第6話

 原発推進派は経済活動の維持をその主張の拠り所とする。経済を最優先事項に据える彼らの目には事故の惨禍も核廃棄物の問題も目に映らないようだ。いや、不都合な事実からは敢えて目を背け、世間にも同じことを期待しているように見える。原発が安全でクリーンだというPRを展開する電力会社は明らかに世論の誘導を図っている。公益企業であるが故に独占を認められている彼らが広告宣伝費に巨額の予算を割き、メディアの大口スポンサーとなっているのはそのためだ。福島の原発事故以前から原発の危険性を指摘する声はあった。アメリカのスリーマイル島やソ連(ウクライナ)のチェルノブイリなど、海外では実際に事故も起こっていた。日本のメディアはどれほど真摯にそうした声や事故の悲惨さを国民に伝えてきただろうか。彼らが偽の情報や嘘を報道することはないとしても、積極的な報道を行わないことで情報統制することは可能だ。結局、情報の真偽や重要度は受け手である我々一人一人が判断すべきことである。しかし、原発の安全性を喧伝する一方で反対の声を抑制するのは、報道のあり方として片手落ちであろう。

 それにしても、政府や電力会社がしきりに原発の再開を求めるのはなぜだろうか。原発の不経済は既に多くの人の認めるところである。彼らに一片の理性があるならば、自らの主張の非合理に気付いているはずである。敢えてそこから目を逸らすのは、これまで原発に巨額の資本が投下され、電力供給源としてのインフラが整ってしまっているからだろう。費用対効果の点から見ると、原発事業はこれからが稼ぎ時なのである。そして、長く続ければ続けるほど利ざやが増すというわけだ。これまでの負けを取り戻すためにリスクに目を瞑って投資を続ける。国家の大事業がギャンブルさながらの発想で運営されているのだ。彼らはもう後戻りできないのである。しかし、ギャンブラーがそうであるようにそれは彼らがそう思い込んでいるだけで、発想を転換できさえすればこのジレンマから抜け出すことは可能だ。

 必要は発明の母という言葉がある。必要が先か発明が先かという議論はさておき、技術革新が人類の必要を満たしてきたことは確かである。環境問題が深刻化し、人類は今歴史の岐路に立っている。地質時代区分上、Anthropocene(人新世)と呼ばれる新しい時代区分に入った地球で、その時代を生んだ張本人である人類自身が生き残れるかどうかの岐路である。そのために必要な技術革新を起こすことは可能であろう。しかし、それに加えてイデオロギーの変革を実現できるかどうかが問題である。その要となるのがエネルギーに対する考え方である。例えば、電力会社が広告宣伝費につぎ込んでいる費用を太陽光発電の普及に充てるといった発想の転換である。

 数年前の話になるが、メガソーラー事業によって発電された電力の買い取りを電力会社が拒否するという事件が起こった。理由は電力の過剰供給である。これは九州での出来事だが、ある時間ある地域においては太陽光発電だけで十分に必要な電力を賄えるのである。送電網を広げて他の地域に余った電力を回せば、過剰供給の問題は解決される。さらに蓄電設備の整備を進めれば、余剰電力を蓄えて夜間や悪天候時などの太陽光を利用できない時間帯に電力を供給することも可能だ。そうした分野への投資を促進し経済を回していけば、原発に頼る必要はなくなる。必要な技術革新は起こっている。後はそれをどう利用するかの問題だ。少し目線を変えるだけで、原発依存からの脱却は現実性をもって眺めることが出来る。原発を撤廃したからといって、経済活動が停滞することなどない。たとえ発電方法が変わっても電気の需要が落ちるわけではない。巨大な送電網を支配する電力会社が損害を被ることもあり得ない。

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