前日譚 小春日和前 十九、仕舞

 申し訳ありません。最後の最後に大遅刻……


庚戌かのえいぬ二年 南武・戸田合戦

〈南武方〉

南武刑部大輔  棟梁家の宿老。大身の國人衆。

        前棟梁に妻を娶らせた

        『当國棟梁之伯父』。

櫻井余呉右衛門 南武家の重臣。

        先陣を務めていた。壊滅後、

        先陣の残余を集めつつ、川を渡

        り、迂回して後方へ移ろうとし

        た所、国府から移動していた刑

        部大輔と合流する。

田中次郎兵衛  南武家の先陣馬廻に参加す

        る軍役衆(雑兵)。


南武甲斐    南武刑部大輔の子。南武家は守

        護家の支族で「峡の国」南部に

        一大勢力を持つ有力國衆。

        直情径行のきらいがある。

井手山主税助  南武家の重臣。本隊に参加。

〈故人〉

井手山主水   主税助の弟。伏兵を率いる。

        討死。



〈戸田方〉

戸田高雲斎   中堅國人衆。棟梁家の血に

        連なる。

保坂平左衛門  大久保六郎兵衛尉の家臣・

        家子いえのこ

        親族衆で今回が初陣。

佐奈田十郎   戸田軍の若近習。弓の名手。

        有能だが思い込みが激しい。

〈故人〉

大久保六郎兵衛尉 高雲斎家臣。討死。

保坂式部     保坂平左衛門の叔父。討死。


辰正たつせいの刻 午前八時から午前九時

巳正みせいの刻 午前十時から午前十一時


丙寅ひのえとら三年 秋祭・村戦

????    主人公。今回は出番あります。

        数え年で八歳。棟梁家の庶長

        子(側室から生まれた長男)。

伊兵衛     村の中で主人公が侍身分である

        事を唯一知っている子供。

        数え十五歳。

        今回の石合戦で副将を務める。

悟助      主人公が参加する村の大将格。

        大柄で乱暴な典型的なガキ大

        将。総身に回りかねる知性。

        対戦相手の与兵衛とは仲が

        悪い。自分より大柄な主人公が

        気に入らない。


与兵衛     相手方の大将。腕力も知恵も悟

        助と良い勝負。

太助      御陵保ごりょうのほの大将


巳初みしょの刻  午後一時から午後二時



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前日譚 小春日和前こはるびよりのまえ 十九、仕舞しまい


 あれからほぼ一月もの時間が流れた。

 十日ほど前に降った初雪はその勢力を弱める事なく、山間やまあいのこの地をおおい尽くし始めた。

 敵も味方も兵たちの心には、もはや戦は終わったものとして望郷の念のみをつのらせている。

 対峙たいじしているのに戦は起こりそうもない。そんな弛緩しかんした空気を冷たい風が引き締めていた。


 兵たちの次の敵はこの気候だ。

 ……否、初めからこの時代の人々の敵は天候だけだったのかも知れない。



庚戌かのえいぬ二年神無月かんなづき十二日 辰正たつせいの刻 井手山主税助(南武方)


「私の策は完璧だったんです、父上。敵より多くの兵を用意し、二方向から攻め立てる。今、考えてもこれ以上の作戦はありません。私は完璧だった」

 …………机上の空論はいつだって完璧だ。現実はそう上手くはいかない。

 刑部大輔の殿はそれをニコニコしながら聞いている。

 志も政戦両略の才も兼ね備えて居られる殿の、これが最大の泣き所だ。何時いつもは守護所にめられていて、なかなか会えないからなのか、御子息には不思議と甘い所がお有りになる。

