第4話 集合
1
巧と潤子は柘植准教授に最初のレポートを提出してからも、追跡調査を続けていた。相変わらず巧は潤子に尻を叩かれながら、事件や事故、幽霊騒ぎに聞き耳を立てていた。夜には天気が崩れると出かけの天気予報が解説していたが、公園を歩き回っているうちに体は暖かくなってきた。そのおかげなのか、強張った表情から暖かい笑みに変わり、公園の奥まった場所にいたホームレスの一人が答えてくれた。彼はオジと呼ばれた仲間のことを話し、年末の暖かい夜にいなくなったと気にかけていた。
なぜそんなにオジのことを気にかけるのか、潤子は段ボールの小屋の前で腰をかがめ聞いた。
2カ月前浮浪者狩りの騒ぎがあった。一番狙われたのが彼だ。それ以前も、何かあると割を食うのがオジで、そのおかげで仲間に被害はない。厄災を引き付ける力があるように見えるのだ。だからと言って大怪我をするわけでもなく、少しの間痛そうな仕草をするが、いつの間に、かれらからすれば普通の億劫そうな態度に戻るのだ。
つい2~3日前も襲われた。かなり手ひどく痛めつけられた。ところが、オジは襲ってきた男たちに罵声を浴びせかけると、遁走したという。男たちは暗い公園の中を逃げ回るオジに翻弄され、池に落ちたり銅像の下敷きで大怪我をしたりと、散々な目にあったそうだ。その上で、騒ぎを聞きつけた警備員に捕らえられ、そのまま交番に突き出されたとうわさで聞いた。それ以来、オジの姿が消えたのだという。
そいえば、ネットニュースでそんな記事があったことを潤子は思い出した。ホームレスの男性が腹を刺され入院したが、そのまま消えてしまった。動くことも歩くこともできるはずはない、医師はそう断言した。病院に担ぎ込まれた時には意識不明で心臓も止まっていたのだ。
潤子が話を聞き終えて腰を伸ばした。少し前に巧の携帯にかかってきた電話は終わらなかった。会話の間に小声で耳打ちしてくる。名刺交換をしたK出版社の足立から、集合がかかったという。
ホームレスの男に頭を下げて礼を言ってから、巧を従え歩き始めた。
「どうして柘植先生じゃないの」
いきなり立ち止まり、巧はしまいかけた携帯をお手玉しかけた。
「言おうとしたら、君が歩き始めたんだろう」
巧の反論は彼女の鮮やかに笑顔で帳消しにされた。いつも持ち歩くトートバックをヒョイと肩に掛け、巧の腕を抱える。
「それで、足立さん、何ていったの」
「少し面倒なことが起きたみたい。僕らこのままホテルに泊まれって」
「いやーん、襲われたらどうしょう」
「あの、真面目な話なんですけど」
巧は困った声で改めて携帯をしまった。
「ホテルは予約してあるから、チェックインしろって。それと、調べたデータやレポートは足立さんに送るように」
再び潤子が最後まで聞かないで巧の腕を引いた。考え込むようにうつむきながら先を急ぐ。この女はどうして勝手に先に行くんだ。巧は口の中で愚痴を吐いてから、嫌な空気を嗅いだ。
潤子の引っ張る力が強くなった。公園を抜け、大通りを渡り、有名な百貨店の一階を抜けて裏通りに出る。人通りのない細い路地から、目の前を走るバスに追いつき、バス停まで走って乗り込む。
「兄ちゃんたち、映画みたいだね」
乗り込んだバスの先頭に立っていたランドセルを背負った小学生の男の子が冷やかす。生言ってんじゃないの、潤子がたしなめ、巧はウインクで応えて、乗り込む。冬枯れの街に黒く重そうな雲が増えてきた。不安な気持ちが治まらない。そういえば、腕をつかむ潤子はかすかにふるえていた。
「嫌な感じがするの、切羽詰まった焦燥感」
