第8話

水島きぬは、涙を流している。

 

十三年前、きぬは、流産した。明け方だった。

 「すぐに救急車を呼ぶ・・・」

 矢之助はベッドから飛び出た。だが、きぬは、

 「待って、待って下さい」

 矢之助の動きを止めた。ベッドは出血で赤く染まっていた。

 「この子は、もう・・・生きていません」

 「しかし・・・お前の体が・・・」

 と、矢之助は、きぬの体を心配した。

 「私は、大丈夫です。ええ、大丈夫です」

 きぬは、気丈に振舞う。

 「このまま、しばらく休ませて下さい」

 きぬは、子供を産めることの出来る体ではなかったのだ。医者が、冷酷にも、きぬと矢之助に宣言していた。

 「奥さまの体は、保証できませんよ」

 と、医者は宣告していた。

 だが、この夫婦に子供は出来た。

 この時点では、医者に行った。

 「出来るだけのことはします。あくまでも、奥さまの体を第一に考えます。いいですね」

 きぬも矢之助も、頷くしかなかった。その後、

 「やつぱり・・・でしたね。でも・・・」

 医者の警告に反発して出来た子供を、このような状態で失ったことに、きぬの落胆は予想以上の衝撃となった。


 数か月、時間が足早に・・・過ぎて行った。 

 特に、きぬはただ茫然とした日々を送った。やり切れなかったのは、矢之助だった。

 「何とか・・・何とか、しなくてはいけない」

 そう思う気持ちは、時間と共に焦りになって来たのです。

古川矢之助は、日に日にやせ衰えて行くきぬを見ていられなくなかった。

 (何とか、してやらなくては・・・)

 こう思うが、その方策が、何も思い浮かばなかった。

 そんな時に、幼女の行方不明事件の報道が流れた。

 「これだ!」

 と、矢之助は立ち上がった。

 神奈川の海岸には、多くの人がやって来ていて、暑い夏を誰もが満喫している・・・ように見えた・・・矢之助には。もちろん、そんな気分にはなれない。家には未だに憔悴しきったきぬが待っている。いつ・・・思い切った手段を実行する機会を、矢之助はうかがっていたのだ。こうして、探し物をしている間にも、きぬは・・・。

 その時、矢之助の目にとまったのは、一人でいる二歳くらいの女の子だった。

 「あの子だ・・・あの子しかない」

 矢之助はその瞬間大きな深呼吸をしたのだが、心臓は張り裂けんばかりの鼓動が波打っている。

(やるしかなかった)

 のだが、彼の手足はガタガタ震えている。矢之助は、

(犯罪を・・・)

犯そうとしていた。周りの人の目が気になるが、誰も矢之助のことなど気にしている様子がない。

 矢之助は、その女の子を抱き上げた。

 不思議なことに、女の子は嫌がりもせずに、素直に矢之助に抱かれた。見ると、彼と目があったが、微笑でいる。

 「おかしな子だ・・・」

 と同時に、

 「この子なら・・・」

 きっと、うまく育てられる、と思った。


 「この子は・・・?」

 きぬは、怪訝な目をした。

 「大丈夫だ。この子を、私たちの子として育てよう。きっと、うまく行くに違いない」

 矢之助は断言した。


 きぬは、二年ばかり外に出ることはなかった。

 その間、矢之助は役所への手続きに必要な書類を作った。偽造である。そうすることを、きぬに伝えると、

 「止めて下さい。後で、後悔することになりますから」

 と反対をされた。

 「でも・・・」

 「この子は、そういう場所に通わせないことにします。だいじょうぶです。必要な知識や習い事は、家庭教師をつけます」

 二年も・・・この子の世話をし、静佳という名前も、きぬがつけた。

 「あなた、どう思います。いい名前でしょ。ええ、義経の愛妾、静佳御前から取りました」

 矢之助は微笑むしかなかった。

 「分かった。この子には、それなりのことをやってあげよう。絶対に不幸せになんかにさせない。私たちの手で、幸せにしてやろう」

 この時、静佳の運命は決まった。

 

 それから、十三年が経ち、周りの状況は多少なりと変わりつつはあったが、静佳は、きぬと矢之助に見守られながら、成長した。

 そんな中、何処から得たのか、静佳が、吉野高校の文化祭で踊りたいと言い出した。きぬは、もちろん反対をした。

 「お母様・・・」

 静佳は父矢之助を見、哀願するような眼差しを向け、訴えていた。

 「まあ、いいではないか・・・当日は、わたしもついて行って、見守るから・・・」

 きぬはしぶしぶ納得するしかなかった。

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