第7話 外泊
篠野が土曜日の夜に友達と呑みに行くので留守にするとは聞いていたものの、帰って来たのは翌日の昼のことだった。
私はただの同居人でしかないので、それを口うるさく言う権利を持たない。
ルナの世話も自動給餌器や自動の猫トイレがあるので、多少長めの外出は大丈夫だと聞いていたし、私が何かやらないといけないものはなかった。
何もなかったように帰ってきた篠野と生活を続けながら、私は篠野の外泊先は恋人の元なのだろうかと考えるようになっていた。
以前聞いた時は恋人はいないと言っていたものの、篠野が全く恋愛をしてこなかったわけでないことは知っている。以前告白されたと聞いた時は断るつもりだと言っていたけど、それがどうなったのかも私は聞いていないし、押し負けてつき合うことになったは篠野ならあり得そうだ。
普段あまり表情の起伏がない篠野は、恋人の前ではどんな表情をするのだろうかと、少し気にはなった。日常の篠野は知っていたとしても、きっと恋人と居れば甘えたりもするはずで、そんな篠野が想像できなかった。
その日、例の如く土曜日に持ち帰り仕事をリビングでしていた私は、出かける前の篠野に遭遇する。
「水上さん、今日も呑みに行ってくるので、帰りは気にしないでください」
そう告げられたものの、私はそれ以外のことが気になって篠野の言葉が全く頭に入ってなかった。
「篠野さん?」
「はい。どうしたんですか?」
「眼鏡、掛けてないから」
コンタクトにしているのか篠野の鼻には見慣れたフレームが掛かっていなくて、おまけにいつもはお洒落なんかどうでもいい的なパンツ姿が多いのに、今日は黒くて拡がりのあるスカート姿で、普段はそのまま下ろすだけの髪も動きがつけられている。
普通に考えてデートに行く格好にしか見えない。
「今日はコンタクトにしたんです。普段はモニターを見てる時間が長いので、基本眼鏡なんですけどね」
「そうなんだ。行ってらっしゃい」
行ってきますと、篠野はリビングを出て、やがて玄関の扉が閉まる音が届く。
「ちょっと待って……」
記憶の片隅に今日の篠野の姿が引っかかっている。
どこかで今日の篠野には会った気がしてならなかった。
でも、篠野は仕事の時はコンタクトにはしないと言っていたので、仕事場でないことは確かだ。
「あれ……?」
候補を挙げてみて一つずつ記憶の中の検索を繰り返す内に、一つの記憶に思い当たる。
篠野と出会った記憶は、唯依と出会ったのと同じバーでのものだった。朧気ながらも唯依に会うよりも前に、偶然カウンターで隣になって、会話を交わした覚えがある。
つまり、それは篠野も私と同じ女性を求める存在であることを示している。
そういえば、初めて会った時に篠野はどこかで会ったことがないかと聞いてきた。もしかすると篠野は私と会った記憶を私より前に思い出しているのかもしれない。
その日も篠野は終電までには帰らず、篠野が女性に身を委ねる姿を想像してしまって、自慰をしてしまった。
きっと唯依と別れてから欲求不満が溜まってしまったせいだろうと、私は深く考えることはしなかった。
篠野に恋人がいるのかという質問を私はできないまま、同居生活は5ヶ月目に入ろうとしていた。
コンタクト姿の篠野を見て以来、私の中での篠野の立ち位置がぐらついていることは認識していた。お洒落をした篠野は、魅力があると言っても唯依のような派手さはない。でも、表情の変化が乏しい中にも、ふとした瞬間に零れる笑顔や、まっすぐに相手を見つめる視線が澄んでいて、隣に座っていれば思わず腰を引き寄せたくなるくらいだった。
以前篠野と会ったことは思い出したものの、その時どんな話をしたかまでは記憶になく、いつもの呑んで記憶を無くすパターンだったのだろうとは分かる。
きっと好みだったから口説いてみたけど、乗ってはくれなかったのだろう。篠野の性格であれば、私でなくてもそれが普通の対応だろう。
自分が見た目の可愛さに弱いことは自覚はある。
お洒落をした篠野を見ただけで考えを変えすぎなのかもしれない。でも、逆に言えば篠野は人としては一緒に暮らしてもいいと思うくらいには信頼している。その存在の可愛い所を見せられたらやっぱりスイッチが切り替わってしまう。
唯依との別れから立ち直る時間はもう十分あったし、今は私の生活の中にいるのは篠野だ。とはいえ、恋人がいるらしい篠野に声を掛けても報われないだけだろう。
いつものように篠野は昨晩も帰ってこなかったので、恋人と愉しんでいるのかもしれない。正直に言って篠野の恋人が羨ましい。
人生そんなものか、と恋人もいない私はだらだらとブランチを食パンとコーヒーだけで済ませてから、リビングで寛いでいた。
そこにインターフォンの音がして、宅配かとモニターを覗き込んだ先に映った存在を凝視してしまう。
「ごめんなさい。少し話がしたくて……」
モニターのスピーカから聞こえてきた声は、半年以上前に出て行った元恋人の唯依のものだった。相変わらず可愛くて、甘い声に私は何も言わずに解錠釦を押して、唯依を部屋に迎え入れる。
篠野がいない時でよかったと胸を撫で下ろしながら、唯依をソファーに勧めた。
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