「次で降りて、指示されたホテルに向かおう。K出版社と足立さんの名前を出せばチェックインできるって」
潤子に耳元でささやき、降車ボタンを押した。
携帯は使わず、忘れられたかのように階段脇に置いてある赤電話で巧への連絡を終えた足立は、雑誌製作専用パソコンの電源を落とした。もう一台の会社支給パソコンは、自動消去メールサービスの名前の通り、十数秒前に届いた柘植准教授からのメールは消えていた。慎重なのはいいけど、とばっちりは受けたくないわね。
荒川は昼頃出社してから、外に出ていった。夕食の待ち合せの約束だが、キャンセルになりそうだ。出かけに、永田町あたりで取り沙汰されているスキャンダルについて、話を聞くことができそうだ、と耳打ちしてくれた。思いがけないネタなのだそうだ。
しかたない、これから学生たちの世話に出向くことになった。
私用のノートパソコンやお泊りセットが入っているポーチや何やらをピンクのナップザックに放り込み、コーヒーカップに残っていた紅茶を飲みほした。
カップから唇を離したその先に、制服を着た警察官の姿がみえた。一人かなと見ていたら、3人の警察官に続いて強面の男たちが続いてきた。もう一つの入り口からも警察官の姿がある。そこそこ社員が顔をみせる時間帯なので、いきなり怒号が上がった。入口近くの打ち合わせ室にいた週刊誌の記者は飛び出すと同時にカメラを向け、気の荒いライター連中が奥の方から走ってくる。
足立が最初に考えたことは、荒川と柘植、どちらが爆弾だったのか、だ。とにかく、編集スタッフが反権力の一言で騒いでいるうちに、逃げ出す。足立は腰を沈めて、異様な騒動の中でも、普段と変わらない落ち着いた仕草で出入り口に向かう。普段使いの出入り口とは別の、匿名の情報提供者を案内する、非常階段と直接つながる打ち合わせ室に逃げ込む。
すみません、逃げます。足立を隠すように立っている部長に合掌をして、非常階段に抜け出る。表玄関はだめだろうけど、裏口よりはいいかな。一階のエレベーター脇のドアを抜けると、玄関先でも警備員と何人かの男たちが睨みあっている。会社の総務関係の顔見知りの課長が、大声でどなってる。
うちみたいに週刊誌を出している出版社は、お上の一言で物事が進むそこらの会社とは違う。反骨、反権力が身上の無頼の集まりがもともとの始まりだ。荒川の寝物語で聞いた武勇伝を思い出す。警察なりが勝手に侵入できるはずがない。ペンは剣より強し、いや剣以上の大砲だ。足立は会社の仲間達に誇りを覚た。いつもは無人の受付に、押しの強さでは社長並みというありがたくない異名を誇る社長秘書の美人が、腰に手をあててあたりを睨みつけている。足立が小声で逃がして、とお辞儀をする。
彼女は声を出さずに「アップルパイよ」応えた。
秘書の美人と怒鳴り上げる課長の隙をついて、足立は玄関を駆け抜け、ビルの前にたむろする野次馬の中に溶け込んだ。小柄で多少太めの姿は人々の中に消え、誰も気が付かなった。
夕食は外に出かけることにした。
ランランとは呼ばず近藤玲子さん、と坂本が呼ぶと近藤さんとは言いずらいし、玲子よりはレイ、でいいよ。高校時代は友達がレイとしか呼ばなかった、彼女は明るい声で笑う。カーゴパンツとワークシャツの上に坂本が大事にしているパーカーを着た。
玲子は化粧せずに外に出かけるつもりのようだった。坂本は写真を撮られるときのモデルたちの化粧にかける鬼気迫る表情を知っていたから、玲子がほとんど気にせずに、坂本のスニーカーに足をつっかけた時には多少慌てた。近場のファミリーレストランだから、確かにすっぴんでも気にならないのかも知れないが。ドアを閉め、外階段を下りながら、編集部の足立に連絡を取ろうと考えた。数少ない気心の知れた女友達で、一番あてにできるのが彼女だ。
