前日譚 小春日和前 六、萌え出づるⅰ/幕間狂言

◉登場人物、時刻

⚫︎づるⅰ

????    主人公。今回は出番あります。

        数え年で八歳。棟梁家の庶長

        子(側室から生まれた長男)。

伊兵衛     村の中で主人公が侍身分である

        事を唯一知っている

        子供。数え十五歳。

        今回の石合戦で副将を務める。


午初うましょの刻 午前十一時から正午



⚫︎幕間狂言

〈戸田方〉

戸田高雲斎    中堅國人衆。棟梁家の血に連

         なる。

大久保六郎兵衛尉 高雲斎家臣。

 ◉この二人は主人公ではありません。


寅正とらせいの刻 午前四時から五時


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前日譚 小春日和前こはるびよりのまえ 六、づるⅰ/幕間狂言まくあいきょうげん



 その日は秋祭りの日だった。


 晩稲おくて*1の刈り入れ、女たちを中心に忙しかった上納年貢の俵作りも一段落つき、男たちの小麦・大麦の種蒔たねまきも終わった。

 直ぐに中打ちと肥持ひもち作業*2が始まるものの、その作業の前に一息つき、神仏に今年の収穫の感謝と今後の収穫の祈念のために、祭りが行われるのだ。

 ……うち続く天候不良による飢饉ききんが例年のように起こるのに、神仏をうらむ声が起こらないのは諦めか、それとも神仏へのおそれか。

 天災が続いても、いや、それだからこそ尚の事、人々は熱心に神仏をうやまっていた。



 きょうの國では既に短い秋から冬へと衣替えを始めており、山から吹き下ろす風は少しも優しくない、刃の鋭さを持っていた。

 しかし、天気だけは抜けるように高く晴れ上がっていて、幼い子供たちの夢をどこまでも高くひろげていくようだった。この時だけは自分が金持ちになって茶碗一杯の白米を頬張ほおばる夢を見ることも、強い英雄になってえらい大将になる夢を見ることも、許された。


 …………もちろん、そんな夢は叶うわけもない。一生土地に縛られて、実りもしない作物を育て、そして、おそらくは飢えて死ぬ。


 樹の皮をがして食べる。名も知らぬ虫を食べる。山のきのこに当たって死ぬ。田つぶ*3はご馳走だ。

 そんな毎日が幼い者たちにも世界が自分たちに少しも優しくないことを教えてくれた。


 苦しい毎日。で、あるからこそ。

 ハレの日である今日を精一杯、楽しむ。


 次の年に友が、自分が、生きているとは限らないのだから。



丙寅ひのえとら三年神無月かんなづき十日午初の刻うましょの刻 伊兵衛


んぬる水無月二日、其方そちらの管理であられるあぜの補修を怠り、続く大水の際、壊れかけた。もしあの際、あの畔が壊れておれば、我らが荘に用水は届かず、田畠は作毛*4が危うかった。この事如何いかに?」

「…………これは異な事を。あれは然程さほどの壊れ方ではござらぬ。現に、続く大水でもビクともしておらぬ」


 子供達特有のの甲高い声が秋の高い空に響く。

 その堅い内容には相応しくない声だが、それはこの文面があらかじめ大人たちが考えた物だからだ。子供たち自身に考えさせたら、ただの悪口の言い合いになってしまうだろう。


 秋祭りの一環として行われるこの行事はしょうの境川をはさんで行われる。クミの村*5とはいえ人と人が付き合えば言いたい事の一つや二つはできる。それをこの際、神事にかこつけて憂さ晴らししようということだ。

 …………しかし、本当に争い事に成りかねないほど酷いイザコザは、巧妙に避けられていた。連綿と続いてきたこの神事*6の、それが知恵なのだろう。


 また、これはこの後行われる石合戦*7の始まりを告げる儀式でもある。村戦の演習として行われる石合戦であるが、実際の村戦も、作法として、また、同時に行われる事の多い訴訟として、開戦前にお互いの正当性を主張し合うことが多い。その演習も含んでいる、という訳だ。


