第16話 兄妹
そのまま、ナタニアの家に泊まらせてもらうことになった。夕食を取り損ね、睡眠を途中で妨げられた光来にとっては、この上なくありがたかった。
「簡単なものしか用意できないけど……」
ナタニアが出してくれたものは紅茶とクッキーで、夕食というより間食といった内容だったが、とても美味しかった。そして、温かかった。身に染みる優しい味だ。
美味しくはあったが、表で人々が走り抜ける足音や囁き声が聞こえる。その度に、光来は落ち着かなく視線をさまよわせた。
「誰も、このアトリエに潜んでるなんて考えないよ。もっと落ち着きなさい」
リムは紅茶を一口含んだ。
「それは、そうだけど……」
この状況で、絶対安全と言い切れる根拠はなにもない。落ち着けと言われて、その通りできたら苦労はない。
しばらくは無言のお茶会が続いた。徐々に騒がしさも鳴りを潜め、先程の逃走劇が夢のように遠ざかる。
「兄妹二人でアトリエを切り盛りするなんて、大変じゃないか」
光来は、何気なく口を開いた。食事中に交わされる、ごく普通の会話のつもりだった。
「両親が、早くに亡くなったから……」
「あ……、ごめん。余計なこと言って……」
「ううん。もう昔のことだから」
「事故?」
「事故? うん。事故……なのかな。カトリッジで起きた『黄昏に沈んだ街』に巻き込まれて……」
光来は息を呑んだ。リムとシオンも動きを止めた。
「黄昏に沈んだ街……?」
「うん。知ってるかな? もう十年ほど前に起こったことなんだけど、街がひとつなくなちゃった大災害」
「ああ……。話には聞いてる」
リム、シオンに続いて、またもや『黄昏に沈んだ街』に関わりのある少女と出会った。これは偶然なのか? それとも、リムが先日口にした『決着に続く風』の一環なのか。
「未だに原因が解明されていないんだけど……凄かった。あの光景は、一生忘れない」
リムの表情に影が差す。シオンも同様だ。
『黄昏に沈んだ街』。それは光来には心を刺す針で、リムとシオンにとっては胸を貫く槍だ。光来たちが、その元凶を招いたと考えられるグニーエ・ハルトを追い掛けていると知ったら、ナタニアはどのような反応を示すのだろう。
「それは……、大変だったね」
こういった場合、月並みな慰めの言葉しか浮かばない。だが、それでいい。余計な言葉を重ねたところで、心に負った傷は本人にしか癒せない。
「……でも、兄がいたから、なんとかやってこられたの。大変だったというなら、兄の方がずっと苦労してきた」
身につまされる話なのだろう、感情を面に出さないシオンも曇り顔になっている。
「明日は、早くに出発する。街の人たちが、まだ眠ってるくらいの時間に」
湿っぽい会話を嫌ったリムが、強引に話題を変えた。
「ナタニア」
「は、はい」
「ナタニア。あなたのお兄さんは必ず見つける。けど、ワタシたちにもやらなきゃならないことがある。連れて帰るとこまでは保証できないわ」
「……兄が無事だと分かれば、安心できます」
「自分の意志で帰らないって点が、腑に落ちない……」
シオンが独り言のように呟いた。
それは、光来も考えていた。この街の住人同様、ズィービッシュも秘密を抱えているのだろうか。妹にも言えない秘密を……。
光来は、少しぬるくなった紅茶を一気に飲み干した。
引き出しから彫刻刀を取り出し、ナタニアは製作途中の胸像に向かった。
納期まで、まだ余裕がある仕事だったが、ズィービッシュが出て行ってからは、寝る前に少し作業するのが癖になっている。
最近になって身についてしまった習慣。不安で高まった神経を、そのまま作業にぶつけないと眠れないからだと、ナタニア自身は分析している。
大まかな形にしか彫っておらず、いつも通りなら、まだズィービッシュの手を離れる段階ではない。しかし、こんな時なら構わないだろう。自分の腕も日に日に上達しているという自負もある。
先程のリムの言葉に、過剰に反応してしまったことを反省した。
石を彫り、そこから新しいものを産み出す。自分にとっては、毎日食事を取るのと同じくらい当たり前の行為だ。彫刻家が彫らなくなったら、もう彫刻家とは呼ばない。
「…………」
心血を注いで作業を進め、創作意欲以外の感情をすべて置き去りにする。
彫る。彫る。ひたすら彫る。
ナタニアの集中力が最高潮に高まった時、背後で微かに人の気配がした。神経を研ぎ澄ませているからこそ、ほんの僅かな空気の動きも捉えることができた。
手を止め、振り向くと扉の横に光来が立っていた。
「ごめん。集中してたから、声を掛けられなくて……」
作業を中断させてしまったことが、申し訳なさそうだ。少し気弱そうで、黒髪に黒い瞳を持つ少年に、ナタニアは改めて興味を持った。
「いいの。ちょうど一休みしようと思ってたから」
気遣って付いた嘘だったが、一息入れて、お茶を飲むのも悪くないと思った。
「眠れないの?」
厨房に入り、湯を沸かしながら訊いた。
「うん。宿屋で少し寝たから」
光来は、お茶を淹れてくれるのを察し、「いい?」と断ってから、椅子に腰掛けた。おそらく、ズィービッシュが使っている椅子だ。
「どうぞ」
ナタニアは両手にカップを持ち戻ってきて、片方を光来に渡した。
「ありがとう」
光来は微笑んで受け取った。
頼りなさげだが、魅力的と言えなくもない笑顔だなと、ナタニアは思った。
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