階段を降りると、携帯が震えた。公衆電和という表示があった。
「坂本さん? 私よ。返事はいいからよく聞いて。トラブル発生、いつも使う例のホテル、あなたの別名で予約してあるからそこに行って。杞憂でなければいいんだけど、荒川とあたしの携帯からの連絡は無視よ、必要なら公衆電話からする。OK?」
足立が一気に話し、切れた。このところ、ヤクザや公安、警察官の不祥事の取材や芸能界の特ダネなどないから、シェルターに逃げ込むほどの危険はないはずだが。しかし、足立からの連絡を拒否するほどの度胸もない。玲子はどうする、放り投げる選択肢はない。
坂本は一歩先を歩く玲子に近づき行き先が変わったと伝えた。
「背景がよくわからないんだが、このままシェルターに駆け込むことになった。君を置いていけないし、取り合えずついてきてくれ」
エーッ、玲子が驚いたような顔を向ける。
「お腹すいてたんだよ」
「俺だって意味が分からん。だけど、食い物とベッドだけは心配せずに済む」
タフガイ気取ってんじゃないよ、玲子が毒舌とともに表通りに抜け出た。
角を曲がった先に、信号が赤から青に変わり、どこかで急ブレーキの音がする。いつものパターンで切り替わる信号機が、いま確かにパターンを崩した動きだ。坂本は慌てて横断舗道を横切り、レイとともにこの先の地下鉄に向かった。遠くでパトカーのサイレンが聞こえ、心臓がドキッとする。
ひょっとして、俺が彼女に選ばれた? 誰かの手引きでこの娘のナイトになった?
レイが坂本の手を握っていた。その手は氷のように冷たく震えていた。
2
「オジでいいよ。最近はその名前に慣れているから」
男は首を窓の外に向けたまま、抑揚のない声で首を振った。こざっぱりした服装で髪は散髪直後のように鋭く尖り顔色はよくない。ピザのLサイズを半分胃袋に納め、暖かい紅茶にはちみつを入れ、3杯目でトイレに駆け込み、また紅茶を要求した。
「何かの儀式でもしているのかな」
荒川はオジに聞く。
「自分の肉体じゃないような気分なんだ。だから、少し痛めつけて実感を味わっている」
小ぶりのダイニングテーブル越しで向かい合うオジは、ネックレスをジャケットのポケットから取り出し、注意深くいじって、マイクロスィルムを人差し指の腹に乗せた。荒川が持ってきたマウントに貼り込み、天井の蛍光灯に透かした。細かい文字が見えるが、裸眼では読めない。
スキャナーで読み取り、原本は金庫で保管する。スキャナーで読み取ったデータは複数カ所で保存、紙に印刷もする。オジはそう荒川に指示した。ハッキングされ消去されても、どこかにデータは残る。
「あんたへのインタビューはこれから俺がする。かまわんだろう、昔の知り合いとして」
オジは皮肉な笑いを浮かべた。ネオン輝く街並みがかすれるように色合いを失っていく、モノクロの世界に引き込むような細い雨が降ってきた、見る間に雨はみぞれへ変容し、最後に白いものが空をおおった。
「あんたの突撃取材にかみさんがブチ切れ実家に逃げ帰ったのがきっかけかな。馬鹿の後始末に嫌気がさして、ふらりと高速に乗っちまった。車にはこれから運ぶ金が積んであったんだが、すっかり忘れていて、途中のパーキングで電話したら、相当脅されたよ。まあ、帳簿のコピーもあったし、退職金がわりに頂くことにした」
荒川の苦笑に、オジは相変わらず淡々と続けた。
