二極化が進む社会は「持てる者」と「持たざる者」を峻別する。人心は荒み、社会全体に不穏な空気が漂う。人々の心の拠り所であるはずの宗教さえもが形骸化し、神社仏閣教会は単なる利権団体になり果てている。


 何かがおかしい。


 誰もがそう感じている。しかし、何をすればよいのか分からない。現在のこの状況は中世のヨーロッパを彷彿させる。ルターが宗教改革を行った時のように、変革の気運は高まっている。

 そこで変革の端緒となり得るのがエネルギー問題への取り組みである。我々は限りある資源を有効に使い、持続可能な社会を実現せねばならない。そのために多少の不便を被ったとて、何ほどの痛痒があろうか。経済発展のスピードが鈍化しようと、停電が起ころうと、車の航続距離が短くなろうと、流行の服が着られなくなろうと、人類が滅びるよりはましであろう。何度も繰り返すが、生活の利便性が人を幸福にするのではない。我々が真の幸福を求めるならば、まず自分自身の心の持ちようを変えることだ。

 百年前の生活に戻れと言っているのではない。経済発展、資本の増幅を至上命題とする資本主義から脱却する必要があると言っているのだ。我々の心理や物の考え方は我々が自覚する以上に資本主義思想に冒されている。資本主義の追求こそが我々を幸福にすると思い込まされているのだ。しかし、それは一部の人間を経済的に潤すだけで、金持ちになったからとて幸せになれるとも限らないのである。「物質的豊かさ=幸福」という幻想を打破し、我々皆が本当に幸せになるにはどうすればよいのか。この問いの答えを見つけられるかどうかに人類の未来はかかっている。

 エネルギー問題を始め、進むべき方向は既に示されている。持続可能な社会の萌芽を今我々は目にしている。それを一過性の動きで終わらせないためには、イデオロギーの転換が求められる。地球環境や食糧問題、農業や水産業といった第一次産業の見直しなど、今までなおざりにされてきた問題に正対することが真の幸福へ続く道なのだと、多くの人が気付き始めている。その火を絶やさぬよう大事に育ててゆくことが現代文明を次の段階へ推し進め、Anthropocene(人新世)の存続を可能にする。



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