見える橋を目指して

しまおか

第一章

「お願いします。別の施設へ移らせてください」

 照島てるしま秀人しゅうとが座り直して土下座すると、同じく転所願いを出していた茂田しげた昭雄あきおも姿勢を正し、手をついて深々ふかぶかと頭を下げた。

「相沢さんよ。この通りだ。こいつも俺も今度こそはちゃんとやり直し、社会復帰したいと本気で考えている。それは分かるよな。手間をかけるが、許可してくれないか」

 紅葉の季節が近づき朝晩の寒さが日毎に厳しくなる中、暖房の入った食堂で夕飯を食べ終わった二人は、その後の自由時間を使って施設責任者の相沢あいざわに懇願した。

 大きく息を吐いた彼は、二人に顔を上げるよう促した。

「分かりました。理由もしっかりしていますから、問題ないとは思います。ただ受け入れ先との調整がありますので、少し時間をください。特に茂田さんは二回目です。以前いた大阪はもちろん除外しますが、神戸や広島もかつてのお仲間がいた地域と近いので、避けた方が良いでしょう。そうなると次の行き先は限定されてしまいますから」

「それは承知している。奴らと距離を置ければ、どこでも構わない。こいつだって行き先を希望している訳じゃないんだ。とにかくここから離れさえできれば、文句はない」

 茂田の言葉に秀人も同意し、頷いた。しかし彼はさらに続けた。

「ただしこいつの転所は、急いで貰えませんか。二回目で七十三にもなる老い先短い俺の方は、少しばかり遅れたっていい。だが秀人はまだ十七だ。明るい未来が待っている。一から出直す為には、少しでも早い方が良い」

「そうですね。では彼の手続きを優先して、話を進めてみます」

 二人揃って、再び相沢に頭を下げた。

「有難うございます。よろしくお願いします」

 ここは名古屋のNPO法人が運営している更生保護施設だ。秀人は悪友に誘われ、振り込み詐欺の受け子のバイトをして逮捕された。その結果少年院へ送られ、三か月前の猛暑日が続いていた暑い八月の始めに、この施設へとやって来た。

 しかしひと月と経たない内にかつての悪友が何度か訪れ、再び仲間に誘い入れようと声をかけてくるようになったのだ。元々受け子のバイトも、やりたくてやった訳ではない。あれは騙されたようなものだった。

 だが罪を犯し、被害者を出した事実は消せない。よって今更とやかく弁解するつもりもなかった。院を出たからといって、完全に罪を償えたとは思っていないし、これまで自堕落じだらくな暮らしをしていた罰が当たったと思っている。自業自得なのだ。

 それ故にこの機会を活かし生き方を改め、真っ当で自立した社会生活を送りたいと考えていた。しかしこのままでは、再び悪の道へ引きずり込まれかねない。そう危惧きぐしていた時、暇つぶしにと誘われた将棋相手の茂田に相談した所、アドバイスを貰ったのだ。

「そういう場合は、転所すればいいんだよ。俺も前は大阪の施設にいたが、足を洗ったにも拘らず昔の仲間が寄ってきた。だからこっちへ逃げて来たんだ。お前もこっちが地元なら、しがらみのない土地へ移ればいい。そうすれば、昔の関係を断ち切りやすいだろ」

 詳しく話を聞くと、彼は東海から西の地方を中心に、六十年以上空き巣を繰り返してきた知る人ぞ知る、伝説の盗人だと分かった。

 だが数年前に大阪で捕まり、刑務所内で体調を崩したという。それが大きな病気だった為、出所後は完全に足を洗うと決意し、一年程前に大阪の更生施設へ入ったそうだ。

 しかしその後昔の仲間が言い寄って来たので縁を切ろうと、今年の九月頃名古屋へ移ってきた。それでも諦めないかつての同僚が、再び彼の居場所を突き止めしつこく付きまとっているらしい。

「だからよ。俺もまた別の施設へ移ろうかと考えていたんだ。書類の書き方や施設長への依頼の仕方も教えてやるから、一緒に出してみるか」

 最初は躊躇した。長い間この名古屋に住んでいただけでなく、仲間から逃げることに漠然とした不安を感じていたからだ。そんな煮え切らない秀人だったが茂田の強い後押しもあり、最終的にはその提案に乗った。

 この時もっと早く判断し転所申請を出していれば、後の悲劇は起こらなかったかもしれない。また少しでも遅れていれば、状況は大きく変わっていただろう。

 二人が現在入所しているのは、法務省が管轄する施設だ。全国に約百か所ある民間のNPO団体が、国からの補助金等を受けながら運営している。

 秀人達のように罪を犯した人や非行歴がある未成年の中には、頼れる家族がいなかったり、生活環境に恵まれなかったり、あるいは本人に社会生活上の問題がある等の理由で、すぐに自立更生できない人が多い。

 そうした人達を一定期間保護し、独り立ちに必要な指導や援助等を行いながら、再出発を支える場所がここだ。宿泊場所や食事の提供、または入所者が自活できる準備に専念できる生活基盤を与え、再犯を防止する役割を担っていた。

 基本的に入所期間は半年。その間に入居者の八割以上は、仕事などを見つけるなどして出ていくという。ただし理由によっては一年、またはそれ以上の期間を延長申請できる。

 茂田は高齢と体調不良を考慮され、長期に渡り滞在していた。仕事はしているものの一度転所したこともあり、一か所で長期間働けなかった為に延長が認められたそうだ。

 秀人も施設の紹介を受け、今は自動車整備工場で働いている。少年院に六カ月間収容されている間、元々手先が器用だったことも手伝って、職業指導で自動車整備士の資格取得の勉強をしていたからだ。

 中卒の秀人が資格を取るには、一年以上の実務経験が必要である。その為給与は安いながらも、今は日々現場で働き実績を積んでいる最中だった。

 父親から虐待を受けて育った秀人は、中学卒業後に家を飛び出し悪友達の家を転々としながら、勝手気ままな生活をしていた。そんな時に詐欺罪で逮捕された為、二度と帰ってくるなと父に勘当を言い渡されたのである。

 といって秀人は幼い頃から、両親に育てられた覚えはない。長く母方の祖父母の家に預けられていたからだ。恐らくそこにいれば、父の機嫌を損ねずに済むと母が考え、そうしたのだと思われる。同じく暴力を受け逆らえなかった母は、秀人がこれ以上酷い目に遭わないようにと対処した結果らしい。

 祖父母からは、とても大事にされていた記憶がある。将棋も祖父に教わった。その為か茂田との対戦は、数少ない楽しかった少年時代を思い出させてくれた。そこで何度か手合わせしている内に親しくなったのだ。