 今も元服して数年は経つというのにわらべじみた若の言い分を静かに聞いて居られた。


「それをこの者たちが!」

 俺や隣に立つ余呉右衛門どのを指差す。無礼な。

怠惰たいだで無能なこの者たちが!私の完璧な作戦を滅茶苦茶にしたのです!これは許される事ではありません。即刻、くびね、さらすべきです!」


 思わず隣を見た。余呉右衛門どのの顔には何の感情も浮かんでいなかった。

 …………俺は彼ほど達観出来ていない。きっと仁王のような顔になっているだろう。


 ………………………………………殿の為なら死ねる。いや、死にたい。そう願っていた。

 しかし、俺にも一族郎党が居る。俺を誇りに思い、死んでくれる人々が、死んでくれた人々が居るのだ。

 その誇りにかけて、武士もののふとして、この恥辱をそのままにはして置けない。


 我らの誇りを、……誇りを。

 弟の顔が浮かぶ、今までに失った者たちの顔が。


 殿はまだ壮年だが、時が経てば、また考えたくもない事だがもし万が一の事があれば、この愚者に仕える事になる。この武士もののふの心も理解しない馬鹿に。

 目の前が一気に暗くなる。光が閉ざされたように。目が押し潰されるように痛む。きっと俺は悪鬼のような顔になっている事だろう。


 いや、悪鬼になるべきだ。

 …………叶わぬまでも、



 ドゴォッ、


 物凄い音がして、正気に帰る。

 先程の笑顔からは想像もつかない憤怒形ふんぬぎょう*1をして、殿が床几*2から立ち上がって居られた。


 怒りに震える赤ら顔。

 唇をんだ鬼の形相。

 その視線の先にはほおに手を当てて、何が起こったのか理解できない表情で地面に倒れ込む馬鹿の姿があった。


たわけっ!!兵を無駄に死なせた上にぐだぐだと言い訳しおって!誰が渡の陣から離れて良いと言ったかッ!」

「しかし、父上、」

 その言葉も聞かずに殿は、

「誰かある!余呉右衛門よごうえもん主税助ちからのすけ両名の馬をこれへ」

 俺と余呉右衛門どのの馬が運ばれて、

「甲斐、この両馬の手綱たづなを取って、そこに立っておれ」

「なっ?!そのような下賤げせんな役割を私にっ…………」

 しかし、勢い良くまくし立てられ始めた馬鹿の声は、殿の一睨ひとにらみで途絶えた。

 思う所があったのだろう。諸将の間からも忍嘲笑しのびわらいが漏れた。


 殿は我ら両名の肩に手を乗せて言われた。

「済まぬな。苦労をかけた。其方そなたたちの奮戦が無かったら、被害はどれほどの物になったか解らぬ。必ず兵たちの恩には報いる」

 顔を挙げ、皆の方に言う。

みなもご苦労だった。この度の皆の献身、この刑部、生涯忘れぬ。皆のような忠義の臣を持って、この刑部は三国一の果報者じゃ」

 いつの間にか隣の余呉右衛門どのからも、諸将の間からも嗚咽おえつが漏れていた。

 俺も目からも熱いものが知らず、流れていた。


 この人をこそ、この人をこそ。

 殿のような主人あるじを持って、三国一の果報者は俺たちです。この御方に弓を向けずに済んだ幸運を神仏に感謝していた。



庚戌かのえいぬ二年神無月かんなづき十二日 巳正みせいの刻 保坂平左衛門(戸田方)


 いつの間にかときは過ぎ、世界を白くおおい尽くしつつある。命じられるままに体を動かしているうちに、城砦も強固に完成しつつある。城の番方*3も定まり、我らのすべき事は最早何もない。

 何も思う事が出来なくても、刻は過ぎるのか。

 そうして全て忘れ去らていくというのか。

 この辛い思いも。優しかった人々の記憶も。

 そうだとするならば、忘れ去られたモノたちはいったい何処どこへ行くというのだろう?

 

 …………私はまだあの日から一歩も動けずにいる。



 今日、我が軍はこの地を去る。

 何だったんだろうか?私にとって、この戦は。


 

