第5話 れいの指名客
「おばちゃん、指名するわ。さあ、俺の横に座って」
れいを指名したのは、五十歳くらいの労務者風の男である。
「三分間のご指名、有難うございます」
れいは、笑顔で隣の席に腰かけた。
五十歳を少し過ぎたくらいの、運送会社のユニフォームを着たおおらかな笑顔のおじさんである。
でも、笑顔の目が細くて、感じのいい人だ。
「どこの運送会社に、お勤めですか?」
れいの方から、話題を振ってみた。
「はらいた、ふくつう(腹痛)福本通運だよ」
思わずれいは吹き出したが、男は目を細めてにこにこしてその様子を見ていた。
「あんたは、田舎あるの?」
「いや、私は生まれも育ちも都会育ち、ちなみに両親も同じ都会です」
「僕の田舎は長野県」
「そういえば、中学のときの修学旅行が信州でした。おみやげに蕎麦を買ったことを覚えています。あと、いなごが売っているのを見て、びっくりしました」
「あのー、スカートの裾の糸がほつれてるよ」
うつむくと、確かにスカートの裾から糸が見えている。
「ライターで焼いてあげるよ」
男は、ライターで伸びた糸を焼いてくれた。
「ありがとうございます。ああ、残念、三分間過ぎました。またご指名お待ちしています」
れいは、一礼して席を立った。
父親的なものを感じさせる、感じのいいお客さんだったな。
指名してくれる人が、あんな人だったら楽しいのになあ
れいは、中年男のもたらす余裕のような優しさを満喫していた。
いっけない。店長から、客を好きになるのはご法度と、ミーティングで言われていたばかりなのだ。
でも、れいは男の目を細めた余裕のある優しそうな笑顔をもう一度見たいと思っていた。多分、温かい家庭を築いていると確信できるが、好きといっても、恋ではなく、人間同士の愛じゃないか。
しかし、このとき芽生えた小さな恋心が、のちにれいの人生を左右することになるとは、そのときは想像もしていなかったことだった。
翌日も、昨日の福本通運の男は、れいを指名した。
「やあ、これ半分食べてくれないかな。美味しいんだけどね、お腹いっぱいなんだ」
そう言って差し出したのは、スイートハート特製とうふチーズケーキである。
新商品だが、低カロリーで大豆イソフラボンとレモンがチーズ風味で入っているので、豆腐独特の匂いが消え、安心して食べられる女性に最も人気の商品だ。
便秘解消の救世主と喜ぶ人もいる。
開店三時間で売り切れることもあり、テイクアウトは禁止している。
「お気持ちはありがたいんですが、今仕事中ですので」
れいは、丁寧に断った。
「仕事熱心だね。こういう人がいるから、客は安心して通えるんだね」
歯が浮くようなお世辞だとわかっていても、やはり嬉しい。
男は、ふとれいのネームプレートを見た。
「素藤さんっていうんだね。これ、僕の名刺」
男は、名刺を渡したが、れいはすぐポケットにしまった。
「いろいろとお心遣い、ありがとうございます。また、いらして下さい」
「これからずっと来るよ」
なんだか、ぎょっとするセリフだ。
これがもし、キャバクラなどの水商売だったら、色仕掛け風の思わせぶりな態度で客を引っ張り、同伴出勤やアフターデートもしなければならないが、スイートハートはそのような店ではない。
れいは、男に対して恋心を抱くのを控えようとしていた。
「素藤さん、ホール慣れた?」
帰り道、早川が声をかけてきた。
「あら、早川君こそ、洗い場慣れた? 結構な体力仕事でしょう」
早川は、笑いながら言った。
「ぜーんぜん、大丈夫だよ。それよりさ、来年、岸慎吾の一人芝居があるんだ。一緒に見にいかない?」
「えっ、私でいいの? 彼女とかいないの?」
「俺、彼女なんて当分つくる気はないよ」
「でも、早川君ってもう十八歳でしょう」
「近頃の女の子って、あまり好みじゃないんだ。男っぽい子が多くてね。俺がいなかったら、平気で別の男と浮気もどきのことをしたりね。
繁華街でナンパされると、平気でついていったり」