 この神事には幼い子供達も参加しているが、次の石合戦に参加できるのは十歳からの子供に限られる。年が明ければ烏帽子成えぼしなり*8する私は此度こたびの副将格を任じられた。大将は勇猛なだけが取り柄の猪大将であるため、おさえ役に回らなければ…………



 …………………………懸念けねんはもう一つ。

 チラリと横を見る。


 ぬぼっとしたのっぺら坊の様な少年が所在なさげにたたずんでいる。四尺八寸*9の大柄でいわおの様な厳しい表情は今年、数え十五の自分より年上に見える。

 しかし、此奴こやつは七歳の子供でしかない。それどころか村の祭事に参加できる身分ですらない。百姓の子ではなく、武家の子なのだから。


 演習とはいえ戦の前に興奮しているのか、口のを軽く上げて、浅い息を繰り返している。子供の愛らしさなど欠片もない、浅ましい獣の顔付き。我らの様に守る為に戦う者ではなく、殺すために殺す者……………………


 少し遠い地よりの親戚がたまたま来たと説明しているが、見知らぬ者を泊める事が大法*10に触れる世間、余りある事ではなく、周囲にはいぶかしい目で見られている。


 …………村の大事な祭礼に無関係な武家の子を参加させたと発覚すれば、いくら父が乙名おとなとはいえ、村からの追放はまぬがれないだろう。

 昔、世話になった人の子か何かは知らないが、父は何を考えておるのだ?こんな危ない橋を渡らずとも良いものを…………………………


 何事もありませんように………………

 神事の前に、神仏に祈る。そのような欲深き私に神仏は罰を下されないだろうか?桑原くわばら、桑原。




庚戌かのえいぬ二年長月十六日 寅正とらせいの刻 大久保六郎兵衛尉 (戸田方)


 室内から物音がする。

「殿、御目覚めですか?」

 日が開けるまでにはだ一刻、暁暗あかつきくらい七つとき


 この年は初めひでりで雨少なく、降り始めたと思ったら今度は大雨になり、一月前には大風おおかぜにもたたられ、水路は割れ、作物は腐れ落ち、民草の嘆き、人も牛馬も皆飢え、死に絶えること限りのない有様である。

 今日も冷たい風が吹きつける、寒々しい心身を凍えさせる。何とかしなければ、そう思っても手立ては無く。



 飢えた人々が分捕り戦を求めて、御館おやかたを巻いた*11のが昨日の事。「すわ、世直し一揆*12か!」と被官衆が集まり、一時は戦になりかけ、今でも危機は去ってはいない。

 誤解が解けたが、百姓衆が遠巻きに館巻きを続けているからだ。いつ暴発するとも知れない、そんな危うさを持っている。彼らは行く所がない。分捕り戦がなければ、どうせ飢え死にする、そんな死兵は何をするか分からない。


 そんな中で話し合いが続いている。

「郷の百姓衆を救うためには分捕り戦をするよりあるまい」「そうは言っても何処いずこと?」「仲の悪い南武殿の所領に押し入り、濫妨狼藉らんぼうろうぜきにて百姓衆の命を食い止めるより他はなく」「しかし、山猿どもの所領に押し入って、あれだけの民を喰わせる物があるか?」「それより手強い南武殿と今、争えば失う物が大き過ぎる」「では、棟梁家の所領に押し入るのか?」「いや、南武殿と仲の悪い中で更に棟梁家と事を構えれば、四方皆、敵となってしまう」「では、どうするのだ?」と 喧々諤々けんけんがくがくの大論争になり、虚しく時間を過ごすのみ。


 このままではいかぬ、とは皆、分かっているのに。


「……殿、殿?…………入りますぞ?」

 返事がない、殿になんぞあったかと、部屋に入る。殿は夜具をたたみ、寝所の畳の上で宙をにらえておられた。

「……殿?」


「…………今ならば、奴は国府に……一刻の」

 全くこちらを見られず、何かを考えておられる。これは、出直そうと退出しかけるが、それより早く、


六郎兵衛尉ろくろうひょうえのじょう、出陣だ……半刻後はんこくのち*13に出立する」

 驚く。

「無理ですぞ、殿。いまだ何の支度も整えておりませぬゆえ、最低でも二刻はかかります」


 殿は大きな声で

「誰ぞある!者ども、出陣の用意をいたせ!女どもは朝飯に炊いた米を至急、握り飯にせよ!半刻後には出るぞ!!」


「殿っ!」


「南武が兵を発向しこちらに向かってきておる、と報せが入った。今、南武なんぶ刑部大輔ぎょうぶたゆうは守護所におり、率いているのは南武甲斐だそうだ。急ぎ、これを迎え討つ。刑部大輔ならば隙などないが、子の方ならば敵ではない。刑部大輔が戻るまでが勝負だ」