 何もできなかった。

 流されるままに、流されて。

 初めは大久保党のみなに付いて行くのに、必死で。自分の未熟を思い知らされて。


 それでも、大久保の殿に認められた時は嬉しかった。天にも昇る心地だった。

 …………その殿はもう居ない。


 大久保党の皆が倒れ伏した時。

 私は何も出来なかった。

 復讐をすることも、その手段を考える事も。

 危機にさらされた百姓衆の身を案じる事すら、私は出来なかった。ただ茫然ぼうぜんと立ち尽くしていただけだ。


 私は何も出来なかった。

 私は何も出来なかったんだ。







 だが、そんな私にも信じてくれた人たちが居る。

 行く先も見えぬ私の行く道を信じて、激励げきれいしてくれた人が居る。

 幼い私を見守ってくれていた人が居る。

 未熟な私を教えさとし、導いてくれた人たちが居るんだ。


 ……その全てがもう存在しないのだとしても。

 いや、だからこそ彼らに自分の行く道を誤魔化ごまかす事など許されない。

 もう、これからは未熟を言い訳にしない。

 これからは無知を理由に諦めない。


 泉下の彼らがこれ以上心配しないよう、

 いつか私にも終わりが訪れた時、胸を張って再会出来るように。


 私は私の道を行く。

 まだ行く先すら見えない道を。








丙寅ひのえとら三年神無月かんなづき十日巳初みしょの刻 伊兵衛


 結論から言えば、この策はうまくいった。


 項垂うなだれて歩いていたのっぺら坊含む先頭の四人が、いきなり懐中の石を取り出し、投げつける。相手は虚を突かれ、真面まともな対応が出来なかった。

 相手がだまし討ちに気付き、反撃する頃には、のっぺら坊たちは相手の石の届かない所まで引く。引きながら石を投げ、相手に少なくない損害を与える。相手方も石を投げるが、大勢で密度が濃く何処どこに投げても当たる相手側と違い、たった四人ののっぺら坊たちには当たらなかった。

 そうして向きムキになった相手方が全力で距離をめると、今度はその投げられる石の数の多さによって四人が不利になる。四人とも粘ったが、最後にはやられた。


 しかしその頃には、相手の前線と相手の本陣は大きく離れていた。のっぺら坊たち四人は、その討死判定いのちと引き換えに敵を大きく引き付けたのだった。

  与兵衛相手の大将は前線に合わせて、前目に移動出来たが、旗はそうはいかなかった。四人が相手を引き付けている間に、迂回した味方の者たちが前のめりになった相手をかい潜り、神楽かぐらの保の旗の奪取に成功した。


 丘の上の相手の援軍は狼狽ろうばいして此方こちらに届かない石を投げ、更に時間を無駄にした。

 悟助に向けて石を投げた者も居るが、一人残った取り巻きと避ける事に専念して、一つも当たらなかった。

 

 そうして二十七人になった私たちは、悟助たちとも合流して、二十人の相手方援軍、御陵ごりょうの保の連中を正面から叩きつぶした。


 私たちは大いに面目をほどこした。



〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


「…………助かった、と言っておく。有り難う」

 悟助がのっぺら坊と握手を交わしている。あの悟助が悪態あくたいもつかずに礼を言っている姿は新鮮だ。これが大人になるという事なのか。


「……随分と冷や冷やさせられたが、助かったのは確かだな」

 私ものっぺら坊と握手を交わす。

 素直な言葉が出てこない私は、ひょっとして悟助より大人気ないのか?いや、真逆まさか、そんな馬鹿な。


「礼がしたい。何か欲しいものはないか?」

 悟助が問う。

「好きで参加しただけだ。そのような物を受け取るいわれがない」

 のっぺら坊が答える。

「…………俺は御前の事を、もう身内だと思っとる。身内に助けられたら礼で返すのが、義だ」



「では、一つ頼んでも良いだろうか?……もし萱場かやば*4に川芎センキュウ*5が生えていたら、少し分けてくれないか?」

 しばらくして、のっぺら坊がそんな頼み事をした。




 乙名たちの了解を取って、萱場かやばから幾つかの川芎センキュウを採取する。乙名おとなたちは初め渋ったが、父上の鶴の一声で決まった。

 その時の表情は何とも言えないものだった。アレを何と言い表したら良いのだろう?