「しかし、悪いことはできないもんだ。福島の実家に帰ると、地震と津波だ。車ごと流され、気が付けば両親は死んで、金も消えた。郡山にいた兄貴は俺が実家に戻っていたことを知っていたから、俺の骨を探しているらしいが、俺のかみさんは早々に死亡届をだして、保険金を手にしたらしい。俺はそのあたりの記憶がないんだ。あとは流されるままで、すっかり忘れていたんだ」
「本当に忘れていたのですか? なぜ告白する気になったのです」
「放浪生活は何も考えず生きていただけさ、ところが見つかって少し痛めつけられたんだ」
オジは相変わらず、窓の外に視線をむけたままだ。いつの間にか、雪は本降りになっていた。
巧と潤子がホテルにつくと同時に細い雨が空から落ちてきた。チェックインカウンターでK出版社の足立の名前で予約を入れてあると伝えると、すぐに部屋のキーが出てきた。偽名を使うか迷っていた巧は肩の力を抜いて、イラストの案内のままエレベーターに乗る。
エレベーターに乗ると同時にぐったり体を預けてくるので、最後は引きずるようにして部屋のドアを開けソファー座らせた。国道が見下ろせる3階の部屋で、窓際にしっかりしたライティングデスク、コーヒーテーブルとソファーの奥にシングルベッドが並んでいる。潤子が深い息を吐く。ベッドに寝かせてもよかったが、そこまで気が回らなかった。
巧は潤子のトートバッグをライティングデスクの上に乗せ、自分のナップザックはソファーの横に降ろす。
「永井巧くんは紳士なんだ、少し奥手だけど」
張りが戻ってき声で、上着を億劫そうに腕から抜いた。巧は自分のマウンテンパーカーと潤子のダウンジャケットを納戸に納めてから、電気ポットに水を注いで、買ってきた紅茶のティーバッグを用意する。
「少し気分はよくなってきた?」
ペロッと舌を出し、小さく欠伸を漏らす。紅茶のいい香りが広がるまで黙って窓を見ていた巧が、ホテルにチェックインしたことを足立に連絡しなければと思い出した。携帯からのコールに「電源が入っていません」とのアナウンスが続いた。不信に思いながら、ライティングデスクの椅子に座り、熱い紅茶をすする。
「でも変ね、柘植先生から直接じゃないなんて」
「先生に電話したらまずいといわれたし、困ったな。俺、ホテル代なんてないぜ」
「何言ってんの、予約は足立さんだし、請求書はK出版社持ち。お腹すいたら、なに頼んだって平気よ」
「一安心か、それじゃあ落ち着いたら食事に行く?」
そうね、潤子は紅茶を飲み干した。さっきまでの脱力感と焦燥感が嘘のように消えた。冷え切っていた体にほんのり暖かい炎が灯り、くじけそうな無力感をきれいに取り払ってくれた。あんたは本当に初心で気恥ずかしくなるように純真だ。これだから男はガキなんだよ。
潤子の考えをたしなめるようなノックの音がドアから聞こえてきた。ビクッとした巧は潤子を見てから、ドアの前に立つ。再びのノックと「あたし、足立よ」と声がした。巧の開けたドアからスルリと貼り込んだ足立は、ほっとしたように潤子を見つめる。
「二人とも問題はなかった?」
肩からナップザックを降ろし、潤子のトートバッグは脇に寄せられノートパソコンをライティングデスクの上に設置した。LANコードと電源コードをノートPCに繋げると、メールソフトを立ち上げる。
「質問は後、とにかく連絡とらないとね」
足立はパソコンをいじりながら、巧に紅茶ちょうだい、と潤子みたいな人使いをする。
押し殺したようなドアのノックに、坂本雄介がゆっくりとドアを開ける。いつも元気な表情をしている足立が目の前で腰に手を当てて立っていた。斜め正面のドアが開いていて、そこから出てきたようだ。坂本は首を振って部屋に入るように合図をした。
