第5話 三者三様 二律背反
敵は逃げていきました。
あの攻撃は非常に有効だったことは確かです。
私自身も感じていたように、あの場ではとどめの一撃が必要だったのです。
あの場で最も効果的で、あの場で最も適した行為、それがあの――キ、キキキスだっただけです。
それ以上でも、それ以下でもありません。
問題は、たったそれだけの行為だったはずなのに、私が気持ちを乱してしまったことです。
殿下はあの後もいつもと変わらないように見えました。
――情けないわ。
今後もこの程度の事はきっとあるに違いありません。このぐらい冷静に対処できると見込まれたからこそ、このお役目は私に与えられたのです。
私は、魔術を実践する時の呼吸法を繰り返しました。
冷静に。冷静に。
これはお役目なのです。
国のために私は、「殿下を恋い慕う婚約者」の役割を立派に果たさなければなりません。
何度か、それを繰り返した後、私はやっと、自分を落ち着かせることができました。
◇◇◇◇◇◇
本日は王宮で、王族としての礼法の授業がありました。
婚約期間は二年間ありますし、公の場に出る機会もありますので、仮の婚約者とはいえさすがにこの授業は必要でしょう。王室府から派遣された専門の講師がつき、指導してくださいます。一日の予定でしたが大分早く終わり、私は先生にお褒めの言葉を頂きました。
時間も余りましたので、先日の殿下のエスコートについて先生にお尋ねすることにしました。実はお借りした本にも載っていなくて、分からなかったのです。
「まあ、それは、……お答えするのは難しいですわね」
「どうしてでしょうか?」
微妙な表情をされる講師の先生は妙齢の女性です。
「それは正確には礼法ではないからです」
「それでは、私はどう対応すべきだったのでしょうか?」
「そうですね……」
その時、ノックの音が響き、殿下がいらっしゃいました。
今日はお約束はしていなかったはずです。
ああ、サプライズですね。恋人同士には必要な儀式です。
私は先生に礼を取ると、殿下の元へはしたなくない程度に駆け寄ります。
「殿下、どうかなさいましたか?」
「今日は早く授業が終わりそうだと聞いたので来てしまったんだ。……君に会いたくて」
「まあ、嬉しいですわ」
「少し庭を歩かないか? 母の管理する庭園の花が今見ごろなんだ」
「はい、喜んで」
殿下は再び、私の手を掬うように持ち上げ指を絡ませます。
困りました。このエスコートへの対応方法を先生に教わる途中でした。私が助けを求めるように先生の方を見ますと、先生はそっと近づいてきて「それは庶民の恋人同士の間で流行っているつなぎ方なのですよ。握り返せばよろしいのです」とこっそり耳打ちしてくださいました。
なるほど、見る人が見ればわかるということです。これも演出だったのですね。
私は、殿下の方を見上げて、そっと手を握り返すと、殿下も優しい笑顔で私も見つめ返して下さいます。
博学な殿下に頭が下がるばかりです。学院での偏った知識に満足していた自分が恥ずかしくて、頬が熱いです……。
私達は、二人の世界を演出しながら、わざと人通りの多い道を通って庭園へと向かいました。
そこは、隣国から嫁がれた王妃様が故郷の花々を移植したという珍しい花々が咲き誇る美しい庭園です。
普段は王族の方しか入ることができない場所。周りには私達以外誰もいません。
これは、良いタイミングなのではないでしょうか?
先日、レイアとクアッド様には私の決意を話せました。
殿下にも早く私の覚悟をお話をしておいた方がきっとよいでしょう。優しい殿下は、婚約破棄することに心を痛められているかもしれませんので、お心を軽くして差し上げることができます。
でも、まだ家長である父にも話をできていないことが気になります。
私が迷っていると、殿下が、ぐっと私の手を握りしめられました。私は殿下の方を見上げます。
「この間はすまなかった」
「え?」
「その、いきなりキスしてしまって――君が、かなり驚いていたみたいだったから」
いきなり触れられた先日の話題に、私は体温が上がるのがわかりました。
呼吸法、呼吸法です!
必死に気持ちを落ち着けて殿下の方を見ると、殿下の耳や頬が赤くなっているのがわかります。
先日は冷静なように見えましたが、殿下もやはり思い出すと少し恥ずかしかったのでしょうか。ごく普通の青年のような反応に微笑ましく思い、少し余裕が出てきました。
「いいえ。私こそ先日は動揺してしまい申し訳ありませんでした。私、覚悟を決めましたの。次は、もう少しうまく対応できると思いますわ。私は殿下に従います。全て殿下の御心のままに」
「サリア嬢、それは――本当に?」
こちらをばっと向き直る殿下のその表情は、なんだか小犬の様で、思わず笑みがこぼれます。
「ええ、二言はございませんわ。私は、私の務めをきちんと全う致します」
「うん、嬉しい。心強いよ」
殿下は、そのまま私に近づき、肩を手を添えると、私の唇にキスを落としました。
え?