 彼も温かい眼差しで、実の孫を見守るように可愛がってくれた。そうした優しい気持ちが感じられた為、祖父と同年代の彼に心を許し始め、短期間で絶大な信頼を寄せるようになったのだ。

 優しく接してくれた祖父母は、秀人が中学の時に二人とも自動車事故で亡くなった。二人で散歩している時に、歩道へ突っ込んできたトラックにはねられたのである。それからいろいろな意味で、秀人は帰る場所を失ったのだ。

 よって出所した今は早く自立し、まともな社会生活ができるようになることが、何よりも優先される課題だった。その阻害要因を排除する為、秀人は茂田の助言により新たな土地での再出発を決断したのである。

 幸い実務経験を積めば、整備工場の場合は働く場所が変わっても、資格の取得に支障はないらしい。それに相沢が代表を務める名古屋の施設では、全国に百以上ある前科者達を集めた更生施設の中、埼玉、大阪、神戸、広島、福岡のNPO法人と連携し、かつての犯罪者仲間と手を切る事を目的とした、相互受け入れをしているという。

 こうした試みはまだ開始されたばかりで、珍しいケースのようだ。しかし悪さをする仲間と距離を置く行為は、再犯防止策として有効かつ不可欠な要素だという。

 有名な例として、未成年時代に罪を犯した若者が、お笑い芸人になりたいと初めて持った夢を叶える為、自分は死んだとの噂を広めた上で故郷を去ったという話が挙げられる。

 そこまでしなければならいない程、暗い過去との関係を断つのは難しい。それでもその芸人がブレイクし有名になった途端、かつて未成年だった時に犯した罪が世間に暴かれバッシングを受け、一気に仕事を失ったのだ。

 幸い彼らはそれまでの行いからか味方する世論の後押しもあり、誹謗中傷の流れは一時的で済み、現在は活動を再開して活躍し続けている。

 完全に過去は消せない。それでも新たな環境で、一からやり直すチャンスを得られるだけでも意味がある。若者が芸人という希望を持ちその願いを実現できたのも、仲間と疎遠になれたからこそではないだろうか。

 そうした現状を踏まえ、相沢は同じ考えを持ち苦労している他の施設代表者に声を掛け、今は六か所で入居者の受け入れを始めたそうだ。さらにそうした輪を広めようと、日々他の施設への働きかけも行っていると聞く。といって、そう簡単なものではないらしい。

 何故なら、まず引受先の受け入れ体制が整うまでに時間がかかる。また入居者の人数に制限があり、転出先での仕事場も探さなければならないからだ。その上引っ越し費用は、施設側の事務局持ちだった。その為財政的な面の事情も含め、それ相当の理由がなければ、簡単に要望は通せないという。

 それでも茂田や相沢施設長の尽力により、十二月三日の大安の日に大阪の施設へ転出が決まった。加えてその翌日に、茂田は埼玉へ移ることとなったのだ。

 ちなみに彼の引っ越し費用は、自己負担だった。二度目という事情もあるが、本人からそう申し出たらしい。彼が施設にいるのは体調の問題が主な理由で、他の出所者とは違い経済的には困っていなかったからだと後に知った。

「もう少しで離れ離れだな。お前と将棋が指せなくなるのは寂しいが、向こうでも頑張れ。名古屋ほどではないが、大阪も車は多い。その分整備工場も沢山ある。だが競争は激しいぞ。大変だろうが、そこでしっかりとした技術を学んで一人前になれば、その先も長く働けるだろう。そう考えれば良い所だと思う。お前の人生は、まだまだこれからだ。諦めずに踏ん張って、しっかり更生しろよ」

 茂田の励ましに頭を下げた。

「短い間でしたが、お世話になりました。茂田さんも体に気を付けてください」

「おいおい、まだ別れの挨拶をするには早いぞ。お前が出て行く前日まで、将棋には付き合って貰うからな」

「もちろんです。俺なんかで良ければ、いくらでも相手になりますから」

 そう笑い合った二人だったけれど、秀人がいよいよ大阪の施設へと移る前日の夜、問題は起こった。かつての悪友だった古山田こやまだけんが、またしつこく訪ねて来たのである。

 これまでも三度施設へ顔を出しており、その度に相沢や施設の職員達が追っ払ってくれた。しかしその日は初めて仕事場の近くにやって来て、待ち伏せしていたのだ。しかも工場での仕事が最終日で、簡単な送別会を開いてくれた後の事だった。

 すでに陽が落ちる時間は早く、六時にはもう辺りが暗くなっていた頃だ。それでも年末に向け仕事が立て込んでいるはずの工場は、早めにシャッターを閉めた。近所で買った総菜やピザの出前を取り、飲み食いしながら秀人との別れを惜しんでくれたのである。

 といっても未成年の秀人は、酒が飲めない。他の従業員もまだ仕事が残っていた為、お酒抜きの会だった。その日までの給与を現金で支給され、早めに帰宅を促された。その帰りに呼び止められたのだ。

「おい、秀人。やっと二人だけで話ができそうだな」

 これまで施設から仕事場までの行き来は、工場の社長が個人的に貸してくれた自転車で、片道二十分ほどかけて通っていた。しかし明日から必要なくなるので、帰りはバスを使うか、徒歩で帰るつもりだった。

 その為工場を出てなんとなく歩いて施設に向かっていた所、突然脇道から煙草を口に咥えた健が現れたのだ。街灯に照らされた奴の表情は、にんまりと笑っていた。しかし目は据わっている。正直、足が震えた。こんな日に最悪な奴と会ってしまったと悔やんだ。

 それでも秀人は勇気を振り絞って、振り切るように言った。

「い、いい加減にしてくれ。俺は足を洗ったんだ。それに逮捕された時、健や先輩達の名前は出さなかったじゃないか。その証拠に、俺が出てきてから四カ月経った今でも、捕まっていないだろう。それでもう勘弁してくれよ」

「当たり前だ。口を割っていたら、今頃ただじゃ済まなかっただろうな。けどそういうお前だからこそ、先輩達は買っている。だから秀人を仲間に入れろとうるさいんだよ。俺だって、いつまでもこんな役割はしたくねえ。施設に顔を出せば追い払われる。下手をすれば昔の仲間だと通報されて、捕まる恐れがあるというのに、だ」

