第34話 意味のある人生

 どうにも作業に没頭できず、ナタニアは、日が暮れる頃から自宅の前で待っていた。だから、ズィービッシュの姿を認めた時には、思わず駆け出していた。


「兄さんっ」


 ナタニアは、兄に抱きついた。ズィービッシュは汗と埃にまみれていたが、そんなことはどうでもよかった。


「悪かったな。でも、もう終わった。ディビドはもう安全だ」


 ズィービッシュは、ナタニアの頭を優しく撫でた。

 ズィービッシュがいなくなってから、ナタニアの身体に巣食っていた不安が溶けていく。


「皆さん。ありがとうございました」


 ズィービッシュに抱擁されながら、ナタニアは光来たちに礼を言った。

 光来は微笑んだが、その笑みは弱々しかった。

 ナタニアは、遅まきながらみんなの様子がおかしいことに気付いた。


「……どうかしたの?」


 ナタニアはズィービッシュの顔を見上げた。


「ああ。ちょっとな。中に入ってゆっくり話そう。その前に、身体を洗わせてくれ。腹も減った」

「あっ、ワタシったら気がつかないで。みなさんも。入って休んでください」


 ナタニアの声には、少しだけ戸惑いが混じっているが、それでも嬉しそうだった。



 ナタニアが用意した食事に、光来たちはほとんど手を付けなかった。ズィービッシュだけが、狼のように貪り食い、遺跡で起こった出来事をナタニアに語って聞かせた。


「そんな……。それじゃ、『黄昏に沈んだ街』は天災なんかじゃなく……」

「中庭の荒れ果てた様子を見て、街のお偉いさんは『黄昏に沈んだ街』の再来だと思い込んでしまった。そこをタバサに利用された。あれは、タバサの仕業だ。あいつは喰い止める手段を探していたんじゃない。『黄昏に沈んだ街』の、真の効果を発揮できる手段を探していたんだ」


 食後のコーヒーを啜り、ズィービッシュは、カップを乱暴にテーブルに置いた。


「おまえら、覚悟はできているのか?」


 テーブルを囲んでいる光来たちが、ズィービッシュに目をやった。


「リム。おまえは何年もグニーエを探し回って、あと一歩までのところまで来たと思っているだろうが、それは違う。あいつの方から接触してきたんだ」


 リムの身体がぴくりと動いた。


「しかも、目的はリムじゃない。おまえの方だ。キーラ」

「……俺?」

「言ってただろう。おまえ抜きでは先には進めないって。おまえ、タバサとどんな因縁があるんだ?」


 捲し立てられるように問われ、光来は焦ってしまった。しかし、因縁と言われても、まったく心当たりがない。


「知らない。何度も言うけど、俺はグニーエにもタバサにも会ったこともなかった。あいつらが俺のことを知っているなんて、あり得ないんだ」

「なぜ、断言できる?」


 ズィービッシュの詰め寄りに、光来はぐっと詰まってしまった。それを説明するには、どうしても、自分が異世界からやってきたことに言及しなければならない。シオンが示した拒否反応を思うと、これ以上、迂闊に真実を話すのに抵抗を覚えた。

 黙り込む光来を、ズィービッシュはじっと見つめる。


「タバサが、おまえたちの前に姿を現したのは、こそこそ逃げ回る必要がなくなったからだ。つまり、『黄昏に沈んだ街』を発動させる準備が整ったんだ」


 ナタニアが両手で口を覆った。


「もしかしたら、タバサが地図や手帳を残していったのも、意図してやったのかも知れない。のこのこ行くのは、阿呆のすることだ。狐がトラバサミに足を突っ込むようなもんだぞ。身動きが取れなくなる」


 ズィービッシュの言うことは、いちいち的を射ていた。しかし……。

 リムも、ズィービッシュに負けない勢いでカップを乱暴に置いた。ナタニアの身体がビクッと跳ねた。


「分かってる。けど、罠だと分かっていても、ワタシたちは行かざるを得ない。タバサもそれを知ってるから、あんなにベラベラ手の内を明かしたんだわ」

「どうしても行くのか?」

「行く。グニーエは死ぬべき存在よ。邪魔するなら、タバサも殺す」


 二人は睨み合った。先に目を逸らしたのは、ズィービッシュだ。


「……おまえらは、どうなんだ」


 シオンはコーヒーを一口飲んだ。


「タバサは、魔法の実験を行っていた……。それがどんな魔法なのかは知らないけど、もし失敗したら、また『黄昏に沈んだ街』規模の災厄が起きてしまう。誰かが止めなくてはならない」