永井たちの部屋と同じ間取りで、しかも彼らと同じように男女のペアだ。挨拶もしないうちに坂本が質問してくる。
「何が起きたか説明してくれないか」
「女連れなんて聞いてないわ、何考えているの」
足立の逆切れ的な口調で坂本が頭を掻いた。ベッドの上で胡坐をかいてい近藤玲子が冷やかしの目で足立を睨んでいた。坂本が借りてきた猫みたいに頭が上がらないのが少しムッとしたが、どうやら姉と弟みたいな力関係が見えてきて、レイはヒョイとベッドから飛びだした。
「トラブルは解決したの? 私はレイ、愛人なの彼の」
「見え透いた言い訳ね、社に警察が来たけどどうやら荒川絡みの件みたいなの。これから確認してみる。柘植先生は公安らしい、あんまり当てにならないけどしばらく我慢して。愛人なら、こいつの手綱を引いておいて」
足立がまくしたてる。坂本は首を傾げて柘植先生? と聞いてくる。アッ、そうか。足立はちょっと考えてから、説明を始めた。
事の起こりは、坂本がスクープした写真だった。足立の目に見えるモヤから始まり、荒川が大学時代の友人で物理学が専門の柘植准教授に相談したこと、異常現象が起きているその場所が国会や首相官邸、各国大使館があつまるこの一帯に集中していること、柘植准教授は当初電子パルス攻撃を想定していたこと。そのため、情報機関なんて小説の世界の対処も必要になると脅されたこと。だからこの調査に関係している関係者を守る為に準備していことの。柘植准教授に公安の刑事が訪ねてきたことで、警戒警報が発令されたこと。
足立はかなり詳しく説明し、自衛隊から睨まれる可能性も告白した。潤子や巧が調査した資料や柘植本人が調べたことは口を濁した。
「俺は関係者なのか」
坂本がふてぶてしい声でうなる。
「柘植先生はそう考えているの。彼のお弟子さんもきているわ、後で紹介する。その前に荒川のところに行ってくる。別の部屋取ってあるの」
「分かったが、明日の夜遊びは中止かな」
「とりあえずね。あと、嫌な予感するからすぐに動けるようにしておいて」
池上警部補が柘植准教授を調べるように命令されたのは10日前だった。新興宗教の関係者を捜査していたものの、こいつらはただの金目当てで暴力団の影がちらついた時点で一時中止を待つ状態だった。上からの指示は航空自衛隊の隊員に接触している大学教授の目的、ということだった。事前に調べた限り、思想的な問題はなかった。ところが尾行チームが動き出したほんの6日間でC国大使館や首相官邸のスタッフにまで接触していた。上司に口頭で報告した、ちょっと待て、と言われ1時間後にはお前一人で直接会って話を聞け、だ。署に引っ張るのではなく、会いに行けという。
池上は何の裏付けもない状態で柘植と会った。
「報告は誰にするんだい、相手を間違えるととんでもないことになるよ」
研究室を去るときは、意味深な忠告だ。ポケットに忍ばせた録音機は最初から最後までしっかり声を捉えていた。署に戻り口頭で報告する人物は一人で、他は知らない。どうする、何回目かの自問に答えは出ない。
柘植から聞いた説明は荒唐無稽すぎる。報告をしても信用されないだろう。
だが、俺には確信がある。
脳裏に浮かんだのは数年前の健康診断。幾つかの心理テストに違和感を覚え、問い質すと公安の候補に挙がったと告げられた。その時視覚障害を疑われたが、何かの間違いだと今の上司が強引に引っ張ってくれた。
柘植が説明したあれが、最初に接触した日時に、俺は新興宗教の教祖様と一夜を伴にする高校生との写真を撮っていた。その写真には妙な靄がかかっていることを知り、失敗かと落胆したが、上司はよく撮れているとほめた。紗がかかった写真のどこに標的が写っている? 俺は口を閉ざしていたが、違和感は膨れ上がった。上司が柘植と接触させたかったのは、ひよっとすると俺に理由があったのか。
