第29話 話し合い

会社帰りに寄ってもいいかというメッセージが佳織から来たのは、引っ越しの日から10日後のことだった。


つきあい始めてこんなに連絡を取らなかったのは初めてだった。声を聞きたいとのに、会えば何かが進んでしまう気がして、私は自分から行動を起こせなかった。


私の方が遅いから帰りに寄ると佳織に返事をして、その日私は新居に立ち寄る。


二人で暮らしたくて探した部屋なのに、結局一度も一緒にいることがないまま離れるになる気すらし始めるようになった。


ただの他人として一緒に暮らした日々の方が、つかず離れずの関係で居心地が良かったのかもしれない。私と佳織は互いに過剰な期待をすることもない関係のままでいるのが一番の選択で、それ以上深く立ち入るべきではなかったのだろうか。


そんなことを考え始めるともう迷路でしかなくて、何一つ私は前向きになれなかった。


新居に着いて、鍵は勿論持っていたけど自分の家である気がしなくて、インターフォンを押して佳織が出るのを待つ。


「真凪、ごめんなさい。わざわざ寄ってもらって」


玄関口に出てきた佳織は、仕事から帰った格好のままで私を待ち続けていたことはすぐに分かった。今帰って来たところなのか、それともずっと前に帰ってきたのかは分からないものの、佳織の顔からは表情が消えていて、それだけ疲れていることを知らせた。


「外でできない話でしょう?」


それに佳織は目を伏せる。


最近佳織と視線すら合わせていない。それは佳織が何かにつけて自分の意思を主張する私と向き合うことを避けているからだろう。


私はもう佳織にこんな表情しかさせられなくなっていることこそが、この関係の限界を告げているように感じていた。


リビングに入ると部屋のあちこちに段ボールが積まれていて、人の住んでいる家という感じはしなかった。


佳織もまたここでの生活を始めることに迷っているのだろう。


「まだ、何も片付けられてないんだ」


「うちも似たようなものだから」


キッチンカウンターの前の小さめのダイニングテーブルは引越に合わせて買ったもので、毎日向かい合って食事を取るはずの場所だった。


初めての向かい合う場が、こんな状況でになるなんて想像もしていなかった。ただ、こうやって佳織が前にいるのは、もう最初で最後のことになるかもしれなかった。


「それで、話って?」


飲み物でもとキッチンに向かおうとする佳織を留めて、そんなことはいいから話をしようと席に引き戻す。


こんなにも佳織と一緒にいることに間の保たなさを感じたのは初めてだった。


「真凪はわたしのこと、今はどう思ってる?」


「ぐちゃぐちゃしててわからなくなってる、かな。佳織のことを大事にしたいのに、佳織の目をどうやって見ればいいのかもわからないんだ。

ごめんね、大事にするってプロポーズしたくせに、全然できてなくて」


「そんなことない。わたしが悪いから」


「私を呼んだということは、佳織は結論を出したってことでいいの?」


「結論じゃないけど、少し話し合いたい」


「話し合う、か。そんな自信ももうないかな…………私は、今過去の自分、佳織といた自分を全部消したいって思ってる。佳織がずっと我慢していたなんて気づかずに、好き勝手なことばかりしてしまった。私は結局何も佳織のこと分かってなかった。そんな私に佳織を愛する資格なんてないでしょう」


「そんなことない。辛かったわけでも、真凪に合わせていたわけでもないから」


上目使いに一瞬だけ視線を私に向けて、また佳織は自信なさげに目を伏せる。


「私といて嫌な時はあったんじゃないの?」


「真凪といるのはいつだって楽しかったよ。すごく安心できた。わたしも真凪が好きで、大好きで触れ合うのも嫌じゃなかったから」


「でも、セックスはしたくないんでしょう? それは佳織の気持ちは私とは違うってことなんじゃないの?」


「そんなことない。真凪のことは大好きだから……ただ、したくないって言えばそれで済まないかなって、なんとなく避けていただけなの。できないわけじゃないし……それで真凪を失いたくない。頑張るから一緒にいて欲しい」


「佳織の気持ちは嬉しいけど、望んでもいなくて耐えてる相手を抱けるかって言われたら無理だから」


私のために佳織を犠牲にするのは嫌だった。それはもう人と愛し合うって行為じゃない。


「触られたら寒気がするとか、そう言うんじゃないの。誤解しないで。ただ、真凪としてると自分が自分じゃなくなる気がする時があって、自分が分からなくなるんだ。

……それが怖くて逃げ出したかっただけなの」


「望んでないってことじゃない」


「違う……真凪に触れられるのは嫌じゃないから」


「ごめん。分からない」


テーブルに載せた自らの掌を私はぎゅっと握り締める。


触るのは嫌じゃないと言われて、逃げたいとも言われて私が手を伸ばせるわけがなかった。


「佳織、やっぱりもうちょっと時間を置こう? お互い冷静になった方がいいんじゃない?」


向かいに座る佳織の頭を撫でることすら私はもうできない。


佳織に対しての全ての行動に見えない壁が存在して、私は目を瞑った。


「今日はもう帰るから」


佳織から逃げ出すように私は立ち上がって、目についたのはルナの小さな遺骨を入れた骨壺だった。


佳織に必要なのは、ルナのように傍にいて触れ合うだけの存在なのかもしれない。


私はそうなれそうにないから無理だなと溜息を吐いていた。

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