 静かだが、揺るぎない意思を込めた言葉だ。シオンも、中庭の光景に戦慄を覚えたに違いない。


「キーラは? さっきも言ったが、タバサの狙いはおまえだぞ」

「…………」


 光来は、慎重に言葉を選んだ。


「リム。君の言ったことは本当だった。あり得ないことだけど、俺とグニーエの間には、なにか因果関係があるらしい。……ひょっとしたら、グニーエが俺を呼んだのかも……」

「……キーラ」

「行くよ。これまでは半信半疑で旅を続けてきたけど、今は確信している。グニーエ・ハルトが、俺の旅の終点だ」


 光来の発言は沈黙を運んだ。迂闊に物音を立てるのも憚られる、濃密な沈黙だった。

 被せられたシーツを引き裂くような強引さで、ズィービッシュが宣言した。


「俺も行くぜ」

「兄さん?」


 テーブルを囲む全員が驚いたが、特にナタニアの驚きぶりは輪を掛けていた。


「なに言ってるの? せっかく帰ってこられたのに」

「聞いていただろ。また、得体の知れない魔法で、災害が引き起こされるかも知れないんだ」

「だからって、兄さんが行く必要なんて……」

「駄目よ」


 言い争う兄妹の間に、リムの声が薪を割る斧のように食い込んだ。


「ズィービッシュ。あなたは魔法の知識も技術もない。付いてこられても、足手まといにしかならない」


 正論を言われ、ズィービッシュはぐっと詰まった。


「……でもよ、仲間は多い方がいいだろ。遺跡でも、俺の機転で助かったんだし……」

「あんなのは、ただ運がよかっただけ。勢いや幸運に頼って勝てる相手じゃない」


 徹底的に論破され、ズィービッシュは黙るしかなかった。しかし、このままなにもしないという選択肢も、またあり得なかった。


「リム……。おまえ、この世に何種類の色が存在しているか知ってるか?」

「……なんの話?」


 ズィービッシュは、カップの受け皿の縁を指先で突いた。鮮やかな青で着色された花の模様が描かれている。


「この青ひとつにしたって、何十種類、何百種類とあるんだ。絵の具を渡されて、誰も見たことのない青を作り出せと言われて、そんなことできるか?」

「だから、いきなりなんの話をしてるの?」

「自然は奇跡の宝庫だ。想像もできないいくつもの色が散りばめられ、摩訶不思議な造形にあふれている。どんな偉大な芸術家だって、自然の前では凡俗の徒に過ぎない。自然には絶対に勝てないんだ。だから、俺は受け入れた。これはどうしょうもない運命だったんだと」

「兄さん……」

「でも、違うんだろ? あれは、『黄昏に沈んだ街』は、グニーエとかいう奴が、魔法で引き起こしたもんなんだろ?」

「…………」

「あれが人の手によるものなら、運命でもなんでもない。ただのとばっちりだ。俺とこいつの両親は、巻き添えで死んだことになる。許せるわけがない」


 今度は、リムが言葉に詰まってしまった。シオンの時と同じだ。、『黄昏に沈んだ街』に巻き込まれた者の無念、そして残された者の悲しみが分かってしまうから、なにも言えなくなる。

 リムは、シオンをちらっと見た。彼女も同じ境遇だ。俯いたままで、賛成も反対もしなかった。

 リムは考えた。理屈では分かっても、感情で割り切れないことがあるのは重々承知している。しかし、それでも危険な旅に引き込むのには抵抗があった。


「……死ぬかもしれない」


 リムの不吉な言葉に、ズィービッシュよりナタニアの顔が青ざめた。


「今日のあいつらの攻撃を経験したでしょう。魔法での殺人は禁忌とされているのに、やつらは破るのを厭わずに仕掛けてきた。せっかく帰ってきたんだから、このままナタニアと平凡な生活に……」


 リムは、言い掛けた言葉を止めた。それは、中庭でタバサがリムに浴びせた言葉と同じだったからだ。


「兄さん……」


 ナタニアが、ズィービッシュの手に自らの手を重ねた。

 ズィービッシュは、拳を固く握った。


「……俺は、あの日から、ずっと後悔していた。両親と喧嘩して家を飛び出し、そのまま永遠の別れになってしまった。これは罰だ。俺に贖罪するチャンスをくれ」


 ナタニアは、ズィービッシュの拳を握った。涙がこぼれてきた。いつも陽気に振舞っていた兄が、こんなに深い苦しみを抱いていたことに気付けなかった。


「後悔を抱えたまま生きてても、それは俺の人生じゃない。ただ罰を受けるだけの時間に過ぎない。それは、生きているとは言えない。ただ死んでいないだけだ」


 ズィービッシュの訴えは、リムの心を締め付けた。

 自分の人生ではない……。彼女自身、常に囚われている思いだ。グニーエを倒して、初めて自分の人生が始まる。復讐を果たしたところで、死者が生き返るわけではない。突き詰めてしまえば、自分を納得させるための行為に過ぎない。

 シオンにしても同様だ。祖父との生活を引き離してまで、旅に参加した。納得が欲しいからだ。この先、過去を振り返らずに生きていけるだけの納得が。真に意味のある目的を有しているのは、自分の世界に帰る方法を探しているキーラただ一人だ。


「……条件がある」

「リム?」


 リムの、拒む態度に微妙な変化が生じたのを、光来は感じ取った。


「旅をしている間は、ワタシの指示に従うこと。あと、戦いになったらすぐに逃げて、決して手を出さないこと」

「なにもするなってことじゃないか」

「違う。なにがなんでも生きて帰るってことよ」


 ズィービッシュは、「うーっ」と唸ってから、静かに頭を垂れた。


「……わかったよ」

「兄さん……」


 ナタニアは崩れそうになるくらい不安がっている。人が己の意思で決めた心を変えることは難しい。それが血を分けた兄妹であってもだ。

 しかし、ズィービッシュには希望がある。リムのように煮えたぎる復讐心ではなく、生きる意味を求める積極的な動機が。リムは、それに賭けた。


「でも、危険なことに変わりはない。今夜一晩考えて、じっくり決めなさい」

「ああ。分かった。ナタニアと、納得いくまで話し合ってみる」


 ズィービッシュは、自分の手に乗せられているナタニアの手を固く握った。

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