第10話 リセット

夢見心地のまま私は近くにあった温もりに気づき、その存在を引き寄せて首筋に唇をつける。


「唯依……」


それが過去の記憶と重なって、甘い声で唯依の名を呼んだ。これは唯依が出て行く前の記憶かもしれないと思いながらも、夢の中にあってはそんなことすらどうでも良かった。


腕の中にある存在の身じろぎで、私は目を覚ます。


目を覚まして、それが何であるかを認識したものの、脳は記憶にないことはすぐに受け入れられないものだ。


「……やっぱり覚えてないんですね。昨夜、帰ってきた時に、一緒に寝ようって駄々を捏ねたの」


溜息を吐く存在は篠野だった。


「すみません」


「襲われるなら拒絶しましたけど、ただ居るだけで気が済んだようだったので、そのままここで寝させてもらいました」


「ごめんなさい。酒癖悪くて」


「水上さんって、どこかの瞬間でいきなり落ちますよね? まだ大丈夫かなって思っていても、急に突拍子もないことし出すので」


「……そういうの、全く記憶にないんだよね」


「もうお酒に呑まれる年でもないので、そろそろ自分の酒量は把握した方がいいんじゃないですか?」


もう一度謝りを出すと、篠野は起き上がって部屋から出て行く。


そこまで怒ってはいなさそうだと安心はしたものの、篠野の信頼に傷をつけてしまったことは確かで、これからは篠野の前では極力酒を呑まないようにしようとは誓った。





篠野との同居生活は8ヶ月目に入り、役割分担も上手く行っていて、同居生活がもう当然のようになっていた。このままずっと篠野と暮らすでもいい気がしていた所に、篠野からの通知がある。


「引っ越し先が決まりました」


「もっといてくれても良かったのに」


篠野にとっては居心地が悪かったのだろうかと、残念なところは思うところはあった。


「今時点で良くても、いずれは水上さんは恋人と一緒に暮らしたいや、恋人を連れて来たいという時が来ると思っています。それはわたしもかもしれません。だからゆっくり引っ越し先を選べるうちに探して、引っ越そうと思っていたんです」


「そっか……」


「お世話になったことは、非常に感謝しています。有り難うございます」


元々、篠野は条件に合う場所が見つからなくて私の家に一時的に来るしかなかったなので、細々と物件探しはしていたのだろうとはわかる。ようやく家が見つかったのであればこのタイミングを逃す必要はない。


「私も篠野さんとの生活は楽しかったよ。ちょっと迷惑を掛けたのはごめんなさい、だけど」


「水上さんって時々危なっかしいですよね」


「自覚はあります」


「お酒はほどほどにしてくださいね」


「それって実家で独りで残される父親に言うみたいな台詞じゃない?」


そうですね、と篠野は笑ってくれる。


そう笑ってくれることには安堵はあった。決して私を避けたいがために出て行くわけではなく、これはこれから先を考えての選択なのだと、そう思いたかった。


篠野が引っ越すまでには一月もなくて、その間私は仕事が忙しくて家には寝に帰るだけの日々を続けていた。


気づけばもう篠野の引越日になっていて、最後に篠野とのんびりする時間が持てなかったことに悔いはあった。


篠野とルナが引越をして、篠野の部屋は空っぽになって、私はまた一人になった。


篠野とは仕事を通じて顔を合わせるものの、家に帰っても誰もいない生活に戻るのはやっぱり堪えた。


最近、私は篠野のことが好きなんだろうと自覚するようになった。


もう何回篠野を抱いてしまう夢を見たか分からない。


あのまま一緒に住んで居れば、もしかすると襲ってしまっていたかもしれない。


少しの安堵と、淋しさが同時にあって、それでも告白ができなかったのは、仕事での関係があったからだった。


篠野はどういう女性が好きなんだろうか。


バーでの篠野は顔見知りが多かったとはいえ、ナナ以外とは大抵挨拶程度だった。


出会いを求めて行っているはずなのに、バーでの篠野の態度はあまり出会いを求めているようには見えなかった。


ナナは年上がいいタイプで篠野は範囲外だとはっきり言っているけど、もしかして篠野はナナに片思いをしているのかもしれないと勘ぐっていたりもする。


結局どれも推測の域を出なくて、当たって砕けるだけの勇気が持てないまま、煮え切らない思いを私は抱え続けている。


篠野が出て行ってしばらくして、私はリリースに向けての作業のため、篠野のいる客先に戻っていた。


毎日篠野の顔は見られても、ただ見続けるだけが私にできる精一杯だった。

 

思いで告白もできずにもやもやするのなんて学生の恋のようで、30になっても情けなさはあっても、今の関係も壊したくない。


「引っ越してどう? 新居に慣れた?」


あくまで平静を装って私は篠野に声を掛ける。


「片付けは終わりましたけど、まだ馴染めてはないですね。ルナも自分の籠から全然出てこなくて……」


「ルナは元々1日の大半を籠の中で寝てなかったっけ?」


「そうですね」


頷いたきり篠野との会話は続かない。


「ルナ、調子悪いの?」


「えっ?」


「篠野さんが元気なさそうだから」


「ルナ、もう年なのに引越で負担をかけちゃったのかなって思って……」


猫は家につくと言われるように、猫にとって住環境は大事な要素だろう。それがころころ変わったことによりストレスになる可能性はあった。


「それは多少はあるかもしれないけど、何か気になる症状がある?」


「最近ごはんをあまり食べていないような気がしてます」


「病院には連れて行った?」


「それも迷っていて……」


「まず病院に連れて行った方がいいんじゃない? 篠野さん一人で悩んでも答えが出ないような気がするから」


「そうですね。そうします」


その後、病院でルナが食事をあまり取らなくなったのは、老衰によるものだと言われたと篠野から報告を受けていた。


大きな病気ではなさそうだったけど、一人暮らしをするのにも連れてくるほど篠野にとってはルナは大事な存在で、近い将来ルナが先に旅立つことを考えると、篠野は大丈夫だろうかと少し不安になった。

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