第2話 れいの未来のスタート地点

 外資系企業などいうと、つい昨日まで居酒屋でお互い頑張ろうと肩をたたき合っていたのに、翌日になるとあなたはクビ、必要ないから十五分以内に荷物をまとめて帰ってくれなんていう、殺生な情のひとかけらもない雇用形態が存在しているという。


 そんな生活の中での楽しみは、岸 慎吾だけだ。

 彼の生真面目な好青年ながらも ちらりと見せるセクシーな表情、子供のような無邪気な笑顔、彼にはいつも笑顔が似合う好青年でいてほしい。

 慎吾と私、九歳違い、ひとまわり年齢が違うのである。


 ときめき、やさしさ、笑顔、自信・・・

 慎吾をパソコンのテレビ画面でみるたびに、女としての自信が取り戻せそうだ。

 つい、この間まで付き合っていた男は、私立大学の理工系を卒業し、専門学校のパソコン講師をしていた男であった。

 講師と教師とは根本的に違う。

 教師というのは聖職だが、講師は一年契約の人気稼業でしかない。

 一年契約で、生徒数が少なかったり、検定合格率が低かったりすると切られてしまう能力主義の契約社員である。

 いわば予備校の教師と同様、人気稼業でしかない。


「このスーツおばさんっぽいなあ」

 その男はいつも、喫茶店で向かい合うごとに、そんな言葉を口にした。

 本人は、子供の頃から家庭教師をつけて勉強し、小学校のときは総代だったが、一年浪人して大学の理工学部に入学したが、留年し卒業はしたが、非社交的な性格が災いして、サラリーマンは不可能だったので、コンピューターの専門学校にいっていたという。

 要するに、その男は二十七歳まで親のすねをかじってたわけだ。


「僕はね、三十歳になっても女の子と手を握って歩いたこともないんですよ」

 男はやや自嘲気味に言った。

 もてないという見方もできるが、理想が高くて、潔癖症だというお坊ちゃんというような見方も可能である。

 事実、男は酒、煙草、ギャンブル、風俗通いは一切しなかった。

 でも、そのかわり同性の友人もいないし、いわゆる人間嫌いなのかもしれない。

 結婚を言い出したのは、男の方からだった。

「きっと、君を幸せにするからね」

「結婚式は、二人だけでしようね」

 釣り書を差し出したあとで言った、男の甘言だった。

 そのときは、夢物語のなかの甘言だったかもしれない。

 しかし、現実がわかるに従って、おとぎ話のような夢物語は、徐々に薄れていったに違いない。

 男の母親に招待されて実家に行ったとき、こう言われた。

「私はうるさいよ。そして息子と結婚したら、〇教に入信してもらいます」

 男の実家は、金物屋を営んでいたが、いわゆる資産家だったのだ。

 れいは、〇教に入信する気は毛頭なかった。

 母親は、後継ぎ問題もあり、随分男の結婚をあせっているらしい。

 れいは、重苦しいうんざりした予感を感じた。


 男とつきあうにつれ、男はれいの好みのタイプではないということが、わかっていたのである。

 同性の悪口を言ったり、自分をタナにあげ、人の容姿をけなしたり、男は徐々にれいの容姿までけなすようになってきた。

「手が若くないなあ」

 そういうあなたは、どうなのよ。

「キャピキャピギャルの雰囲気じゃあないなあ」

 キャバクラへでも行ってきた方がいいじゃない。

「このブラウスいまいちだなあ。君の服装には、いつもがっくりさせられる、君のお母さんのセンスじゃあねえ」

 自分はどうなのよ。

 だいたい、三十歳になって、女の子と手も握ったこともないなんて、そんな人、そういないんじゃないの?

 それとも潔癖症?

 それに、本人のみならず本人の母親のことまでけなすなんて、人間として欠陥あるんじゃないの?