校門で時間を潰すには寒すぎた。雨がポツリポツリと落ちて、すぐに雪に変わった。恨めしく見上げた視線の先に柘植先生が出てきた、キャメル色のビジネスバッグを抱えていたが、歩くスピードは速い。池上は影のように柘植の後についた。どこへ行くんだ、先生。
柘植は京王線で新宿乗り換え、中央線でお茶の水駅に出た。聖橋出口から明大通りを超えJAXA東京事務所が入るビルに入っていった。池上はどこまで尾行しようか迷い、ビルエントランスのエレーベータホールで柘植がエレベーターに乗ったのを確認した。そこで、やっと携帯電話を取り出し、先ほど着信した番号を見た。上司からだ。こんなことは初めてだ。
太い柱の元に近づき、上司に連絡を取る。電話の奥の方で騒がしい騒音がする。上司の荒い息と、ちょっと待て、と電話口を押さえたくぐもった音の中に怒号が重なった。
池上は視線を泳がせ、ここから見渡せる聖橋が雪のベールに覆われようとしている姿に目を止めた。
柘植准教授はトレンチコートを脱ぎ、ビジネスバッグとコートを目の前のテーブルに預けた。JAXAの研究職で柘植の頼みに応じた金沢学が、数人の同僚が集まる55インチモニターの前に引っ張っていく。
「先ほどレーダーが捉えた。非常に細長い構造物が出現したんだ。そしていま、縦回転を始めた」
「カメラはどうだ」 柘植が聞く。
「だめだ、見えない。お前の言う通り、人間の視覚では捉えられないんだ」
金沢が悲鳴のような声を上げる。
「大気圏に突入したら、広範囲に被害が出るぞ」
何人かの研究員がコンピューターに取りついたまま、観測データを記録している。スーツ姿の管理職らしい女性が携帯を耳に何か叫んでいる。「緊急事態なのよ」という声が漏れる。モニターに映る地球と細長い棒の大きさはアンバランスだ。コンピュータグラフィックスで遠近法は無視しているのだろう。
「柘植、あれはなんだ」 金沢が耳元で続けた。
「お前に頼まれてやったらこれだ。あの、巨大な構造物が大気圏をかすめるだけでも、衝撃波が起きるぞ」
「大丈夫のはずだ。あれは非同期軌道スカイフックだと思う」
柘植は断言し、モニターから目が離せない。
「1カ月前にも地上に接近したし、自衛隊の戦闘機がスクランブル掛けたが目視できず見失った。その時点で衝撃波は観測されていなかった」
「軌道エレベーターの一種だというのか」
自信がある、柘植は金沢の背を叩き、ざわつくモニタールームの中で薄笑いを浮かべた。偵察衛星と言われる情報収集衛星がとらえている高解像度の画像には日本列島が映し出されている。ここに、目に見えない巨大な構造物の先端が超高速でかすめる。フックのようなその構造物にひっかけられれば、エネルギーを使わずに地球脱出速度が得られる。
前回は地上から15キロメートルくらいまで下げてきた。今度はもっと低くくなるだろう。1万メートルを切るかもしれない。旅客機の高度だ。本当に実体はないのか。
「柘植先生、あれが報告のあった宇宙生物なのですか」
スーツ姿の女性が携帯電話を片手に、鋭い視線を向けてくる。首からIDカードをぶら下げている。顔写真入りの航空自衛隊の身分証が見えた。おやおや、柘植は小柄だが筋肉質の女性自衛官と金沢の顔を交互に見る。
「話した覚えはないんだが、俺はそう考えている」
おい、金沢が素っ頓狂に叫ぶ。