そんなものかなあ。でも深く詮索するのはやめよう。
「正直言ってめちゃ嬉しい。私でいいの?」
「俺、なんだか素藤さんに、おばママらしきものーほらこの前、話しただろう。慎吾兄ちゃんのおかんと同じ匂いを感じたんだ」
「じゃあ、もしかして瓜二つだったりして。まあ、この世に自分と似た人間は、三人いるというけどね」
そう言った途端だった。
黒いジャンパーを着たバイクに乗った男が、早川の横を故意にぶつけていた。
よける暇もなく、早川はれいの方に倒れ掛かった。
「また、あいつらの仕業だ」
「あいつらって、この前ファーストフードでぶつかった男? 慎吾のライバルなの?」
「いや、そんなんじゃないんだ。話せば長くなるけどな、あいつは犯罪者の息子なんだ」
「えっ、早川君の知り合い?」
「まあ、知り合いといえば知り合いなんだけどね。昔、俺と慎吾兄ちゃんがいあいつの親を警察に訴えたんだ。あいつ、それを逆恨みして、根に持ち続け、警察沙汰にならない程度のいやがらせをするんだ」
「でも、実際、その子の父親は法的に犯罪をしでかし、罰せられたわけでしょう。
どんなことかは知らないが」
「あいつの父親は、拘置所のなかで首つり自殺をしたんだ」
「まあ、人の不幸を深く詮索する気はないけれど、冤罪じゃないんでしょう」
「冤罪ではなくあいつの父親は、傷害事件を犯したんだ。
なんでも自分の娘を痴漢しようとした男にキックをかけ、それが原因で相手の男は重傷を負ったんだ。その治療費を払うために、サラ金に手を出し、借金がどんどん膨らみ、会社の金を横領したんだ」
「サラ金に手をだしたら人生終わりというが、その通りね」
「ところが、そのキックして重傷を負わせた男は、痴漢とは全く何の関係もない他人だったんだ。その男は十年前、偶然にも痴漢の冤罪をかけられた男だったので、痴漢んの疑いをかけられただけで、気が動転してしまい、自分は無罪だということを、うまく説明できなかったんだ。全くの悲劇の茶番劇だったわけさ」
「以前もそういった冤罪事件があったわね。電車のなかで、女性が『この人、痴漢です。お尻触られました』と男性の手を掴んで上にあげ、目撃者と名乗る人が一人存在すれば、冤罪であろうとなかろうと痴漢行為が成り立つのよ」
「俺も聞いたことある。痴漢の冤罪をかけられ、会社をクビになり、離婚されたある男性が、そのときの再現ビデオを作成し、裁判で無罪になったというのをテレビで見たことあるわ。
まあ、逮捕された時点で拘置所に入れられ、もう九割方、犯罪者扱いね。それで、人生、狂っちゃった人もいるわ」
れいは、思わずため息をついた。
全く、人生というのは一寸先は闇、どんな災難が降りかかってくるかわからない。
でも日頃の行動から、疑われることはいくらもある。
しょっちゅう、女性にセクハラまがいのことをしたり、痴漢DVDの愛好者だと、痴漢願望があると、恨みついでに誤解されても仕方がないだろう。
早川は、れいのそんな表情を見て話題を変えた。
「ねえ、話は変わるけど、れいさんの夢ってなあに?」
いつのまにか、呼び名が素藤さんかられいさんに変わっている。
「そうねえ、笑われそうだけどね、岸慎吾のために作詞をすること」
「わあ、ビッグな夢、ということは、作詞家志願なんだ」
「まあそうね。とにかく私は慎吾を見たい。そのためには、慎吾が売れなきゃ話にならないじゃない。だから、慎吾向きの作詞をしたいの」
「この頃の詩って、カラオケ向きのオクターブが狭くって、テンポの速い曲ばかりだものね。もっと、息の長い曲であればと思うよ」
「私、慎吾君の明瞭な声が好きなの。だからその個性を生かした歌をつくりたいな」
「もし、れいさんが作詞家になって成功したら、印税を半分くらい分けてもらおうかななーんて、そんな日が訪れることを願ってるよ」
れいと早川は思わず顔を見合わせて、微笑んだ。
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