 案の定、男は仕事もうまくいってないらしい。

 無理ないだろう。専門学校の講師なんて、典型的な人気稼業、ある意味では、水商売みたいなものだ。

 半年契約で、人気がなくなったら契約切れなのである。

 男は、大切なお客様である生徒のことまでけなしていた。

「今日、小テストだったんだけどね、出来の悪い鈍い生徒がいるんですよ」

 まあ、専門学校というのは、そういった人の為に存在するのである。

 出来のいい優等生ばかりなら、こういった商売は通用しない。

「あの太り過ぎの女生徒は、椅子がかわいそうである」

 などと言いだす始末である。

 こういった生徒を愛さない人間性は、一年契約の講師には全く向いていない。

 案の定、れいと別れた一か月後、男は専門学校を解雇されていた。


 れいは、岸 慎吾の姿を見るだけで ときめきを感じていた。

 岸 慎吾はれいの元気の素である、疑似恋愛の対称だった。

 このときめきが、れいを女性として輝くエネルギーとなっていることを、れい自身気付いていなかった。


 さっそくハローワークに行ってみた。

 なんと、二十代の人が多いのには驚いた。

 そういえば、大学を卒業しても半数が職がないという。

 美容師や調理師の資格を持ちながら、肝心の求人がない時代だ。

 それでも、若い男だったら水商売という手段もあるが、女はそういうわけにはいかない。

 れいは、喫茶店以上の水商売をしたことがないし、向いてもいない。


 珠算、簿記、ワープロ検定、漢字検定、文章検定すべて二級取得。

 一応、マウス検定のワード、エクセル上級、アクセスまで取得している。

 しかし 事務は四十歳くらいまでしか採用しないという。


 昔、調理師免許を取得したので、飲食店にトライしてみようか。

 求人誌で、ファミレスを改造した店で、メタボリック対策料理を販売しているという。メタボリックの敵、卵黄、肉は一切使わず、魚と大豆中心料理で、実際、その店に毎日通って人が、二週間でコレステロール20, 中性脂肪200落ちて、正常値に戻ったというデータまで記され、今や人気の店である。

 客層は、やはり中年以上である。

‘居酒屋代わりのクリニック料理、これでヘルシー医者いらず人生を’

 そんな宣伝文句を売り物としている。

 テイクアウトも盛んで母子家庭にも人気があるという。

 れいも、一度客として店に行ったことはあるが、ソフトなブルーの照明が店内を包み、カウンター式で、セルフサービス、アクアリウムには熱帯魚が泳ぎ、もの静かなゴスペルらしきBGMが小さい音でかかっている。

 珈琲のほか、ハーブティー、うこん茶をブレンドしたお茶、アールグレーまで揃っているし、調理パンも販売されている。

 なるほど、若い女性を意識しているわけだ。

 れいは、うこん茶を注文したが、うこん独特の臭みと苦味は、シナモンと蜂蜜でみごとに消されていて飲みやすい。

 ひとつのアイディア商法だと感心した。


 店の名はスイートハートという。

 ピンク地にブルーの地で、スイートハートという洒落たロゴまで入っている。

 少し、クラブを意識したような店内といい、異次元空間を提供しているのだろう。

 

 スイートハートの求人欄で、年齢不問、飲食店経験者優遇という求人広告が目についた。

 よし、とりあえず応募しよう。

 幸い、れいは調理師免許も取得しているし、喫茶店勤務の経験もあるので、希望はあるに違いない。


 面接の結果、れいは採用となった。

 嬉しかったが、仕事内容は、皿洗いや掃除などの雑用である。

 しかし、勤務態度が良好だと、ホール周りに回してもらえるらしい。

 スイートハートのホール周りは、いらっしゃいませではなく、ハローといい、客が帰るときも、ありがとうございましたではなく、have a nicedayである。

 なるほど、この瞬間から客は、日常空間を忘れるだろう。

 もしかして、この異次元空間にはまる客もいるかもしれない。


 店長から宣告されたが、スイートハートの掃除はかなり厳しい。

 髪の毛一本落ちていたらダメ、壁や机のシミも専用洗剤で徹底的に磨き、男子トイレの便器も、専用洗剤で尿石をこびりつかないようにするのだ。

 朝八時に営業するので、六時半に来て一時間かけて、一人掃除する。

 ホールも広いし、壁、椅子、机とシミがあるごとに磨くので、かなり重労働だ。


 店長といっても、まだ二十二歳くらいである。もちろん、本社からの雇われ店長にすぎないが。

 

 


 

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