第15話 篠野からの相談
篠野の部屋で目覚めた朝は酔いが残っていたのかもしれないと、あの朝の会話に後悔する日々を私は過ごしていた。
こうなったらもう本気で猫を飼うべきかと迷っていた私に、篠野から飲みの誘いがある。
その意図が分からなかったものの、この前の礼をしたいこともあって承諾を返していた。
場所を決めるのには一悶着あって、最終的には家飲みという結論になる。私は食事の買い出し担当で、仕事帰りに買い込んだ総菜を持って篠野の家を訪れた。
場所が篠野の家になったのは、私がルナに会いたいと言ったからで、篠野も不承不承ながら頷いてくれた。
篠野的には、酔っ払った私を連れて歩かなくてもいい場所であればどこでもいいとのことで、自分の信頼のなさを知る。
「あれ? 今日はコンタクトなんだ」
部屋に入るなり、篠野が家でのいつもの格好と違うことに私は気づく。
「フレームがちょっと欠けちゃったので、今新しいのを作り直してるんです」
篠野は眼鏡が似合わないわけではない。ただ、選んでいるフレームが無粋なのがいけなくて、可愛い素顔を隠してしまっている。
今日は気に入っている篠野の素顔を見ながら飲めると思うだけで、自然と気持ちが上昇する。
酔い過ぎないようにしないといけないとは、勿論決意を固めて来ているので、篠野の可愛さに調子に乗らないようにと気を引き締め直す。
「最近保守は落ち着いてる?」
「そうですね。大きな問題は起きてないです。まあ、また追加改修したいってユーザさんはいろいろ言ってきてますけど」
「でも、ライフサイクル考えたら、流石にこれ以上追加で機能を盛り込むのは勿体ないね」
システムは1回作れば未来永劫使えるわけではない。周辺の変化に合わせて定期的にシステムのリプレイスも必要になる。
今篠野が保守をしているシステムは、もう5年前に構築したシステムなので、今お金を掛けて新たに何か作っても、数年も保たないことになる。
「じゃあ、水上さんがリプレイスやってくれればいいですよ」
「流石にあと2年はないでしょ」
「そうですね」
もしそうなれば、私はまた篠野と一緒に仕事をする機会が出てくるのかもしれなかった。とはいえ、それは私でなくてもできる仕事で、篠野もそれまでずっと保守を続けているかどうかは分からないので、可能性の話でしかない。
飲んでいた1本めのビールが空いて缶を置くと、篠野が二本目を差し出してくれる。まだもう少しは飲んでもいいようなので、それを受け取ってプルタブを引く。
「水上さん、最近、今の会社に居続けるべきかどうかちょっと悩んでるんです」
「何か嫌なことがあった?」
「そうじゃないですけど、周りを見ても保守とか既存のシステム改修とかが多くて、これからずっとそんなことをやり続けるのかなって思って」
今日は篠野から声が掛かったのは、そのことを相談したくてなのだろう。こういうことは同じ会社の人間には相談し辛い。でも同じ業界を知っている相手に相談をする方が情報を収集できる。
最後に二人で飲み会をした時に話したことを、篠野なりに真面目に考えてくれた結果がこの相談に繋がっていて、少し嬉しさはあった。
「他もやってみたくなったってことなんだ?」
「そうですね」
「それもいいんじゃない? この業界は転職も多いし、別の会社に転職するのも、しばらくいろいろ経験したいから派遣みたいな形でやるのも、何だっていいと思うよ」
しがみついて運良く力をつけられればいいけれど、若手にさせるには可能性を潰すので勿体ないという仕事も勿論ある。
篠野の担当している保守を100%否定するわけではなかったけど、いつまでもやっていても面白くないだろうとも思っていた。
「水上さんは転職考えたことありますか?」
「考えるだけならあるよ。まあ、私は今の会社でもうちょっと頑張ってみようって転職はしなかったけど、どっちが正解かなんてないと思う」
「そうですね」
「転職するなら転職先の会社の情報はちょっとでも集めた方がいいよ。転職サイトでも情報収集できるけど、生の意見も集めた方が私はいいかなって思う」
「有り難うございます。いろいろ考えてみます」
「私で力になれることがあったら相談に乗るから、また声を掛けて」