「だったらあいつはもう腰抜けになっていて、無理だと言ってくれれば済むだろう」

 思わず興奮して声が大きくなった秀人の口を、彼は素早く塞いだ。

「静かにしろ。ここじゃなんだ。お前がいる施設の近くに、さびれたビルがあるだろ。知っているか」

 秀人よりも十センチ程高い百八十センチの身長で、体格も良い彼に力では勝てない。その為黙って頷くと、彼は続けて言った。

「あそこなら、誰にも邪魔されず話ができる。俺はバイクで来ているから、後ろに乗れ。ビルの屋上で話そう」

「ち、ちょっと待ってくれ。話なんてない。俺はもう健達の仲間には入らないぞ」

「とにかく聞け。さもないと、お前の秘密をばらすぞ。そうすればどうなるか。お前だって分かっているだろ」

 秀人は息を呑み、声を殺して尋ねた。

「その事を先輩達に話してないだろうな」

 その反応がおかしかったのか、健は再びニヤついた。

「言う訳ないだろう。俺とお前との仲じゃないか。それにこんなおいしいネタを、他の奴に取られるような真似はしねえ」

 その言葉に一応安心したが、それでも油断はできない。そこで虚勢を張ってみた。

「もうこれまでとは、事情が変わっている。逮捕されて、俺は完全に家族から見放された。あの家とは関係が切れている。だから健が秘密をばらしたって、俺は困らない。社会的信用を失ったあいつが地に落ちようが、知ったことじゃないんだ」

 しかし彼は全くひるまず、言い返してきた。

「本当か。確かに加害者本人がどうなろうと、お前は構わないだろう。むしろ本音は、傷ついてくれた方が良い。そう思っているんじゃないのか。しかしお前と同じ被害者や周りの人達が、それを望んでいるとは限らないよな。だから今までお前は、何もできなかった。先輩達だけでなく俺についても警察に黙っていたのは、秘密をばらされたくなかったからだろう。それを先輩達は口の堅い奴だと勘違いしてやがる。まあいい。さっさと乗れ」

 彼の言う通りだった。健やその仲間を警察に売れば、逆上して何を喋るか分からない。そう思ったからこそ警察には良いバイトがあると噂を聞き、メールで指示された通りに動いただけだと言い張った。

 その噂も又聞きで、誰から聞いたのか覚えていないと言った以外は黙秘し続けたのである。その為父親が被害者達に金を払い示談してくれたにも拘らず、反省の色が見られないと判断され、執行猶予はつかず少年院への送致が決まったのだ。

 止む無くメットインスペースから出されたフルフェイスのヘルメットをかぶり後ろに乗ると、彼は吸っていた煙草を地面に投げ捨てハンドルを握った。二百五十㏄のヤマハのバイクが、エンジンを鳴らして走り出す。

 しかし途中で秀人は、重要な事を思い出した。その為信号で停止した際、健に懇願した。

「一旦施設に戻らせてくれないか。遅れるとまずい。点呼てんこを済ませないと、面倒になる。規則を破れば施設長だけじゃなく、周りも騒いで厄介なんだ。終わったら、必ず抜け出してビルに行く。だからしばらく、待っていてくれないか」

 今日は名古屋での仕事が最終日であり、明日から施設を出る為に相沢達が待ってくれていた。しかしそう告げる訳にはいかない為、何とか誤魔化ごまかそうとした。

 だが彼は頷かなかった。

「お前、そう言って逃げるつもりじゃないだろうな」

 激しく首を振り、必死に説明した。

「逃げる気があったら、健が現れた時点で工場に引き返していたよ。そうしたら施設へ来た時と同じように、先輩達が追っ払ってくれたはずだ。それをしなかったのは、これまで何度も諦めずに俺の所へ来て仕事場を探し出してまでやってきた健の話を、一度はきちんと聞こうと思ったからじゃないか。だから信じてくれ。ビルへは絶対に行くから」

 信号が青に変わった為、彼は答えないままバイクを発進させた。だが走りながら考えていたらしい。これまで秀人を連れ出そうと訪れる度に、相沢達から施設で暮らす人達がいかに制限されたルールの下で身を寄せているかという説明を、滔々とうとうと受けているはずだ。

 さらにはたまたま居合わせた、他の施設入所者が取り囲んで凄み、

「昔の仲間と会わせる訳にはいかないんだよ。これ以上近づくんじゃねえ!」

と追い返した時もあったらしい。その中には一見しただけで近づきたくない強面こわもての元犯罪者達、またはまだ執行猶予中で保護観察付きの人達がいたそうだ。後に秀人は、裏で茂田が協力していたと教えられた。 

 健のような、詐欺グループの手先をしている若造が叶う相手ではない。本気で敵に回せば大事になる。だからこそ今回は秀人が通う仕事場の近くで、彼は寒空の中を震えながら隠れて待っていたのだろう。下手に騒がれては困ると考えていたからだ。

しばらくして、走行中にメットをかぶったまま大声で怒鳴った。

「本当に来るんだろうな。今度逃げやがったら、間違いなくお前の秘密をばらす。俺も追い込まれているんだ。一度だけでも先輩達のところへ連れて行かないと、やばいんだよ」

「約束は守る。だけど今回が最後だぞ」

 同じく大声で返すと、彼は笑っているようだった。

「とりあえず、来れば分かるさ」

 どうやら了承を得られたらしい。健は待ち合わせの廃墟ビルの前をわざわざ通った後、施設から少し離れた場所にバイクを止め、秀人を降ろした。そしてヘルメットを返した際、再度念を押された。

「絶対に来い。ビルの屋上だぞ。来なかったらどうなるか分かっているよな」

「ああ。でも周りに気付かれず抜け出すのは、少し時間がかかると思う。今は八時過ぎだろ。点呼は九時に行われるから、その後だ。遅くても十一時頃には抜け出すよ」

 携帯で時間を確認しながら答えた秀人に、健は苛立った声で言った。

「できるだけ早くしろ。ただでさえ今日はこんな寒い中で、ずっとお前を待っていたんだ。体が冷えてしょうがない」

「分かっているよ。じゃあ、後で」

「待て。携帯を持っているなら番号を教えろ。あまり遅くなるようなら、電話する」

「いや、少年院に入った時点で、前の携帯は解約された。出てきてからも、まだ個人的に持つことは禁止されている。心配するな。約束は絶対守るから」

 そう言い残し施設に向かって歩いていると、背後でバイクの走り去る音がした。そこでようやく秀人は張り詰めていた気を緩め、人心地ひとごこちつく。実は以前とは番号を変えた携帯を持っていた。だが絶対に教えたくなかったので嘘をついたが、信じてくれて助かった。

 しかしここからが問題だ。明日には荷物を運び出し、大阪へ移らなければならない。点呼の為に、一度施設へ戻らなければならなかったのは本当だ。今日で仕事納めの為、いつもより帰りが遅くなるかもしれないと伝えてはあった。