 痛ましいものを見る表情。惻隠そくいんの情。憐憫れんびんの情。

 おおよそ私の記憶にない父の表情だった。


 だが、不思議な事はそれだけでは無かった。

 今日一日だけの付き合いでも分かる。この男は、この“のっぺら坊”はあわれみを受ける事を許すような男ではない、と。

 烈火の如く怒るだろうと、そう予測して身構えた私の予想を裏切るように、父の憐れみの表情にすら気付かなかったように。

 大事そうにその川芎センキュウを受け取ると「有り難う」と言った。

 その表情も初めて見るものだった。


 八歳とは思えない表情しか見せなかった少年が見せる初めての表情かお

 ホッとした様な、それでいて不安な様な年齢相応としそうおうの、いやそれ以上に幼く見える表情かお


「母上のご様子がな、少し…………」

 誰に聞かれた訳でもないのに、つぶやく様にそう言った。そして、振り払うように小さくかぶりを振ると、何時いつもの無表情に戻った。


 誰も何も言えなかった。

 誰も何も言えないまま、その日は別れてしまった。

 何が言えたのだろう、何か途方もない感情を一人で大事に抱えるように持っていた少年に。


 それでもその日、何も言えなかった事が今も私の心をさいなんでいる。

 のどに刺さった魚の小骨のように。



 風の噂に少年の母親が、その七日後に卒去しゅっきょ*6していた事を聞いた。




〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


 庚戌かのえいぬ二年長月に起こった南武と戸田の争いは良くある在地領主同士の小競り合いとして歴史の片隅に記されている。

 この様な小競り合いは当時幾らでもあった。

 戦いの結果も一方的な勝者は居らず、こういう小競り合いで良くある“痛み分け”だと考えられている。


 それでも、この戦いに全く歴史的な意義が無いかというとそうでもない。


 先ずそれまで峡乃国の中堅領主として、國内くにうちにしか名を知られていなかった戸田高雲斎の名が他国にも知られる様になった。

 この戦いがその後に戸田家中を峡乃国有数の有力國人領主として成長させる切掛きっかけとなった。

 また、百姓衆にも少なくない被害を出したとは言え、全体として濫妨狼藉らんぼうろうぜきは成功していた。矢の雨が止むまで屋内で待った冷静な百姓衆たちも少なからず居たのだ。

「戸田の殿様の下なら食える」という評判は百姓衆の心をつかんだ。戸田家中の所領には食い詰めた百姓が集まり、人員不足が常態化した村々をうるおした。何よりの成果と言って良い。


 しかし、被害が無いか?というと、そうでも無い。

 兵の被害は少なかったが、戦の最初期、被官衆・軍役衆を連れずに騎乗兵のみで戦った事が災いした。

 当時の騎乗兵は兵というより前線指揮官だった為、それらの層に穴が空いた事は戸田軍の軍制をいちじるしくいびつにした。

 兵が多くともれ等を指揮する者が不足した事は、以降の戸田軍の構成に深刻な影響をもたらした。

 最高指導者層と若手の間にいるべき中間層の減少は実戦闘能力と人材育成能力に暗い影を落とし、後々までも戸田家中を苦しめる事になる。


 何よりそうまでして得た木花集落の城砦は、その年が終わる頃には落城おちた。城兵総勢およそ三百人は、ほぼ全て城を枕に討死した。

 これ程もろく城砦の守りが崩れたのは、周辺諸村の積極的な協力が得られなかったからだともくされている。

 当初優勢だった戸田軍は、最後の最後に画龍点睛がりょうてんせいを欠いた感がいなめず、周辺諸村の目には「戸田軍、頼りなし」と映っていた。「草のなびき」と言われる百姓たちの目から見ても、今まで付き合いがあり、性向も把握はあくしている南武家中から乗り変えるほどの魅力が戸田軍には無かった。

 その為、周辺諸村から密かに教えられた獣道を使った南武軍の夜討ち・朝駆けに悩まされ、周辺の村々しか知らない様な水の手の要所を切られ、手も足も出ずに戸田方城砦兵は壊滅した。

 百姓を敵に回す事の恐ろしさを歴々まざまざと見せつけられる結果に終わった。


 

 この戦いのどちらかと言えば勝者と目されている南武刑部大輔は?と言えば、外見上は兎も角、内心は非常に穏やかでは無かった。


 この一連の戦いにおいて、南武刑部大輔がした事は、と言えば、ただ尻拭しりぬぐいをしただけだ。

 最終的に戸田方を全て押し返し、所領を全て取り戻しはしたが、それ以上のものでは無かった。

 新しく得たものは何もない。


 木花集落を始めとする周辺諸村の戸田方の濫妨狼藉らんぼうろうぜきの被害は目をおおいたくなる程の物で、その復興には多大な資金と資材と人力を要した。

 また、その心を繋ぎ止める事には成功したとは言え、掠奪を防げなかった事には違いがなく、しばらくの間、この周辺の村々の年貢・公事の収取には多大な配慮をいられた。


 そして、最も深刻な被害は、といえば、後継者として予定していた嫡男、南部甲斐の愚行の数々と、それによる諸将の心が南部甲斐から離れた事だった。

 刑部大輔の南部甲斐への断固たる行動によって、表面上、諸将の心を南武家に留めることには成功した。しかし、それは「南武家に」であって、「南武甲斐に」ではない。


 南武甲斐の南武家中における扱いは目に見えて悪くなった。「廃嫡を」という声が公然と聞かれ、それを静止する声も少ない。無理もない、と刑部大輔自身、認めざるを得ない。

 しかし、南部甲斐を除いては他の子供達はいまだ幼く、海の物とも山の物とも言えなかった。

 権力の継承を考えれば、ここで南武甲斐を廃嫡する訳にはいかなかったのである。

 