 殿の御考えを吟味する。…………半刻後は無理としても、確かにそれならば利はある。しかし、南武刑部大輔が戻るまで、どれほどときがあるか…………


「……馬上のみで先行する。徒士侍、雑兵ども*14はこの際、置いていく。後から追いつけば良い。小荷駄こにだ*15も第二陣に運ばせる」


「しかし、それでは、」


「腹をくくれ、六郎兵衛尉。雑兵どもがいなければ、乱戦に耐えられない。確かにそうだ。しかし、雑兵どもを待っておっては、ときを逃す。正攻法で南武の様な大きな敵と戦っておっては、病み疲れ、周囲を利するのみだ」


「それはそうでは御座いますが…………」


「重ねて言うが刑部大輔が戻るまでが勝負なのだ。馬上のみの先行で一気に流れをつかみ、敵を圧倒する。騎馬兵が戦っている間に雑兵どもが追いつき、そこで改めて再編して推し直せば良い。一度掴んだ流れは中々変わらない。そうなれば刑部大輔が戻ってこようとも勝てるはずだ」

 …………周囲が慌ただしくなる。先ほどの殿の御命令が伝わったらしい。ガヤガヤと金属のこすれ合う音、女たちのやり取りが聞こえてくる。


其方そなたも急げ、六郎兵衛尉。郷の子らを飢えさせる訳にはいかぬと、其方も常々、言っておったではないか?刻は待ってはくれぬぞ…………それと、外の巻いておった百姓どもにも稗粥ひえがゆでも喰わせてやれ」


「…………委細承知っ!」


 片膝をつき礼を行い、部屋より出でる。

 さいは投げられた。

 思うところはあるが、今はただ動くのみ。


 諸将、郎党どもに下知を伝える為、動き出した。



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◉用語解説

*1【晩稲おくて

 比較的遅く収穫される稲の品種。一番早い早稲わせ(刈り入れは太陽暦で七月中旬)、中稲なかて(八月下旬)の次に収穫される(九月下旬〜十月初旬)。


*2【中打ちと肥持ひもち作業】

 「中打ち」は土壌の通気性確保、土を柔らかくする事による麦の根の成長促進、雑草の除去を目的にうね(麦の種をく周囲より高く盛り上げた土の土手)と畝の間の土を掘り起こす作業です。

 地域や年により異なりますが十一月は十日、一月は十五日、二月は二十日ほど行います。


 「肥持ち作業」は麦を育てる前に稲作で失った養分を回復させる目的で下肥げひ・しもごえ人糞尿じんぷんにょうに柴草〈入会山、萱場かやばが中世の農業生産に必要不可欠なのはこの柴草を刈る為〉を混ぜ、発酵させた即効性の液状肥料。要するに肥溜こえだめの“肥”)をく作業です。

 麦の生育後も与え続けられ、これも地域や年によって異なるものの十一月は七日、十二月は十日、一月は六日、二月は十五日、三月は四日と毎月行われます。

 肥溜こえだめの“肥”は戦後、GHQの指導により減少傾向にはあったものの、つい最近(1950年代ころ)まで農業に使われており、五十代以上のほとんどの人間は子供の頃、これに落ちて酷い目にあった経験があります(当者比)。


*3【田つぶ】

 タニシの事。タニシの卵には神経系の毒があり、成体も人体に有害な寄生虫を持っている事が多いので、食べるのはやめましょう。食べ物の無い中世当時ではそんな事は言っていられなかったのでしょう。


