あとがき
本論を書く傍ら、ユヴァル・ノア・ハラリのベストセラー「サピエンス」と「ホモ・デウス」を読み進めた。両書に関して本論中でも何度か言及したが、最後に氏の論考に対する私なりの解釈を述べておきたい。
まず、今日の地球において人類が支配的な種となったのはなぜか。
ほんの数万年前まで、人類にはホモ・サピエンスの他に何種類かの亜種が存在した。中でもネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスよりも脳の容積が大きく強靱な肉体を持っていた。にもかかわらず、異種族間の衝突の中でネアンデルタール人はホモ・サピエンスによって駆逐される。交配の痕跡は認められるものの、現生人類が他種族を凌駕し得たのは、コミュニケーション能力を発達させたからだという。しかし、ある程度の知力を有する動物ならば、皆高度なコミュニケーション能力を備えている。人類の亜種ともなれば相当の言語も操ったであろう。コミュニケーション能力において、現生人類と他の種族との間にはどの様な違いがあったのか。
しばしば、チンパンジーが人類の近縁種として取り上げられるが、彼らは人類と同様、仲間と親密な関係を築き高度な社会集団を形成する。それぞれの個体が親密な関係を築くことが出来る相手の数は百体程度とされるが、これは人類とて同じである。どれほどコミュニケーション力の高い人でも、親しくなれる相手の数はチンパンジーとさして変わるまい。この能力だけが人類を他の種族に勝らしめたとは考えにくい。しかし、ここにプラスアルファの要素を加えると、人類の優位性が見えてくる。ハラリはその要素をintersubjectiveという言葉で説明する。
Subjectiveとは主観、objectiveとは客観のことである。ならばIntersubjectiveは、主観と主観をつなぐとでもいう意味であろうか。日本語では「間主観」と訳される。主観が個人的な体験やものの見方であるなら、間主観は集団的な体験やものの見方であると言える。ただし、これは客観とは違う。客観とは誰が見てもそうであることであり、ある視点を定めなければ成立し得ない。たとえば、現在において地球が丸いというのは客観的な事実だが、世界が平らだと信じられていた中世ヨーロッパにおいては、この事実に客観性は認められない。この事実が認められるには、近代以降の科学的な視点が必要となる。つまり、事実と客観は異なり、絶対的な客観を持ちうるのは神だけである。
ハラリ述べるところの「間主観」とは、複数の人間が同じ一つのことを信じてしまうことである。そして、ある一つのこととは客観的な事実ではなく、実際には存在しないが多くの人が存在すると信じている幻想のことである。たとえば、お金や国家、神である。これら概念でしかないものを人は極めて現実的なものとして認識しており、この認識を共有することは知らない人同士を繋ぐ大きな力となる。集団を構成する力が個人間の親密な関係だけだったなら、人類が他の種族を凌駕することはなかったであろう。しかし、「間主観性」を手に入れたことにより、人類は知らない人同士が繋がり合う巨大な集団を築くことが可能になった。この力を持ち得なかった他種族が人類に駆逐されたのは当然の帰結であったと言える。
狩猟採集時代、間主観性は精霊信仰(アニミズム)を生み、農耕の始まりと共にそれは神への信仰へと昇華した。農耕がもたらした定住生活は国という概念を生み、国を統べるために階級制度が生まれた。階級の頂点に立つのは人ではなく神であった。文明の発展に伴う科学の目覚めは、しかし、宗教との間に思想上の対立を生じ、長きにわたりその進歩は抑えこまれてきた。しかし、コペルニクスの「地動説」、ダーウィンの「進化論」を契機として、ついに宗教は科学の前に膝を折った。科学万能の二十世紀、神への信仰は廃れ、人間は今や地上の神たらんとしている。
「認知革命」
「農業革命」
「産業革命」
人類史上の転機となった三つの革命を経て、人類は「情報革命」という新たな局面を迎えている。二十世紀末から二十一世紀にかけてコンピューターの演算速度が飛躍的に向上し、人間を含むあらゆる生命の遺伝情報が解き明かされつつある。遺伝子工学によりヒトが永遠の命を手にする日も遠い未来の話ではないという。いまやヒトが神となることが現実味を帯びた話として語られる時代が来た。そして、神を失ったヒトは、神となることに自らの存在意義を見いだそうとしている。神による制約を受けなくなったヒトは、他者の意思ではなく、自らの意思によって行動し、自らの望む世界を構築できる存在となった。
これをHumanism(人間主義)と呼ぶ。
しかし、Humanismは必ずしも平等や博愛を顧みない。テクノロジーと融合したHumanismは人類の一部をさらに高次の知的生命体へと進化させ、進化の方舟に乗り遅れた人類は被支配民となることを余儀なくされる。全人類が進歩の恩恵を受けられるわけでないことは、歴史を振り返ってみても、現代の世相を見ても明らかである。やがてAIの認知能力が人類のそれを上回り、生みの親であるはずの人類はテクノロジーによって駆逐されるだろう、というのがハラリの予測するAnthropocene(人新世)の結末である。
しかし、生命進化の過程で生まれたある事象に、ハラリは含みを残している。
「意識」と「主観」である。
人間を含む高次の生命体は「意識」を持つ。進化の過程で「意識」が生まれたことに必然性があるなら、AIもいずれこれを持つ可能性はある。しかし、生命の目的がDNAを受け継いでゆくことであるなら、個々の生命は外界の事象に対する反射のみで生命活動を維持できる。「意識」などという代物は必要ないばかりでなく、時として生命維持の妨げにさえなる。「意識」は進化の過程で偶発的に生じた副産物であり、実際には何の役にも立たないものなのかも知れない。その可能性を含め、「意識」が生まれたことは未だ解き明かされぬ謎であり、これがAIと人間および他の生命を隔てる大きな壁となっていることは確かだ。
ハラリの論理展開は実に緻密で説得力がある。その論を追ってゆくと、あたかも論理的思考を重ねれば森羅万象を解き明かすことが出来るかのような錯覚に陥る。しかし、どんな思考にも一定の方向性があり、論理とはその方向に向かって積み重ねられるものだ。つまり、思考には必ず偏向が伴うということだ。それ故に、彼の示す未来は一つの可能性に過ぎない。ある人の主張に耳を傾けるとき、それがどんなに正しく聞こえようと、その点を忘れてはならない。思考を深めることで真理に至ることが出来るのなら、世界は悟りを開いた人間で溢れているだろう。敷衍するなら、AIの認知能力が人間を上回れば、AIは宇宙万物の真理を解き明かすことが出来るということになる。だが、おそらく、真理に至る道は思考によって開かれるものではないだろう。釈迦が悟りを開いたのも、キリストが神の声を聞いたのも、思考を深めた結果ではない。人間が神になれない理由はそこにある。認知能力を高めれば神になれるというのは人間の驕りだ。旧約聖書のバベルの塔の物語は、驕り高ぶる人間に対する戒めであった。古の叡智はとっくの昔に人間の本質を見抜いていた。にもかかわらず、人間は相変わらず同じ過ちを繰り返している。文明の進歩や発展が人間を高次の存在に押し上げたのではない証左であろう。真理に至る道はどこか別の場所にあり、我々人間に出来るのはただそれを信じることだけだ。
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