池上が警察手帳を見せて、警備員の制止を振り切ってモニタールームに入ってきた。最初に目に飛び込んだのは、壁一面に設置された何台もの液晶モニターだ。なんだこれは、池上は首を回して柘植の姿を追った。机とテーブルの島を抜け、長身の女と向き合っている柘植に向かって進んだ。
女と少し剣呑な雰囲気を漂わせながら、皮肉な顔を池上に向ける。声をかけようとした池上は柘植の後に見えるモニターに釘付けになった。明るい地球と巨大な精子を思わせるグレーの物体が見える。池上は映画で見た宇宙船を思い出した。
宇宙人があの宇宙船に乗って、地球に来た。
腰の辺りから震えが湧き上がってきた。
「おい、あれが宇宙船か」 池上の大声がその場を凍らせた。
池上の指さすモニターに視線を向けるが、そこには闇の中に浮かぶ日本列島を中央に押さえた気象衛星画像だ。光学レンズで撮影しているなんの加工もしていないライブ画像で、ごみや汚れは付いていない。錯覚で何か見えるようなものではない。
「池上さん、何を見つけた」
柘植が駆け寄る。
「あれだよ、精子みたいな形が向かってくる」
「池上さん、俺には何も見えない。あなたが見たものを絵に描いてくれ」
待て待て、俺はこいつを引っ張って来るように指示されたんだ。身柄を確保し、出迎えの政府役人に引き渡す。そういう命令だ。
それらはすっかり頭の中から抜け落ちた。
3
荒川が録音を止めると、室内の温度が一気に上がったように思えた。遮光カーテンで閉じられた窓からの眺めは、記憶の中にある成功体験とともにあったはずだが、もう感傷でしかない。オジが告発した内容は、十数年前の政治家のスキャンダルと金の流れ、暴力事件の顛末だった。オジの脅威的な記憶で日時のみならず当時の天気、気温まで覚えていた。その証拠となる肌身離さずに持っていたマイクロフィルムの帳簿には、金を受け取った者のサインまである。当時は議員秘書や新人議員も、今は党の中堅や重鎮に出世している。当時よりインパクトは大きい。
オジはここ数日で急に記憶がはっきりしてきたという。何でも人間の脳は出来事のすべてを記憶しているものの、記憶を引き出すための経路を見つけられなくて思い出せないのだという。だから、何かのきっかけで、例えば何かを見たり音楽を聴いたり、感情が高ぶったときに突然鮮明に思い出すことがある。オジは十数年前の取材相手の名前と電話番号を覚えていたおかげで、苦労もせず連絡が付いた、と。確かにマイクロフィルムの中身を聞いてもよどみなく答える。
「まるで思い出すことを強制されたような感覚なんだ。あの時、あんたが俺を取材したろう、政治関連の記者は結構年配の奴が来る。今のあんたのようなクラスだ。でも当時のあんたは学校でたてか、社会人2年生くらいだろう。どうして、俺に狙いをつけたのか気になったんだ。ついでを言えば、あんたの取材がきっかけで逃げ出したんだが、もし逃げ出さず金の配達をしていたら、確実に俺はどこかで自殺をしていたはずだ」
「どうしてそう言える」
荒川は煙草をくわえる。かすかな恐怖が浸み込んできた。
「たばこはやめてくれ、感覚が鈍る。話は戻って、あんたの取材がなかったら俺はどうしていたか。俺には自殺や逃げ出す理由はなかった。ボンクラ二世議員の親父に頼まれ秘書をやりながら、そいつの金玉を掴んで、今頃は肩で風切る新人議員になっていた、かもしれない。あの当時の俺は裏切る理由はなかった。あんたの出現が俺の未来を変えた。そこで聞きたいんだ、なぜ俺なんだ」
オジの声は平坦で何の感情も現れていない。変だ。荒川の内なる声が違和感を叫ぶ。