呑みながらルナを抱っこして、篠野と一緒に暮らした日々を私は思い出す。ただの同居人でしかなかったけど、二人と一匹での空気感は心地よかった。
「水上さん、この前唯依さんに会いました」
「唯依に? バーで?」
それに篠野は肯きを返す。
確かに唯依が通っているバーと篠野が通っているバーは偶然同じなので、遭遇する機会があってもおかしくはなかった。
「話しかけられてちょっと話をしましたけど、水上さんが唯依さんのどこが好きだったのか分からなくなりました」
「……可愛いからかな。ごめん」
何となく篠野の言おうとしていることが察せられて先に謝りを口にする。
「可愛ければ何でもいいんですか、水上さんって」
想像通りの言葉が篠野から投げかけられて、唯依が何かをしでかしたくらいは分かった。
「つきあい始めたころは夢中すぎて見えてなかったんだなって、今では思ってます」
「水上さんってほんと危なっかしいですよね」
「そうかな」
「そうです」
「じゃあ、篠野さんが面倒見てくれる?」
自分では危なっかしいつもりはなくて、そう見えているのなら面倒を見てくれるのか、と売り言葉に買い言葉的に言ってしまう。
案の定篠野はビールの缶を手にしたまま、固まっていた。
でも、こうなったらもう誤魔化しても仕方がないだろうと、私は続ける。
「冗談じゃないよ」
「わたしが結果的にいつも水上さんを引き受けるみたいになっているからですか?」
真っ黒で丸い瞳で私を見つめながら篠野は、ちょっと警戒心を出しながら尋ねてくる。
感情を表に出すのを抑えようとする素振りが可愛くて、やっぱり好きだなと感じてしまう。
「篠野さんが好きになったからだよ。面倒見てくれるところもひっくるめてだけどね」
「水上さん……」
「嫌だったらごめんね。そんな気がないなら、はっきり言ってくれたらいいよ」
「水上さんって唯依さんのような可愛い人が好きなんじゃないんですか?」
「好みではあるけど、私は篠野さんも可愛いと思ってるよ。時々、抱きついてキスしたいなって思うくらい」
篠野に白い目で見られている気がして、私は謝りを口にした。篠野にとってはやっぱり私はただの先輩のような存在でしかなくて、恋愛対象になどならない相手なのだろう。
「今日はもうお開きにしようか。折角誘ってくれたのに、台無しにするような話をしちゃってごめんなさい」
篠野の性格からすれば断ること自体できないかもしれないと、私はこれ以上はもう留まっていない方がいいだろうと席を立つ。
そのままキッチンに向かって、飲みかけのビール缶の残りを流しで流した。
水と一緒にビールを流しながら、もうこれで篠野との関係は決定的に終わりになるだろうと目を閉じる。言うつもりじゃなかった。それでもつい言ってしまったことに後悔はあった。
「水上さん」
不意に背に触れる温もりに私は驚きを示す。私の腰に腕を回して背に全身をくっつける存在は篠野でしかない。
「篠野さん……?」
「本当にわたしでいいんですか?」
「篠野さんしか、今は欲しくないよ」
「わたしも、水上さんが欲しいです」
腰に回された篠野の手を解き、私は向きを変えて篠野を見つめる。
「私の恋人になってくれる?」
篠野が照れながらも肯きを返してくれたのを確認してから、私は篠野を抱き締めた。
「キスしていい?」
「そういうこと一々聞かないでください」
「だって聞かないと嫌かもしれないでしょう?」
そんなやりとりをしながら、私は篠野と初めてキスを交わした。
初めは触れるだけのキスにしようと思っていたのに、いざ篠野の唇に触れると柔らかな感触に欲望が止まらなくなる。吸い付いて、少し驚かれたけれど、篠野もすぐに応じる姿勢を見せてくれる。
「いきなり、エロすぎません?」
「本能が出ちゃった」
そう言って謝る私を見て、笑いを返してくれているということは篠野はそれ程怒っていないということで、胸を撫で下ろす。
「そこから先は、もうちょっとちゃんとつき合ってからですからね」
篠野らしく釘を刺されて、今日の触れ合いはそこまでになった。
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