第8話 来訪者
「どうしたの?」
唯依の座った場所から一人分の間を空けて、カウチソファーのベッド部分に腰を下ろした私は、改めて来訪の理由を問う。
「怒らないの?」
「怒るも何も用件を聞いていないから、怒りようがないんじゃない?」
「そうだけど……」
自分で勝手に出て行ったという過去があるせいか、唯依は私の態度を伺っているような所がある。
「何か困ったことでもあった?」
その問いに唯依は答えなかったものの、何もなければ唯依が再び私のもとを訪れるなんてないだろう。
「新しい恋人と上手く行ってないの?」
「…………もう別れたから」
私を振った上で飛び込んで行ったのに、もう終わってしまったのでは私は振られ甲斐がなかったなと思うくらいには、唯依との関係を整理できていた。
「そうなんだ。それで、今日はどういう理由で来たの?」
「やっぱり真凪の方がよかったって思ってるんだ。真凪、まだ誰ともつき合ってないよね? やり直さない?」
唯依からそんなことを言ってくるなんて有り得なかった。唯依はプライドが高いから、そんなことを自分から言うようなタイプじゃない。
「それって私は唯依にとって、都合のいい相手ってことなんじゃないの?」
これで唯依が私の元に戻って、安心できるかを考えて、安心できないというのが今の私の答だった。唯依はまた私を捨てる気がしてならなかった。
「そんなことないよ。本気で真凪とやり直したいの」
近づいて来た唯依は、そのままソファーに座る私の膝に跨がり身を載せると、顔を寄せて私の唇にキスをしてくる。
「真凪がやっぱり好きなの」
懐かしい唯依の唇の感触に、一緒に住んでいた頃を思い起こす。でも、同時に別の存在の顔が私の脳裏に浮かんでいた。
「唯依の気持ちは嬉しいけど……やり直すだけのパワーが今の私にはないよ」
「じゃあ、ワタシを感じて」
ソファーに押し倒されて、すぐに唯依がのし掛かると再び唇を塞がれる。
唯依の手が私のシャツの中に潜り込んできて、肌の上を冷たい掌が撫でて行く。
拒否をしたいと頭にはあっても、体は唯依との繋がりの記憶を呼び覚まして唯依を求めようとする。自分の中の矛盾を抑え切れなくて駄目かもしれない、と咄嗟に目を瞑った。
「気持ち良くしてあげる」
耳元で甘い声で囁かれ、唯依の唇が首筋を滑って行く。懐かしいその感触に快楽に落ちる。
その甘い空気を裂くように不意に玄関が開く音が届いた。廊下を歩いてくる足音に流石に唯依も無視できなかったのか手が止まる。
物音をさせた存在はリビングに姿を現し、そこで自分たちの姿が目に入らないわけがなかった。
「ご、ごめんなさい」
それだけ言うと、一目散に玄関を出て行く音だけが部屋に響いていた。
「誰?」
「唯依に言う必要はないと思っているけど」
真実を唯依に告げる必要はなく、誤解されたままでもいいと私は答を与えない。
「大して可愛くなかったじゃない」
唯依の女王様な発言が出て、唯依は相変わらずらしい。この性格が早々簡単に変わるわけないか。
「唯依より可愛い存在は、そうはいないね」
「でしょう」
「でも、唯依が私だけを向いてくれることなんてないんだって知ってるから。縒りを戻しても私は唯依のことずっと浮気してないかって疑心暗鬼を続けるよ。前みたいに真っ直ぐに唯依のことを好きでいられないから、本当の意味で戻るなんてもうできなくなってるってわかってる?」
「……」
「今日は帰って。まだ何か言いたいことがあるなら聞くけど、冷静になって考えてからにすべきだと思う」
その言葉に唯依は私の膝から降りると、何も言わずに部屋を出て行った。
流されそうでちょっと危なかったけど、篠野の帰宅に救われた。
多分あのまま求め合ってしまえば、快楽に負けて縒りを戻すになった気はしていた。でも、それは私にとっても唯依にとってもいい選択にはならないだろう。
唯依を帰した後、謝りと共にもう帰ってきても大丈夫だからと篠野に連絡を入れると、夕方には篠野は家に戻ってきてくれて胸を撫で下ろす。
「ごめん、みっともないところ見せちゃって」
「縒りを戻したんですか?」
その言葉は唯依が私の恋人だったと気づいているということを意味していた。多分そうだろうとは思っていたけど。
「篠野さんはやっぱり知っていたんだ、私がビアンだって」
それに篠野から肯きだけが返ってくる。
「篠野さんも、だよね?」
「そうです。いつから気づいていたんですか?」
「昔バーで会ったことを思い出したのは、わりと最近かな。それまでは全然思い出せてなかったんだ。一緒に住まないかって言った時も、そんな意識全然なかったよ」
「そうですか……わたしもつきあうとかつきあわないとかの相手として、水上さんを見たことはないです」
「じゃあ今まで通りの関係でいいよね?」
お互いのプライベートには踏み込み過ぎない。ただのルームシェアをする相手という関係でいることを自分に言い聞かせるように、私は言葉にした。
「はい。でも、また一緒に暮らされるようでしたら、出て行きます」
普通に考えれば同居人がいるのに、恋人といちゃつくなんてマナー違反だ。
「そんなことにはなってないから気にしないで。縒りを戻さないかって言われたけど、私は頷けなかったんだ」
「まだ心残りがあったんじゃないんですか?」
「あるにはあるけど、唯依は可愛くてもてるから、縒りを戻してもまた同じになりそうな気がしてる。それで縒りを戻す勇気があるかと言えば、ないから。自分に引き留めておく自信がないのが駄目なのかもしれないけどね」
「水上さん、お人好しですからね」
「篠野さんに言われると思わなかった……そんなにお人好しかな」
「プロジェクトでも損な役回りばかり引き受けてるじゃないですか」
「みんなの仕事を回るようにするが私の仕事だからね」
「それで一人で残業してますよね?」
篠野の言葉通り、プロジェクトメンバーのフォローで忙しくて、自分の仕事は定時時間外にしていることが多い。同じプロジェクトメンバーでないのに、篠野が気づいくれているということは、それだけプロジェクトを気にしてくれているということだろう。
「私は気にしてないからいいよ。とにかく、私は唯依とは縒りを戻さないことにしたから、篠野さんは気にせずに今まで通りここに住んでくれていいからね」
「わかりました。もし誰かを家に招く時があれば、これからは事前に連絡をください。その時は時間を潰してから帰るようにしますので」
「…………今日のは唯依が押しかけて来たんだからね」
「家に入れる時点で連絡頂ければいいです」
「押し倒されるなんて思わなかったんだもん」
「じゃあ次からは警戒心をもう少し持った方がいいんじゃないでしょうか」
「気をつけます」
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