鳥かご行き

空飛ぶ魚

鳥かご行き

 空から吊り革が下がっていた。

 男は別段驚くでもない。それは長時間の仕事を終えて疲れていたとか、機械の画面を睨みつけていたせいで目がちかちかしていたとか、そういった事とは関係なく、ただ男は驚かなかっただけである。

 吊り革に手をかけたのも、その延長線を辿ってみただけの話で、他の選択肢、例えば電車で家まで運ばれるという道もあったけれど、わざわざ別のものを選ぶ必要が見当たらないといった具合で、何か意図の介入する隙すらも無かった。

 吊り革は男をまっすぐに空へと引っ張り上げた。

 眩しすぎてぎらぎらする照明をくっつけた建物や、男と同じような人間がたくさんいる街は、むしろ男から離れていくように小さくなっていく。時刻は夜である。すーっ、と暗やみが男を取り巻いていくのは、野原に霜が降りていくみたいに静かであり、しかし寒さというものは無く、男は片手を吊り革に、片手をくたびれたかばんにかけたまま、そのままで高く高く引っ張られていく。

 気づけば、辺りには目に眩しい、けれど機械や照明よりはずっとおとなしい、青空が広がっていた。

 男は吊り革が無くなっている事に気づいた。もう引っ張られてはいない。足場もある。鉄のような灰色の、丸い足場。そして周りにはぐるりと一周、男を囲んで等間隔に並ぶ白い格子。上を見た。灰色の天井。

 鳥かごの中にいるようだ、と男は考えた。

 格子に手をかけて周りを見る。一面の青空。なぜ空だとわかるかといえば、あちこちにぽつり、ぽつりと白い雲が漂っているからである。

 ぽつぽつと存在するのは雲だけではない。白い鳥かごが、しん、と空に浮かんでいる。いくつもあって数えきれない。けれどみな色は白い。白い色というよりは、色づく事を忘れてしまったかのような、そんな白さの鳥かごが、男の入っている鳥かごの他にもたくさんある。音は何も無い。

 一体ここはどこなのだろうか。普通に地上から見上げていた空の続きではあるまい。天国だろうか地獄だろうか。男はこの場所を不思議に思ったが、来てしまった事への後悔などは感じていなかった。

 自分の身体やかばんに何も変化が無い事を確認してから、男は一番近くの鳥かごを探した。それは容易に見つかった。

 宙を歩ければすぐにたどり着けるぐらいの距離。

 男とほぼ同じ高さに浮かぶ鳥かご。

 中に入っているのは、女の子だ。

「おーい」

 声は青空に吸い取られてしまうようだった。少し気味が悪くなるほど、響かない。しかし近くの鳥かごまでは届いたらしい。

「こんにちは」

 女の子の声が聞こえた。白い紙に白い絵の具で描いたような、耳にまでは届いてくるけれど存在感の無い声である。男はまた呼びかけた。

「ここはどこなのか、わかる?」

「私も知らない」

「君の名前は?」

「よく覚えてない」

 確かな情報は何も手に入らなかった。

 女の子は男と同じように、鳥かごの端まで近づいてきて、格子の隙間からこちらへ顔をのぞかせた。

 女の子は本当に女の子だった。長い髪をしている。女の子だと男が思ったのはそのためだったのだ。

 そして、女の子の鳥かごの奥には、何か赤くてつやつやした物が見えた。

「奥にあるのって、ランドセルだよね?」

 女の子は黙ってうなずいた。

「おじさんは誰?」

「よくわからない。ただのおじさんだよ」

 男は自分の事をとても良く覚えている。けれど自分の服装を見てもらえば、働いている大人の男だとわかるだろうし、他の事柄、名前や出身や好きな食べ物などは、さして意味の無いものに思えたので、言わずにおいた。女の子も同じ事を思っていたのかもしれない。

 小さな雲が、二つの鳥かごの間をふうわりと通り抜けたので、その間はずっと、二人とも言葉を喋らずに待っていた。

「前の人も、おじさんだったんだよ」

 女の子がそう言った。

「前の人って?」

「前に、おじさんの鳥かごにいた人。おじさんが来る少し前に、いなくなったんだけど」

 女の子が言うには、男の前にも、この鳥かごには誰かが入っていたらしい。入れ替わりなのか、と男は考えて、こう言った。

「おじさんは、吊り革に引っ張られてここに来たんだ。君もそうなの?」

「そうだよ。ずっとずっと前に来たんだよ」

 女の子は忙しく口を動かして喋り続ける。餌を欲しがる小鳥のようだ。

「学校から出たら、吊り革があったの。それでずーっと上っていったら、ここにいた。それからずっとここにいるよ。だからおじさんの前の前の人も知ってる、おじいさんだったよ。おじいさんの前は私と同じぐらいの男の子だった。それより前もずっとずっと」