*4【作毛】

 毛は稲や麦などを表す言葉。つまり、ここでは稲の生育が危うかったという意味です。


*5【クミの村】

 この当時の村は村人といえども武装し、村同士で戦争をしていたため、いざという時に援軍を送り合う同盟を組んでいる村というのがありました。

 これを合力ごうりきや組み(クミ)の村と言いました。

 これらは日常の生業上の付き合いから発生し、村戦の為の同盟軍まで発展しましたが、これらの付き合いを失う事は即、村の滅亡に繋がる重大事になったため、村は日頃からこの関係を非常に重要視しました。

 これらは非常に広域の付き合いであり、例えば関連文書が国宝指定されている菅浦文書に残る菅浦荘(現、滋賀県長浜市西浅井町菅浦。以下、全て滋賀県の地名)と大浦荘(長浜市西浅井町大浦)の村戦では、それぞれ関わったクミの村が菅浦方に河道北南(長浜市川道町)、西野(長浜市西野町)、柳野(長浜市高月町柳野一帯)、塩津(長浜市西浅井町塩津)、飯浦はんのうら(長浜市木之本町飯浦)、海津西浜(高島市マキノ町西浜)各村と八木公文氏(長浜市八木浜一帯に勢力を持った地侍)と安養寺どの(長浜市安養寺町一帯に勢力を持った地侍)が合力し、大浦方には、海津東浜(高島市マキノ町知内一帯)、八木浜(長浜市八木浜の町衆)各村と今津(高島市今津町一帯)、堅田(大津市堅田一帯。比叡山の宗教的権威をバックに商人の合議で運営する商業都市であり、琵琶湖水運の関務上乗に強い影響力を持ち、泉州堺と並び称される一大自治都市でしたが、織田信長に抵抗し衰退しました)が合力するなど、琵琶湖岸北部一帯を巻き込む大事になりました。

 海津が西浜と東浜に別れて争っていたり、八木浜が地侍と町衆で敵味方に別れていますが、これは元々この地域のそれぞれの勢力が“もめ事”を抱えていたことが想定され、応仁の乱や関ヶ原の戦いの時に起こった「仲の悪いあいつらが西軍なら俺たちは東軍だ」といった現象が村戦のレヴェルでも起こっていた事が考えられます。

 そういう意味でも村戦は武士の戦と何ら変わりないものだと言えます。


*6【連綿と続いてきたこの神事】

 実はこの神事はかつて実在した神事がモデルになっています。新潟県東蒲原郡の“カゼノサブローサマ”と呼ばれる神事がそれで、藤木久志先生が著書『戦国の作法〜村の紛争解決』にて書いておられます(18p)。

 その神事は「子供たちが川をはさんで悪口を言い合う」という物で、藤木久志先生の知り合いの方が「かつてそういう神事が確かにあった」と語ったという内容なので、先生のご年代を考えると昭和初期頃か、それより前に消滅した神事ではないか、と思われます(詳しい事をご存知の方がおられましたら、教えていただけると幸いです)。


 カゼノサブローサマというのは大風おおかぜ(=台風)と関連づけられる事が多い伝承なので、おそらく台風除けの神事だっただろうと想定されます。その名前と“風の神”という関連性から宮沢賢治の「風の又三郎」のモデルになっている神ではないか?と考えられます。


*7【石合戦】

 菖蒲を刀に見立て(菖蒲合戦)、石を投げ合って合戦の真似事をする中世の子供たちの遊びです。正月や五月五日の節句に神事としても行われました(本作は秋祭り)。今作の石合戦は、子供しか参加していませんが、大人も混じる事があったようです。

 石を投げ合うという内容の為、死者・負傷者を出したと言われ、施政者から度々禁令が出たようです。一説によると織田信長が近隣の子供たちを集めて楽しんだ遊びの一つとされています。


*8【烏帽子成えぼしなり

 いわゆる成人式。刀の帯刀と烏帽子が許され、成人として認められます(村の“若衆”となる)。


 ここから下、全て余談です。

 地域・村によっても異なりますが、数年、経験を積んだ上で、村内での家柄が良かったり、周囲に認められると若衆の中から、官途成かんとなり大夫成たいふなりして、名前に官途名(朝廷の許可を受けない官職名の私称。当時は実名〈織田信長の“信長”など〉をいみなと呼び、上位者以外がそれを使う事が非礼とされた為、武士から百姓に至るまで官途名や通称を使っていました)・受領名ずりょうめい(官職名のうち、“尾張守”など国司を私称するもの)を付け、宮座(村の政治執行機関)への参加が認められます(“中老”になる)。