 だが外泊はもちろん九時の門限を破ることは、余程の事情があって事前に許可を取らないと許されない。規則を守れなければ、施設から追い出されても文句は言えないのだ。特に今日は、この施設最後の日である。今更大阪行きが取り消されては、これまでの努力が水の泡になってしまう。

 といって送別会などは開かれない。何故なら別の施設に移ることを、他の人達には内緒にしているからだ。以前の仲間達が秀人を探そうとした場合、多くの人が知っていれば情報は漏れる。よって施設長の相沢を含め、茂田などほんの一部しか知らされていない。それでも相沢達は最後の夜だからと、秀人の帰りを待っているはずだった。

 健との約束が無ければ点呼を受けた後に別れを惜しみ、本来許されない夜更かしを少しばかりするつもりだった。特に茂田は明後日埼玉へ行ってしまう。彼にはとても良くしてもらった。健康状態と年齢から考えれば、彼と過ごす最後の夜になるかもしれない。だから将棋でも指しながら今生の別れになる覚悟で、感謝の思いを告げたいと考えていたのだ。

 しかしそれも諦めなければならない。不本意な思いを持ちつつ、秀人は施設の扉を開けて中へと入った。

「ただ今帰りました」

 すぐに相沢が出迎えてくれ、小声で言った。

「お帰り。工場の方はどうだった。最後の挨拶は、ちゃんとできたか」

 手袋を外し、厚手のジャンパーを脱ぎながら答えた。

「はい。電話でお伝えしたように、簡単なお別れ会を開いてくれましたので、一人一人にしっかりお礼ができました。大阪でも頑張れと、皆さん口を揃えて励ましてくださいました。特に社長は今度お世話になる大阪の工場へも、連絡してくださったようです」

「それは良かった。私も何度か先方の社長と話したけれど、面倒見の良さそうな人だから安心はしているんだ。秀人君なら大丈夫だと思うし、大阪の和久わく施設長もあの工場なら心配ないと、太鼓判を押してくれていたからね。それでもこっちの職場の社長から、君の人となりや仕事ぶりを直接伝えて貰っていれば、先方も受け入れやすくなる。何よりだよ」

「お気遣い頂いて、有難うございます」

 秀人が頭を下げていると、茂田が顔を出した。

「おお、お帰り。名古屋での最後の仕事はどうだった」

 彼も心配していたようで、帰りを待ってくれていたらしい。相沢に告げた事をもう一度話しながら、施設の共同リビングへと移動した。くつろいでいた何人かの入居者が一斉にこちらを向いて声をかけてくれた。

「お帰り!」

「ただ今帰りました!」

 そう返事をしたが、彼らは明日から秀人が居なくなるなんて知らない。今日でお別れだと思うと、涙が出そうになった。許されるのなら、ここでずっと朝まで語り続けたいくらいだ。

 しかしそうする訳にもいかない。健との約束を思い出すと、一気にテンションが下がった。そんな秀人の様子に気付いたのか、小柄な茂田が背中を軽く叩き、下から顔を覗き込むようにして言った。

「どうした。元気がないな」

 ここで悟られてはいけない。その上長話をする訳にも行かなかった為、咄嗟とっさに小声で嘘をついた。

「すいません。少し疲れちゃいました。ここ最近引っ越しの準備だとか最後の仕事になるからと、張り切り過ぎていたのかもしれないですね」

 すると彼も周囲には聞こえないよう、声を抑えて言った。

「そうか。そう言われれば、余り顔色が良くないな。今夜は特別に許可を貰って、最後に一局指しながら少しばかり話そうかと思っていたけど、辞めた方が良さそうだ。早めに寝ろ。明日は荷物出しをした後、移動もしなければいけないからもっと疲れるだろう。夜には先方での挨拶もあるし、明後日は荷物の受け入れがあるから忙しいぞ。そんな時に体調を崩していては、迷惑をかけてしまうからまずい」

 横で聞いていた相沢も相槌を打った。

「そうですね。第一印象は大切です。万全な体調でないと、向こうの人に余計な心配をかけてしまいますから」

「有難うございます。お言葉に甘えて、今日は早めに休みます。茂田さん、すみません。俺も最後に将棋を指したかったんですが」

 本気でそう考えていた為、申し訳なく思い心から謝った。すると彼は再び背中を叩いた。

「何言っているんだ。お互い落ち着いたら、また指せばいい。俺が大阪に行くか、お前が埼玉に来てくれればいいだろう」

「俺が埼玉に行きます。約束します」

 この時は真剣にそう思っていた。そして夜の点呼を済ませると、秀人は早々と自分の個室へ戻って布団に潜り込み、皆が寝静まるのを待った。余り早く抜け出そうとすれば、まだ起きている人達に見つかってしまう。

だからといって、健をこの寒空の中で長時間待たせるのも気が引けた。癇癪かんしゃくを起して施設に尋ねてくる真似はしないと思うが、機嫌を損ねればどのような態度を取るかと想像するだけで落ち着かない。

 ただでさえ工場の近くで長い時間、待ち伏せしていたはずだ。分厚いライダースジャケットを着こんで防寒対策をしていたようだが、一人で待ち続けるのは辛かったに違いない。しかしそこまでして、秀人と話したがっている彼の意図を測りかねていた。

 あの秘密を暴露されたくないのは確かだ。かといって再び詐欺の仲間に入ることなど、考えられない。そうでなくても秀人が逮捕された為、家族には既に多大な迷惑をかけている。再び罪を犯せば、さらに悲しませるだけでは済まないだろう。そんな状況になるくらいなら、秘密を公にされた方がまだマシだった。

 健だってそれくらいは、理解しているはずだ。それなのにどうやって説得するつもりなのか。先輩達から圧力を受けているらしいが、秀人の意思は固い。今日まで頑なに会おうとしてこなかったのだから、それは十分伝わっているはずである。

 今日約束したのは、明日から大阪に立つ為これで最後だと思ったからだ。交渉が決裂し秘密を暴露されても構わない。そう宣言するつもりだった。これまではばらされたくないと思っていたから、健の言うことを聞いてきた。あいつはそれを利用してきたけれど、それが通用しないと分かれば、折角のネタも大した意味を持たない。

 もちろん世間に公表されれば、恐れていた事態になるだろう。しかしそれで健が得られるものは、何もないはずだ。せいぜい言う通りにしなかった秀人に、精神的なダメージを与える程度である。その代わり、先輩達からこっぴどく叱られるに違いない。

 そこで健の言葉を思い出す。先輩達には喋っていないかを確かめた時、こんなおいしいネタを他の奴に取られてたまるかと言っていた。あれはどういう意味なのか。その事が気になり、彼の申し入れを一度だけ受け入れようと思ったのも事実だった。

