第18話 罪人の友 イエスキリスト教会

 今から礼拝が始まるという。

 通常、教会の礼拝は午前十時半くらいであるが、なのに午後二時半から礼拝が始まるという。

 ひょっとしてキリスト教を名乗る異端かもしれない。

 れいは、好奇心半分で、原口と礼拝に参加することにした。


 カラオケ居酒屋の看板の隣に「罪人の友 主イエスキリスト教会」と明記されている。カウンターがあり、カラオケがあり、壁には焼酎のボトルが並べられている。

 しかし、庶民的な誰でも気楽に入れそうだ。


 そういえば、れいは小学校の頃、一度だけ教会のクリスマスに連れられて行ったことを思い出した。

 そのときの牧師の説教は、今でも鮮明に記憶に残っている。

「ある画家が、天使の絵を描きたいと思い、天使のようなモデルを探し、天使の絵を描いたら成功し、有名画家になった。

 それから二十年後、今度は悪魔の絵を描きたいと思い、モデルを探して描いたが、天使のモデルも悪魔のモデルも同一人物だった」

 やはり、人は変わるのだろうか。

 白い天使が、世間の垢に黒く染まって悪魔になるのだろうか。

 それとも、その人は単に容姿端麗だけであり、内心は悪魔的な要素を持つ人だったのだろうか。

 れいは、未だにわからないが多分その両方だろう。

 

 なんとその教会は築百三十年であり、文化財に指定されているという。

 一駅先には有名神社が存在しているのにも関わらず、キリスト教会は現在も存続中である。

 勿論、現在もその教会は存在しているが、周りにあった銭湯も四個百円のたこ焼き屋もなくなり、長屋も建売住宅に変わりつつある。

 しかし、そんな中でキリスト教会だけは昔と変わっていないのが、不思議な感さえする。


 野村牧師がれいに、駆け寄り「初めての方ですね。ようこそいらっしゃいました」

 れいはスイートハートで一度会ったので、初めましてというわけにはいかないが、軽く頭を下げた。

 十字架の刺繍の入った黒いガウンを着ていて、神秘的な感じが漂っている。

 原口と同質の穏やかな笑顔がよく似合う。

 この人が元アウトローかと疑うほど、明朗で優しい口調である。

 しかし待てよ。暴対法以来、いかつい顔をしたガラの悪いアウトローは、そう存在しない。

 最近のアウトローは大学卒だというが、野村牧師もそうなのだろうか?


 礼拝はまず、讃美歌から始まった。

 なんだか、若い人向けのニューミュージックにも似たテンポのよい讃美歌である。

 電子ピアノを弾いている女性の演奏に合わせ、子供連れの女性も、少々人相の悪い癖のありそうな人も、インテリっぽい女性も同様に、声を合わせて歌っている。

 同じようなタイプの人ばかりではなく、年齢も様々な人が、声を合わせて歌っている様子に、コント番組のような少々滑稽さが感じられたが、同時にいろんな人が神を讃えるという希望が感じられた。


 野村牧師の説教が始まった。

 野村牧師はなんと有名アウトロー組の武闘派に属し、若頭というナンバー3の地位だったという。

 麻薬の密売や詐欺が主な仕事だったというが、本人も麻薬中毒になり、刑務所に何度も服役したりしてるうちに、破門されたという。

 そういえば、学のない武闘派アウトローは使い捨て、利用するだけ利用して後は破門。利用するだけ利用して、後は破門。

 インテリ派は、法律を駆使して金儲けをしているのに比べ、武闘派は十年もすれば用無しだという。


 野村牧師が、アウトローになったきっかけは、やはり不良出身だったということだ。小学校のとき、担任教師からサッカーの授業のとき、捨て駒になれという言葉に傷つき、中学校はケンカ三昧。たばこ、シンナーになど不良一式体験済み。