 なお、官途名を付けるには朝廷の官職の知識が必要だった為、元の名に“衛門”を付ける事で官途成を済ました村が多く存在しました(元の名が平助なら“平左衛門”、伊助ならば“伊右衛門”など)。

 これを“衛門成えもんなり”と言います。


 そして、入札いれふだ(今で言う選挙。投票自体は階層に関係なく村人全員で行う)で、おそらくは中老の中から村の執行役員である乙名おとな(他に長老・老者ろうしゃなど呼び方は様々)が選ばれ、村の政治を担う事になります。


 なお、宮座は村の政治執行機関ですが、これに入っていなければ政治的発言ができなかった訳ではなく、重要事項は村に参画する全ての人の総意(署名が“老若”となっている資料が多く残っている)で決められる事が多かったとされています。

 また、被養者を除く宮座に参加していない村人(=若衆)は村戦の際の実戦力、村の祭司の仕切りなど重要な仕事をしていた為、中老・乙名に政治的要求をする事が多く、なしくずし的に総意で決める事が増えていきました。

 なお烏帽子成、官途成・大夫成・衛門成は共に村に礼金を支払う必要がありました(地域によるが銭で五百文〜七百文程度、酒などの祝儀の品、銀などさまざま)。

 

*9【四尺八寸】

 180センチ強。現在では普通ですが、中世の平均身長は150センチ強だと言われているので、頭ひとつ大きいことになります。


*10【大法】

「慣習法」「不文法」「守られるべき常識」「しきたり」「“成文化された法律”に根拠を持たない、それでも守られるべきルール」という感じの意味です。中世の村では見知らぬ者を泊める事は固く禁止され、これを破る者は厳しい罰を与えられました。

 治安を守るといった理由はあったのでしょうが、当時は「見知らぬ者を泊めた者は厳罰」という事がすでに“常識化”していました。

 ちなみにこの常識が適用されない「宿がある町・村」を「宿場(駅)」と言いました。


*11【御館おやかたを巻く】

 包囲のこと。室町時代、幕政改革や異議申し立てをする為に諸国の軍勢が将軍御所などを包囲する事を「御所巻ごしょまき」と言いました。

 ここでは餓死にひんした百姓衆が分捕り戦(掠奪戦)を求めて、戸田氏の館を包囲しています。


*12【世直し一揆】

 徳政一揆のこと。徳政令を求めて、一揆を行うこと。徳政はその手続きとして、たいてい領主の代替わりを伴いましたので、その意味では領主の世代交代をも要求していることになります。

 上記のように今回は「分捕り戦の要求」であって、「世直しの要求」ではありません。


*13【徒士侍、雑兵ども】

 この場合の「徒士侍、雑兵ども」とは侍身分の者、被官衆、軍役衆や今回の騒動の発端になった分捕り戦を求める百姓衆全てを含んだ、歩兵全てを指しています。

(それぞれの違いの詳細は一章の「【改訂・注釈】足軽・農兵・被官衆・地侍について」をご覧下さい)


*14【半刻後】

 一時間後。「二刻」は四時間。


*15【小荷駄こにだ

 現代でいう補給部隊のこと。矢などの消耗品や槍・刀・甲冑などの補修用具、そして何より兵粮ひょうろうを運ぶ部隊。

 五、六日分のそれらを運ぶ部隊を小荷駄こにだと言い、それ以上の期間を賄える部隊を大荷駄おおにだと言うとされています(諸説あり)。


 ◉喧々諤々けんけんがくがくは誤用らしいですが、喧々囂々けんけんごうごうはいまいちピンとこない為、これからもこちらを使います。


 この後、史学の初心者な私が考える『戦国時代の村とはどういう存在か?そこに住むお百姓さんたちはどういう人たちだったのか』という注釈をつけます。二回に分け、第一回はこの後。第二回は22時頃に更新します。


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