 スマホで時間を確認すると、十一時を過ぎていた。そろそろいいだろう。まだ相沢や一部の職員達は、起きているかもしれない。だがこっそり抜け出せば、気づかれないはずだ。最近一度だけその方法を、茂田に教えて貰ったからである。

 あれは珍しく就寝時間を過ぎてからも、こっそり将棋を指していた時の事だ。何気ない会話の中で、おでんの話になった。二人とも好きな具として牛筋ぎゅうすじは欠かせないと意見が一致したけれど、出汁だしは違うらしい。

 茂田の出身地である大阪では、昆布出汁がベースだと言う。名古屋など東海圏だと味噌も有名だが、主流はかつお節の出汁だ。コンビニなどでも地域によって変えているという。「この間、初めて名古屋のコンビニでおでんを買ったが、食べ慣れた味じゃなかった」

 彼の言葉に、秀人は呟いた。

「そういえば、しばらくコンビニのおでんは食べてないですね」

「じゃあ今から食べに行くか」

 少年院に収容されていたからだと気遣ってくれたらしく、そう言いだした。その気持ちに気づき有り難く思ったが、首を横に振った。

「駄目ですよ。もう外出禁止の時間ですし、見つかったら追い出されちゃいます」

「大丈夫だって。誰にも気づかれずに抜け出せる場所があるんだよ」

 大阪の施設から移ってきてそう長くもないのに、長年空き巣専門で生活してきた彼は、そうした場所を確認する癖がついているらしい。そこで好奇心も手伝い彼の後に続き外へ出て、夜中のコンビニでおでんを買い食べたのだ。

 あのルートを使えば、誰にも気づかれずに外へ出てまた戻って来られる。それを覚えていたからこそ、健と約束ができたのだ。

 静かに布団から出て足音を立てないよう歩き、以前通ったように通用口の窓を開けて外へ出た。防寒対策の為に手袋もめて厚着をしていたが、それでも外の風は冷たく感じる。

 こんな中を健は二時間以上も待っているのだと思い、秀人は小走りで待ち合わせの場所へと向かった。

 寂れた五階建てのビルに着き、立ち入れないよう囲まれたフェンスの間を縫って敷地に入り、用意していた懐中電灯を照らす。そこで屋上へと続く外階段を発見し、そこを昇り始めた。しかし鉄が錆びついている為か足元は所々に穴が開き、手すりも崩れている。

 落ちないように一歩一歩確かめながら、また音を立てないようゆっくりと慎重に上がった。屋上のコンクリート部分に足を乗せた時、寒いはずなのに緊張から解放された為か、どっと汗が出たほどだ。

 そこでようやく顔を上げ、夜空に星がまたたき僅かな月明かりが辺りを照らしていると気付く。暗闇に目が慣れて来たのか、懐中電灯の光が当たっていない屋上部分でも、ぼんやりと輪郭りんかくは見えた。

 コンクリートの陸屋根りくやねを、鉄の柵がぐるりと取り囲んでいる。対角線上にある右手の奥には、大きなコンクリートの箱のようなものに扉が付いていた。おそらく室内から屋上へと続く階段があるのだろう。それ以外には何もない、殺風景な空間が広がっている。

 辺りを照らしながら、健の姿を探した。しかしどこにも見当たらない。このビルで間違いなかったはずだ。彼の携帯番号は知っていたが、こちらから掛ける訳にもいかない。

 約束の十一時を過ぎていたから、諦めて帰ったのだろうか。それとも寒さに負けたのか。いや、あいつは執念深い為そんな真似はしないだろう。

 そう思いを巡らしていた時、突然奥の扉が開いた。光を当てると人影が写った。健だ。手には同様にライトを持っている。どうやら寒さをしのぐ為、中で待っていたようだ。

 ゆっくりとこちらへ歩いて来た為、秀人も彼に近づいた。やがて数メートルの距離を保ち、屋上の中央付近で二人は立ち止まった。長い間、煙草を吸っていたのだろう。強いヤニの匂いが鼻を突いた。

「遅かったな。来ないかと思ったぞ」

「誰にも見つからないよう、抜け出すのに時間がかかったんだ。しょうがないだろ」

「まあいい。今までずっと逃げ回っていたお前が、約束通り来ただけで良いとしよう」

 本音では怖かった。しかし声が震えないよう気を付けながらも、はっきりと告げた。

「だからと言って、健達の仲間に再び入るつもりはない。今日はそう言いに来た。だったら秘密をばらすと脅すつもりだろうが、覚悟はしている。また俺が逮捕されれば今度は少年院じゃなく、刑事裁判にかけられ刑務所行きになるかもしれない。そうなれば、家族や親父の会社にこれまで以上の迷惑がかかる。だったらまだ、秘密をばらされた方がましだ」

「強がるな。本当にそれでいいのか。捕まると決まった訳じゃない。前は運が悪かっただけだ。今度から気を付ければいいだろう。俺についてくれば秘密は守る。お前の家庭も崩壊しなくて済む。しかしこれ以上逃げ続けるようなら、そうはいかないぞ」

「永遠に捕まらないでいるなんて、無理に決まっているだろう。先輩達の犯罪に手を貸し続ければ、必ず危険な場面に出くわす。そんな時、俺達のような末端は真っ先に切り捨てられる。健だって本当は、分かっているだろう。上の人達がまだ捕まらずにいるのはたまたまだ。詐欺を続けている限り、遅かれ早かれあの人達も逮捕される」

 彼の目が鋭くなった。

「お前、まさか警察に情報を売ったんじゃないだろうな」

「していない。喋っていたら、健も含めてとっくに捕まっている。それに俺はもっと軽い罪で済んでいただろう。それを分かっているから先輩達は俺の口の堅さを信用して、しつこく誘っているんじゃないのか」

 首を振って説明したが、まだ疑わしい目でにらんできた。

「確かにそうだが、出てきてから誰かに話したかもしれないだろ」

「喋ってない。その代わり、もう健達とは関わらないと決めたんだ。施設には、何十年も犯罪を繰り返してきたベテランだっている。そういう人達から話を聞いて、罪を犯し続けていれば必ずいつかは捕まると分かった。だから俺はもう二度と、犯罪に手を染めない。こんな割の合わない真似なんか、やっていられる訳ないだろう。健だってそうじゃないのか。俺達は取り分だって少ない、単なる使い走りにしか過ぎないんだぞ」