「おそらく、当時の編集長からの命令なんだろう。噂があるから取材してこい、あの時代は政界のスキャンダルをでっちあげて週刊誌の部数を伸ばしていた。その標的の一人が俺で、記者に取材を受けたという写真だけが必要だった。違うか」
オジはにやりとする。
「実際俺が消えたことで、結果オーライのスキャンダルが紙面を飾った。実態はかなり違っていたがね」
当時の編集長の顔が脳裏を横切る。高尚な理念は邪魔。言い訳が蝕む。売るためには事実を報道しない。疑念は晴れない、とうそぶく。悪魔の証明を叫ぶだけだと確信したのはいつだ。
酒が飲みたい、そう渇望した心に、控えめにドアをノックする音が重なる。
足立が顔を見せた。耳元で会社の騒動を説明する。携帯電話を切っていたので、連絡がつかなかったようだ。次に柘植准教授からの要請で荒川や巧たちを保護し、このホテルに案内したことまで話す。
警察がどうして? 荒川がオジに視線を向けると、彼は笑い顔を作った。今まで見た中で、最高の笑顔だ。あまりに無垢で引き込まれそうになる。足立は一瞬、荒川につられてオジをみつめた。
「さっきも説明したろう、ボンクラ二世議員に見つかって痛めつけられたって。正当防衛なんだろうな、俺としては殺されそうになったんだから」
「なにをした」
「何もした覚えはない。気が付くと議員が取り巻きと一緒に倒れていた。あまり気持ちのいいさまじゃないが、そうそう、その前にもガキどもの浮浪者狩りあったな」
オジの笑い顔が奇妙に歪む。息をのむ足立、椅子を蹴るようにして立ち上がった荒川から、メモを取るノートが床に落ちる。
「あそこらは防犯カメラがあるにはあるんだが、死角が多くてね。ボンクラ議員もカメラに映らないようにしていたようだが、俺は堂々とあんたに連絡を取った。公衆電話から、意外に早くあんたの所をみつけたもんだ」
「恨みを晴らすためか」
荒川が叫ぶ。
荒川の叫び声に廊下にいた坂本が部屋に飛び込んだ。対面の巧たちはドアを開けて様子をみていたが、坂本の突進をみて慌てて廊下へ駆け出した。荒川がいる部屋のドアが開かれ、言い争いが聞こえていたが、すぐに部屋へ入る勇気はなかった。レイが荒川に続いたせいで、巧は後ろから潤子に押された。
「俺は恨みなんてない。あんたが勝手に罪悪感を感じているだけなんだぜ」
オジの声は変わらなかった。椅子に座り窓の外へ視線を変える。
そこそこ広い部屋も、7人となると勝手が違う。荒川は足立を守るようにオジの前に立ち上がっいたが、幾つかの視線にさらされ、荒い息を少しずつ抑える。
どういうことだ、坂本の叱責に荒川がストンと腰を落とす。足立は床に落ちたメモや筆記類を拾いテーブルに戻す。そして、各々を紹介をした。顔を見合わせて、ぎごちなく挨拶をするのが巧で、潤子はそつなく笑みを浮かべ、坂本はそっけなく、レイは礼儀正しくぶりっ子を演出する。最後にオジでいいよ、と抑揚なく締めくくった。
「あら」 潤子が巧のわき腹を突く。
「さっき、公園でお仲間にあったわ。すごく心配していた」
オジの目が急に潤んだ。改めて潤子を見つけたように、ホッとした表情が浮かぶ。
「腹を刺され病院に連れていかれたって聞いたけど」
潤子の声は尻切れトンボになった。
「逃げ出したんだ、ケガはなかったし。それであんたに電話した。ボンクラどもはこの寒空に寒中水泳をして、死んだように浮いていた。これくらいは笑って許してくれ」
生の感情を含んだオジは、潤子にウインクを送る。荒川が肩の力を抜くと、オジに向かって深々と頭を下げた。握りしめた拳は震え、いつまでも止まらなかった。
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