「あ、あの! 今は必要ないのでは!?」
「必要だよ。僕たちは、婚約者同士。仲睦まじく見えないといけないんだよ。それなのに君は今も驚いただろう。キスぐらい、流れるように受け入れられるようでなければ」
「そう?……そう?? ですわね」
戸惑う君を楽しみたい気持ちもあるんだけど、と小さな声もしましたが、私の頭の中はまたパニックに陥りかけていて、よく声を拾えませんでした。
殿下の腕が、私の腰に回ります。再び近づいてくる殿下の瞳は、いつかのように熱を持って潤んでいます。
冷静に。
心を落ち着けて。
落ち着くための呼吸法を繰り返し、冷静に対処しようと試みます。
けれど、何度か繰り返されるその行為の果てに私が悟ったのは、努力は時として報われないこともある、ということだけでした。
◇◇◇◇◇◇
ふわふわと落ち着かないまま殿下に連れられて庭園を後にし、王宮の通路を馬車留めに向かって歩きます。この時間は、王宮での業務を終えられて帰る方が多くいる時間帯です。
ふと、意識の端にちりちりとした感覚が走り、私は顔をあげました。
殿下は急に顔をあげた私に訝し気な視線を向け、そして、私の視線の先の人物を視界に入れられました。
まだ遠い位置にいる、通路の先の人物もこちらに気づいたのか、自然、殿下とも視線が合ったようです。
向かいから歩いてくるのは見知った顔の人物――師匠であるクアッド様です。
彼は私たちの前まで来ると立ち止まり礼をとりました。
「ご婚約おめでとうございます。殿下、リルセット嬢」
「ベネディッティ小侯爵か。ありがとう。君も先日結婚したばかりだったね。おめでとう」
「恐縮です」
「こんにちはベネディッティ小侯爵様」
「こんにちは。リルセット嬢。先日はレイアとの茶会を邪魔してしまって申し訳ありませんでした」
まあ、厚顔無恥とはまさしくこの方のことですわ。
全く悪かったなどと思ってなかったくせに。
それどころか、あなたは嬉々として私を追い出しましたわよね。
私は、思わずその後二人がどうなったのかを想像してしまい、慌ててその考えを打ち消しました。
思わず頬が赤くなってしまったのは結婚前の女性としては仕方がないと思いますの。
「ええ、レイア様から、あの時のお詫びをさせていただきたいとお手紙を頂きましたのよ。またお伺いするとお伝えくださいませ」
「はい、そのように。――それでは、殿下、失礼いたします」
「ああ、ではまた」
殿下は私の手を握る手に力を入れると、そのまま腰を折るクアッド様の横を通り過ぎました。
殿下は、馬車留めの側の人があまり来ない待合場所へと私を連れていかれます。
いつもの殿下と違う様子に、私は疑問を覚え、殿下の顔を見上げました。
「クアッドと話すときは、いつもと違うんだね。――君が、彼を特別に思っているという噂は本当なのかな」
なんてことでしょう。
殿下も私とクアッド様の噂をご存じだったとは。
私と彼に関わる噂に下世話なものがあることは存じています。
殿下はどの噂をおっしゃっているのでしょう?
私達の間には噂のような関係は全くないのです。
彼は、師匠という立場。特別と言えば、特別な存在ではあるのですが。
私は、殿下に事情を説明しようとしました。
「……っ!」
けれど、私が口を開こうとした途端、魔術誓約が私の体を縛りました。体が熱く熱を持ち、脳の中心をまるでしびれさせるような感覚が駆け巡り、一瞬思考が奪われます。
殿下は口を開きかけて固まる私を見て、悲しそうに目を伏せられました。
「それは、あんなに遠くにいたのにすぐ気づくほど?」
「――レイアは、私の親友なのです」
唯一、私に言うことができたのは、それだけでした。
「君のことは知っているつもりだ。君が約束を違うことがないことも。でも、せめて僕が横にいる間は彼のことは見ないでほしい」
殿下は、すまない、と小さくつぶやくと、そのまま引き返していかれました。
私は、そのままそこに立ち尽くすしかありませんでした。
「おい、お前、何してる?」
その声にふと我に返り顔をあげると、そこには、顔をしかめたジェレミア=ヴィルガ様の姿がありました。
私は視線をそらします。今日は彼と戦う気分ではないのです。
「お前、これが格差婚約だと分かっているんだろうな」
「そんなことっ!」
この方は、いつもこうです。
なんでこの方にいきなりこんなことを言われなければならないのでしょうか?
そんなこと、一番私が分かっています。
だから、破棄後の事まで色々考えているのです。
私は冷静にこのお役目を果たそうとしているのです。
殿下と私は想い合う恋人同士でなければならないのです。
それなのに、殿下は私の事を誤解していて……。
いつもの私とは程遠いおよそ冷静でない思考が私の脳内をかけめぐり、そんな自分に愕然としたとき、私の目の前にハンカチが押し付けられました。
押し付けられたハンカチに、私は初めて、自分が泣いていたことに気づいたのでした。
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