「だったら今後、どうやって生活していくつもりだ。親は当てにならないだろ」

「俺は整備工場で真面目に働きながら、整備士の資格を取るつもりだ。そうすればどこでだってやっていける。親を頼らなくても、一人で十分自立して生きて行けるんだ」

「それは施設に保護されている間だけだろう。あそこも長くて半年程度しかいられないというじゃないか。いずれは出て行かなきゃならないんだろ。そうしたら住む場所はどうする。前科者のお前が簡単に借りられると思うか。お金だってそうだ。汗水流して働いても、中卒のお前がどれだけ稼げるというんだ。それこそ割が合わないんじゃないのか」

「詐欺集団の手先よりは、ずっとましだ。今はまだ半人前だから、確かに手取りは少ない。それでも資格を取って、経験を積みさえすればやっていける。一人暮らしどころか、結婚し子供も作って家庭を持った人もいるんだ。みんなそうやって社会人になっていくんだよ。いつまでも昔の仲間とつるんで、好き勝手やって生きていける訳がないだろ」

 彼は鼻を鳴らしてさげすんだ。

「何を偉そうに。家を飛び出して、俺や仲間の家を転々としてきたのはどこのどいつだ。これまで面倒を見た分、恩返しをするのが当然だろう」

「俺が捕まった際、何も喋らなかった。それでもうチャラだ。いや、お釣りを貰ったっておかしくない。今からでも警察に駆け込めば、健や先輩達は逮捕されるだろう。それをしないだけ有難いと思ってくれ。もう俺に関わらないで欲しい。これ以上しつこくつきまとうなら、施設の人に相談して通報する。俺は本気だ」

「お前にそんな真似が出来る訳ないだろ。もし通報したら、俺はあの秘密を警察に話す。そうなればどうなるか、分かっているんだろうな」

「その脅しは通用しないと言っただろ。腹を括ったんだ。健達の仲間になるくらいなら、ばらされてもいい。家庭が崩壊して親父の会社が例え潰れたとしても、俺が真面目に働き続けて自立さえできれば、いつか持ち直せる。そう信じることにしたんだ」

「お前、本気で言っているのか。こっちも脅しじゃないぞ。本当にばらしてもいいんだな」

 一瞬躊躇して健から目を逸らし、彼が腰に付けていたウォレットチェーンを見つめる。膝は震えていたが、それでもなんとか顔を上げて言った。

「ああ。今日ここに来たのは、俺が真剣だと告げたかったからだ。先輩達にも伝えてくれ。これ以上付きまとえば、逆効果になるとな。あの秘密を公にされたら、俺だってこれ以上黙っている必要は無い。健もただじゃ済まなくなる」

「てめぇ、そんなことをしやがったらぶっ殺すぞ!」

 彼は秀人の胸倉を掴んで睨んだ。しかしここで怯むわけにはいかない。この場さえしのげれば、明日からは大阪へ旅立つのだ。もう関わりあいも無くなる。後は健がどうするかを見守るしかない。そう覚悟を決めてここへ来たのだと自分に言い聞かせ、秀人は目を潤ませながら睨み返した。しかしそこで彼は、手を放して笑った。

「そう強がっていられるのも今の内だ。俺だって馬鹿じゃない。開き直られた場合、どうすればいいかも考えてここへ来たんだ」

 彼が何を言い出すのか、気にはなった。しかしこれ以上ここにいても、話が堂々巡りするだけだ。せっかくの決心が揺らいでは元も子もない。もうこちらの言い分は全て伝えた。後はこの場から離れればいい。そうすれば、二度と彼の顔を見ずに済むだろう。

 二人の距離が開いたタイミングで、秀人は背を向け走りながら言った。

「勝手にしろ! もう健とはこれでお別れだ!」

 背後で何やら呼び止める声はしたが、強く吹いた冷たい風によりはっきり聞こえなかった。耳と顔が痛いと感じつつ、先程上がって来た階段を踏み外さないよう注意しながら素早く駆け下りる。足元に神経を注いでいたので、秀人は地上に降りるまで必死だった。

 だから階の途中で誰かと言い争う声がなんとなく耳に届いていたが、気にも留めなかった。しかし地面に足を降ろした瞬間、人の悲鳴がビルに響き渡ったのである。その為驚いて屋上を見た。何も見えなかったが、その後ドスンと大きな音がして再び静寂が戻った。

 何が起こったのかと不審に思い、秀人は周りを見渡しながら耳を澄ませた。そこでかすかに、誰かがビルの中を走っているような音が聞こえた。健が秀人の後を追いかけてきたのだろうか。それとも他に誰かいるのだろうか。

 このまま施設へ逃げ込もうと考えたが、健が後を追ってきたなら厄介だ。それに先程の悲鳴も気になる。

 そこで秀人は外階段を見上げ、誰もこちらから降りてきていないと確かめた上で、再び恐る恐る屋上へと向かった。そして灯りを点けず、先程までいた場所まで戻ってみた。しかし健の姿は見当たらない。

 やはり先程の足音は彼だったのかと思いながら、ビルの下を覗いた。しかし道路には、誰の姿も見えなかった。どこかに健のバイクが停まっているはずだと探す。そこで秀人が上がって来た階段とは逆側の柵の外側に、それらしきものが見つかった。

 しばらくじっと見張っていたが、彼は現れなかった。だったら一体どこへ消えたのかと、道路と反対側の裏を覗いた。そこは隣のビルと少しの距離を開け、接している場所だ。

 するとそこに、横たわっている人の姿がぼんやりと見えた。まさかと思い、秀人は身を乗り出し凝視する。そこで健が腰にぶら下げていたウォレットチェーンらしきものが、月明かりに反射して光ったのである。

 慌ててライトを照らすと、その人物らしき物体の周りに血らしきものが黒く広がり、水溜まりのようになっていると分かった。そこでようやく先程聞こえた悲鳴と大きな音から、健がここから落ちたのだと推測できた。

 彼が死んでいる。何故こんなことになったのかと呆然としている所に、秀人は背後から突然声をかけられ、驚きのあまり飛び跳ねた。

「どうした」

 聞き覚えのある声に慌てて振り返ると、そこには茂田の姿があった。秀人同様寒さ対策を十分に施した格好をし、手には懐中電灯を持っていた彼の目は、とても心配そうに自分を見つめていた。

 しかし余りに大きな衝撃を受けたばかりだった為答えられないでいると、彼は何も言わず秀人が見ていたビルの下を覗きこみ、息を呑んだ。どうやら人が倒れていると気づいたらしい。こちらを振り向いて言った。