 ようやく入学した高校も、一年の一学期、ケンカで相手の骨を折って即効退学。

 その頃流行っていたディスコに、入り浸っていたところ、アウトローの親分に親切にしてもらい、この親分に命を賭けようと思って、組織に入ったという。


 フウーッ れいは思わずため息をついた。

 なんだか、時折聞く元アウトローの身の上話。

 たいてい、家庭に恵まれないのが原因で学校ではいじめを受けたことが原因の場合が多い。

 しかし、野村牧師の場合は、その当時、住んでいた関東の地区は、離婚女性が多く、夜は水商売をしているので、子供を家に残していく。

 子供にできることは、母親の化粧品を買いにいくことと、夕方五時ごろ、水商売にでかける母親のドレスのジッパーをあげることだという。

   未練母

 夕方四時半 いつものように母のドレスのジッパーをあげた

 厚化粧をし 夜の女になった母親のドア越しに

 うしろ髪ひかれる母の背中が

 そのまま僕のじんましんとなる


 寂しさが絶望となり 絶望がワルへの憧れとなった僕は

 いつしか不良の仲間入りを果たしていた


 それからは、聖書の御言葉による説教である。

 タイトルは‘敵を愛せ。迫害する者のためにこそ祈れ’(ルカ)

 えっ、日本のことわざに‘人を呪わば穴二つ’ということわざがあるし、ドラマや映画も復讐劇が成功した試しはない。

 しかし、それがわかっていても、実行できないのが人間だ。

 昨今は、いい家庭の子が無差別殺人などをしでかす時代である。


 野村牧師は、昔は不良からアウトローになったわけだが、その間、いろんな人を憎んでいた。

 自分たちを一方的に悪者扱いする教師、対抗するケンカ相手、アウトローになってからもそれは同じだった、いや、それ以上だった。

 一応はナンバー3の若頭まで上り詰めたが、自分を裏切った子分、自分を陥れた先輩、この野郎と思う奴ばかりだった。

 同時に恨まれもしていた。刑務所に三回服役していたが、こいつとだけは、同室になりたくない、同じ空気を吸いたくないと思う奴ばかりだったという。


 不良もアウトローも敵だらけであるが、なめられるとおしまいである。

 しかし、キリストの愛を知ってからは、仕返しなどというのは、無意味であると気づいてからは、殴られそうになるとただただ一目散で逃げ出すことにした。

「復讐は私(神)のすることである。

 あなた(人間)は自分の手を汚してはならない」(聖書)


 キリストの愛は奪う愛ではなく、与える愛(アガペー)だという。

 たとえば、キリストを知る前は異性を見るとき、情欲をもって見ていたが、キリストを知ってからは、容姿とか年齢とかとは別に、若い女性であろうと老婆であろうと、その為に何をしてあげられるかを考えられるようになったという。


 人を憎むと憎んでいる自分が、先に精神的にやられてしまう。

 許した方がはるかにラクだと、野村牧師は語った。

 でも、残念ながら許すことができるのは神の力であって、人間の力ではないのだ


 人間の復讐心ほど、深く暗いものはない。

‘目には目を、歯には歯を’といった言葉があるが、これは目をやられたら目だけを、仕返ししてもよい。決して目以外のまゆげや鼻を傷つけてはならない。

 また歯をやられたら歯だけを仕返ししてもいいが、それ以上の唇やあごを傷つけてはならないといったユダヤ教の格言であり、過度の復讐を戒めるためのものであり、決して復讐を奨励しているのではないのだ。

 

 れいの理解した話はそれだけである。

 あとは、なんだか六法全書のような分厚い黒い聖書を渡されたが、れいには堅苦しいイメージだけでピンとこなかったが、どことなく神秘的なものが感じられた。

「さあ、最後の証しコーナーです。皆さん、お証しがあるなら遠慮なく。

 この教会はいわゆるソフトな教会で、どんな過去があろうと発言が許されるんですよ」

 野村牧師の発言に、待ってましたとばかり、ある中年男性が手を挙げた。

「隅田さん、どうぞ」

 隅田と呼ばれた男性は、つかつかと前に歩み出た。

 といっても、いかめしい教会の講壇ではなくて、後ろにはボトルが並べられてあるスナックのカラオケコーナーのマイクである。

 一応、十字架の刺繍の入った布がかけられてあるが、スナックの雰囲気は避けられない。

「皆さん、ここで告白しますがね、私、実は痴漢の冤罪をかけられたことがあるんです」

 そして、一冊の本を取り上げた。

「この本‘僕は痴漢じゃない’は、これは僕の自伝です」

 とたんに、隅田は顔を赤くして、過去を話し始めた。

 

 

 

 

 

 


 

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