 男は、女の子がそんなに長くここにいる事に驚いた。ここへ来て初めての驚きだった。一人でいて寂しくないのかと男は思ったが、きっとこの女の子は、どんな人にもこんにちはと声をかけて、白い声で喋り続けていたのだろう。

 女の子が口を閉じた。大きな雲が、二人の鳥かごの底をかすめて飛んだので、まるで鳥かごの間に雲の架け橋が出来たようになった。しかし鳥かごの格子に出られそうなところは無い。橋は通り過ぎてしまった。空はいつまでも青空である。

「ここは夜にはなるのか?」

「見た事無い。眠くなったら寝るけど」

 男は寝てみようかと思った。けれど眠くは無かった。疲れていたのに、疲れているような気がしない。女の子と話したからだろうか、と考えて、それは変態じゃないかと少し焦った。

 男は元いた場所、あの暗くて眩しい街にまた戻りたいかと言われれば、どちらでも構わない気がした。けれど聞いておくだけ聞いておこうと思った。

「どうしたら元の場所に戻れるんだろうか?」

「わからない。でも、戻れるような気がする」

「戻りたいって思う?」

 その質問は、女の子にとって少し残酷なものだったのかもしれない。男がそう思ったのは言ってしまった後である。けれど女の子は、まったく迷うそぶりもなく答えた。

「うん。お母さんに会いたい。嫌だったけど学校にも行きたいよ。だってずっとここにいるもの」

 女の子の声が、少しだけ色づいて聞こえた。

 女の子の鳥かごは長い間、あの女の子だけを抱え続けている。男の鳥かごは、人が入れ替わっていくのに。

 吊り革をつかむ人がいないからだろうか。空から下がる吊り革を、誰も気づかずに通り過ぎてしまうからだろうか。赤いランドセルを背負った子ども達は、遊ぶのに夢中で、吊り革なんか目に入らない。だから女の子はいつまでもあの鳥かごの中で、背中を丸くして、ランドセルと一緒に座っている。

 つまり吊り革を誰かがつかめばいい。

 男は、その誰かが、自分であったら良かったのにと思った。こちらの鳥かごに出てしまったのは、延長線を遠くたどり過ぎたせいで、女の子の鳥かごへ続くルートを行き過ぎてしまった気がした。上手くやれば自分が代わってあげられただろうに、男はこちらの鳥かごに居る。

 初めて、男はここへ来た事を後悔した。

 その時ふっと重力が消えた。

 男は青空に浮いていた。男を守る鳥かごは存在していない、完全に放り出された男は手足を動かす事もできない。飛び方を知らない若い鳥でも、もう少し飛ぼうともがくものだろうが、男は別に飛ぶ必要など無かったので、人間らしく青空の中を落ちていく事を選んだ。

 夜の街に男は立っていた。

 眩しさはいっそう眩しくなって、目に突き刺さるような激しさだ。行きかう人間の数がとても多くて、男は足元に落ちていたかばんを拾うと、邪魔にならない場所へと走った。腕時計の針は、吊り革をつかんだ時よりずっと進んでいる。

 男が上を見上げると、べったりと黒い夜空が広がっていて、白い声がよく目立ちそうだと思った。

 女の子へと続く吊り革はどこだろうかと男は考えて、それからずっと吊り革を探しながら歩いたけれど、蜘蛛の糸のように空からすっと下がる吊り革は見つからない。仕方なく電車の吊り革をつかんで帰った。

 それから男は吊り革を探し続けた。男にとってお休みの日であっても、家にいるという選択肢は考えもつかず、吊り革を見つけなくてはいけないという、それだけのために家を出た。しかし、あれ以来吊り革はさっぱり見つからず、夜の街は眩しいままだ。

 だが、ある朝、あの青空のような綺麗な快晴の朝。

 男が玄関を出ると、すうっと一本の線が空を横切っていた。

 飛行機雲にしては一直線すぎる。それは吊り革であった。

 男は吊り革の下がっている場所へと急いだ。あの女の子の白い声を思い出しながら走った。途中で吊り革は消えてしまっていた。

 男が建物の角を曲がり、吊り革の下がっていた真下辺りにたどり着いた時、そこに女の子の姿は無かった。

 ただ、まるで狭い場所に詰め込まれていたかのように、背中の曲がった小さな老婆が、くるりと男を一度振り返り、そのままどこかへと歩いて行った。

 残されたのは、男の目に眩しい赤色のランドセルである。


 〈終〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鳥かご行き 空飛ぶ魚 @Soratobu_fish

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る