「おい。あれは誰だ」

少し間を置いてから口を開いた。

「恐らく、健だと思う」

「お前にしつこく付きまとっていた、古山田とかいう悪友か」

頷く秀人に目を丸くしていた彼は、顔をこわばらせてさらに尋ねてきた。

「どうしてこんな夜遅くに、お前はこのビルへ来ていたんだ。奴と会っていたのか」

秀人は整備工場の近くで待ち伏せされていた時から、今までの経緯を素直に説明した。

「じゃあお前は、あいつを突き落としてはいないんだな」

「違いますよ! 俺はそんな事、していません」

 激しく首を振り否定したが、彼は余り信じていない様子で何かを考えていた。そこで逆に質問した。

「それよりも、何故茂田さんがここにいるんですか」

「お前がこっそり、施設を抜け出す気配に気づいたからだ。心配になってあとを付けたんだよ。帰ってきた時から、どうも様子がおかしいと気にはなっていた」

 そんな時に秀人が部屋を出た為、明日から大阪だというのに問題でも起こしたらまずいと思ったようだ。また施設を抜け出す方法を教えたのが彼だった為、責任を感じたからだとも言った。

 彼の存在に全く気付かなかったこともあり、不思議に思っていた点を聞いた。

「茂田さんは、どこからここまで上がって来たんですか」

 秀人が使った外階段からなら、途中で会っているか多少なりとも音がしたはずだ。しかし彼は当然のように答えた。

「ビルの入り口を見つけて、そこから中の階段を通って屋上まで来たよ。そういえばお前はどこにいたんだ。どうやって上った」

「向こう側にある、外階段からです」

「そんなものがあったのか」

 そう言いながら秀人が指差した方角に歩き、階段があると確認した彼は再び戻って来た。

「さっきの話だと、こっちの階段からお前以外は、誰も上り下りしていないはずだよな」

「そのはずです」

「それはおかしいな。だったら奴が話していたのは誰だ」

「茂田さんも、健が誰かと言い合っているのを聞いていたんですか」

 彼は頷いた。

「お前を追いかけ、ビルの中の階段を昇っていた時だ。それまではお前と言い争っている声がうっすらと聞こえたから、途中の三階辺りの踊り場で様子を窺っていた。しかし話声が途切れたから、どうなったかと思って階段を上がったんだ。でも屋上の扉が見えた時、再び話し声が聞こえた。だから俺はてっきり、お前とまた揉め始めたと思っていたんだよ」

「茂田さんは、健の姿を見ていないんですか」

「ああ。俺が途中で顔を出せばややこしくなると思って、隠れていたからな。そしたら悲鳴が聞こえて、大きな音がしたから驚いたよ」

「俺が階段を下りている途中で健と言い争っていたのは、茂田さんじゃないんですね」

「違うよ。おい、もしかしてあいつをここから突き落としたのが、俺だと思ったのか」

 あなた以外に誰がいる。そう心の中で思いながらも口には出せず秀人が黙って頷くと、彼は怒り出した。

「おい、おい。俺がそんな真似をして何の得がある。お前を助けたいと思っていたのは確かだ。別の施設に移ればいいとアドバイスしたのもそうした気持ちがあったからだが、人を殺してまでお前を匿うほどの理由はない」

 そう言われればそうだ。しかしこの場には、二人以外見当たらなかった。健が自分で落ちたとは考え難い。あの時聞こえた声からすると、誰かに突き落とされたと考える方が妥当だろう。または揉めている間に、誤って落ちた可能性もある。

「だったらここにいたのは誰でしょう。俺は向こうの階段で誰とも会っていません。すれ違うような広さも、タイミングもありませんでした。茂田さんはどうですか」

「俺も向こうの階段では、誰も見ていない。しかしドスンと何かが落ちる音を聞いた後、扉の向こうで人の気配がしたからすぐに階段を下りて、三階のフロアに隠れたんだ。そこで誰かが慌てて降りてきた足音はしたけれど、真っ暗で良く分らなかった」

 彼はしばらくそのまま息を潜めていたが、また屋上から音が聞こえたという。その為どうなっているのかと不審に思い、階段を上がって外へ出たらしい。

 そこで秀人が何かを探している様子だったので、少しの間後ろから見ていたようだ。するとビルの下を覗きながら固まっていたので、何があったのかと思い心配して声をかけたと説明してくれた。

「つまり健を突き落とした奴が別にいて、そいつは茂田さんが三階で隠れている間に下へ降りて逃げたってことですか」

「そうかもしれない」

「どんな奴が降りて行ったか、分かりますか。何人いましたか」

「いや全く見ていないから分からんが、感じた気配は一人だけだった。それに俺はお前か、話していた相手のどちらかだと思い込んでいたからな。こんな時間の廃ビルに、お前達以外の誰かがいるなんて、考えもしなかった。でも今の話だと、古山田は一人だったんだろ。誰か仲間を連れてきていた訳じゃないんだな」

「いなかったはずです。それに話の内容からして、仲間を連れてくるとは思えません」

「そうか」

 そう言いながらもう一度階下を覗き、ライトの光を当てて健の無残な姿を確認していた。秀人は先程目に飛び込んできた光景が頭に浮かび、恐ろしくて見る気にはなれなかった。しかし彼に促された。

「下に落ちているのは、間違いなく古山田だな。俺は奴を一、二度見かけただけだから、良く分からない。そいつの仲間だったりしないか、もう一度確認してくれ」

 そう言われると断れなかった。健の仲間が別の場所で隠れていて、そいつが突き落とされた可能性もないとは言い切れない。あの秘密を先輩か誰かに喋ってしまい、ここへ一緒に来ていたのかもしれない。そして秀人が健との話を強引に打ち切り逃げた為、二人が言い争ったとも考えられる。

 そこで嫌々ながら、再び下を覗いた。茂田が光を照らしてくれていた為、先程よりははっきりと姿が見えた。どうやらライトの性能が、秀人の物より良かったからだろう。

 やはり健に間違いない。顔の輪郭や雰囲気と、着ていた服装からして分かる。それに彼が腰に付けていたウォレットチェーンを、見間違うはずがなかった。銀色の鎖にところどころ迷彩柄が入っている、特殊なものだ。

 血溜まりに埋もれた顔も確認したが、首や手足があり得ない方向へと曲がっている状態に気付き、吐き気がして思わず目を逸らした。これ以上見続けられない為、茂田に告げた。

「間違いなく健です」

 それを聞いた彼は深く頷き、今度は屋上の周辺を照らした。そして互いに手袋をしている事を確認しながら言った。

「この場所に、俺達の指紋が付いている心配はない。とりあえず逃げよう。警察へ通報しても、前科者の俺達の話なんて簡単に信用してはくれない。下手に疑われるだけだ。俺達がいた証拠となるのは下足痕げそこんと手袋の跡、後は落ちた髪の毛くらいだろう。あの死体をいつ誰が発見するか分からないが、ビルの間に挟まっているせいで直ぐには見つからないと思う。隣の建物も廃墟だ。この辺りは人通りも少ない。お前は明日から大阪だろう。その道中で手袋と靴を処分すれば、まずばれない。俺は明後日から埼玉だからそこで捨てる。それまでに死体が見つかったとしても、警察が俺の所へすぐ来るとは思えないからな」

 想定外の申し出に、秀人は反論した。

「でも身元を調べれば、俺との繋がりは分かると思います」

 彼は頷きながらも、さとすように言った。

「いずれはそうなるだろう。だが今日、明日で秀人に辿り着けるとは思えない。ここから遠ざかっていれば尚更だ。もちろん死亡した後でビルの近くにいた施設から、関係者が居なくなっていると分かれば一度は疑われるかもしれない。しかしお前の大阪行きは、ずっと以前から決まっていた。この辺りには防犯カメラもない。ここにいた証拠さえなければ、警察も手は出せないはずだ。それにお前は突き落としていない。そうだろ」

「も、もちろん、していません」

「だったら下の奴の体に、何かお前に繋がるものは付着していないはずだ」

 そう言われ、屋上でのやり取りを思い返す。そこで気付いた。

「いえ、あいつに胸倉を掴まれました。これってまずいですか」

「何だって。他にあいつと直接触れたりはしたか」

「いいえ、それだけです。あいつが勝手に手を離しました。ああ、工場から帰ってくる時にあいつが運転するバイクの後ろへ乗って、フルフェイスのメットも被りました」

「その時着ていた服は今と同じか。手袋はしていたか」

 頷くと眉間に皺を寄せた彼は、秀人の姿を上から下へ舐めるように見た後言った。

「念の為に、その服も処分した方が良いな。問題はヘルメットだ。そこにお前の髪の毛や、顔の皮脂が間違いなく付いているだろう。出来れば捨てた方が良い。下にバイクが置いてあったな。ヘルメットもあったと思う。とりあえず下に降りよう。お前はここへ来た通りに外階段で行け。下手に別の場所を歩くと、余計な証拠を増やす恐れがある」

 彼はビルの中へと入り、階段で降りるそうだ。秀人は指示に従い、下へと向かいながら先程までの話を思い出す。本音では彼が健と言い争い、誤って突き落としてしまったと疑っていた。

 しかしよく考えれば、七十過ぎの小柄な彼と大柄で腕力に自信のある健となら、体力の差は明らかだ。余程偶発的な事が起きなければ、突き落とされるのは茂田の方だろう。

 しかも彼は秀人の様子がおかしいと気付き、こんな寒い夜の遅い時間なのに心配し、こっそり跡を付けて来たのだ。それに前科者とはいえ六十年以上もの間、空き巣専門で他人を傷つけたことは無いと聞いている。その人柄を信じ相談し、親身になってくれたこれまでの彼を振り返ると、自分はいかに馬鹿な想像をしているのかと反省した。

 一階に辿り着いて茂田と合流し、彼は建物の周りを取り囲むフェンスの隙間をすり抜けた。秀人も後についていくと、すぐ横にバイクが停まっていた。健が乗っていたものだ。 

 ハンドルにロックをかけたヘルメットが一つ、ひっかけてある。彼が被っていたものに間違いない。しかしもう一つが見当たらなかった。恐らく、座席下のスペースに仕舞われているのだろう。

 茂田もそう思ったらしく、シートに手をかけた。しかし鍵がかかっていた。普通はバイクのキーで開けられる。しかしそれが無いのだ。ライトを当てて差しっぱなしにされていないかも確認したが、見つからない。

「鍵は、あいつが持っているんだろう。困ったな。あの状況で下手に近づけば、余計な痕跡を残してしまう。諦めた方が良いかもしれない」

 あの死体に触れて鍵だけ抜き出そうとすれば、周りに足跡等がつくだろう。それ以上に、そんな恐ろしい真似はしたくない。秀人が彼の言葉に頷いたところで尋ねられた。

「秀人は詐欺の受け子をして捕まったと言っていたな。警察でDNAの採取はされたか」

 突然の質問に戸惑いながらも答えた。

「指紋は十本全て取られましたが、DNAを採取するよう言われた覚えはありません」

「だったら警察に、お前のDNAデータが残っているとは考えにくいな。もちろんメットが警察の手に渡った後で、お前のDNAを採取されたら言い逃れはできない。だから処分はしておきたいところだが」

「茂田さんはどうでしたか」

「俺は三回目に捕まった時、指紋と一緒に採取された。罪名が窃盗と家宅への不法侵入だったから、部屋に入ったかどうかを確認するために提出されるよう言われた。だから俺のデータは警察に残っているはずだ。俺もお前も手袋をしているから、どこかに指紋が付いている可能性は無いだろう。しかし屋上やその他の場所に、髪の毛などが落ちていたらアウトだ。といっても俺のこの頭じゃ、落ちている確率は薄いと思うが」

 彼は綺麗に禿げ上がった頭を撫でながら笑った。秀人も思わず顔がほころんだ。しかし彼は再び真剣な表情に戻して言った。

「もし警察が予備のメットから秀人のDNAを採取したとしても、工場からの帰りに乗せて貰っただけだと事実を言えば済む。ビルから落ちて死んだのは、それからずっと後の話だ。屋上にお前の髪の毛等が落ちていたらまずいけれど、これから誰にも気づかれず施設へ戻れればアリバイはなんとか成立するだろう。部屋はそれぞれ個室だが、相沢達職員が二十四時間常駐しているからな。髪の毛等が見つかったとしても、別の日に屋上へ上ったと言えばいい。その時に落ちたものかもしれないと言い張れば、どうにかなる。だから絶対に見つかるなよ」

 頷くと、彼はライトを消して静かに歩き出した。秀人も続く。だが一緒にいるところを見られない為に、時間をずらして帰るようにした。途中から秀人が先になって、周りを見渡しながら誰にも気づかれないよう注意し、ようやく施設の通用口の窓に辿り着く。そこから音を立てないよう神経を使い、秀人は無事に部屋へと戻ったのだ。

 布団の中に潜り込みやっと一息付けたと思って安心した途端、緊張が解けてどっと疲れが出たのだろう。あっという間に深い眠りへといざなわれた。六時半の起床時間に流れる、優しい音楽によって起こされるまで、秀人は爆睡していた。

 部屋に戻って来たのは、恐らく一時は過ぎていただろう。それでも五時間は眠れたようだ。それだけで十分だった。

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