 未だ壮年、四十前半の南武刑部大輔の目の黒いうちは問題ないが、この戦いは南武家中の十年後、廿年後にじゅうねんごに深刻な被害をもたらした。


 南武刑部大輔は考える。

 頼りない南武甲斐を支える為には、しっかりとした機構が必要だ。

 例えば、國を治める機構のような。

 あれは國主が明君とは限らない場合でも最低限、破綻しない様に出来ている。

 しかし、形だけ真似をした歴史も無い機構ソレに、家臣たちは付き合ってくれるだろうか?

 南武刑部大輔の悩みは尽きなかった。



 庚戌かのえいぬ二年長月に行われた南武・戸田の合戦に比べれば、丙寅ひのえとら三年神無月かんなづきに行われた秋祭・村戦の演習についての歴史的意義など無いに等しい。

 村人にとってどんなに特別な日であっても、それは日常には違いなく、どんな歴史書を探してもその日その村の事を記した書籍は存在しない。

 二倍の敵を破った御厨保みくりやのほの面々は大いに面目を施し、周辺の村々に語り継がれたが、それも三代の後には忘れ去られた。

 敗れた神楽保かぐらのほの与兵衛も暫時ざんじ面目を失っていたが、実はその形振なりふり構わない手段の選び方が乙名おとなたちには評判がよく、しばらくすれば日常の中に帰っていった。

 それぐらいの事である。


 だが、この日の出会いが無ければ、その後の歴史に少なからず影響があった。多くの人が知る人物が世に出る切掛きっかけがこの日生まれていたのである。



 そして、この両年の出来事の本当の意味は、人文的に文章に残せるものでは無かった。

 何人かの人物の内面で、それは起こっていたのである。



 その少年はいつか地獄へ行く。

 あるいはそれは避けられたのかも知れないし、その方が少年にとっても、周りの人々にとっても幸せだったのかも知れない。

 だが、その責任感のゆえか、はたまた託された思いの強さか、あるいは運命と呼ばれる何かだったのか、とにかく少年は自ら望んで地獄へと足を踏み入れた。


 …………後世の歴史家によれば、結果的に言えば、この決断が後の世に多大な影響をもたらした。

 もしこの決断がなければ、少年の名と少年の家とは後世に記憶されることはなかっただろう。

 そうであれば、彼の後継者たちが成した、いくつかの軍事的功績は後の世に現出するとしても、その出現までしばらくの時間を要した、とも言われている。


 ともあれ彼はそれを成した。

 ……少年の名が後々の世までに悪名として語り継がれることと引き換えに。



 

 前日譚ぜんじつたん 小春日和前こはるびよりのまえ おわんぬ


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◉用語解説

*1【憤怒形ふんぬぎょう

 仏像のうち明王みょうおうの顔に代表される相。不動明王の顔が典型。悪を降伏こうぶくし、威圧する為の相。その恐ろしい顔には人々を救いたいという願いが隠されています。


*2【床几】

 中世の折りたたみ椅子。今でも見かけます。


*3【城の番方】

 その城を防備する防備兵。城の在番衆。


*4【萱場かやば

 屋根をく材料のかやを採取したり、肥料の材料にしたり、牛馬の秣(まぐさ)を取る為の草場。商品作物を生産する場としても重要でした。入会山と同じく入会地(共同管理地)になっている事が多くありました。

 中世に始まった肥料(下肥・厨肥など)を作るのに、柴草は欠かせない材料で、萱場や入会山の良し悪しがその村の農業生産力を大きく左右しました。


*5【川芎センキュウ】

 血の道症に良く適するとされている今日でも使われている生薬(漢方薬の原料)。

 セリ科センキュウの根茎を湯通しし、乾燥させたもの。

 但し、現代でも使われるセンキュウは中国四川省原産とされ日本には自生せず、日本に輸入・栽培される様になったのは江戸時代寛永年間以降とされています。

 その為、それ以前の日本では、日本に自生していたシラネセンキュウ、オオバセンキュウが代用に用いられていました。

 同じセリ科でもハマゼリ属のセンキュウとは異なり、シシウド属の両植物は現代では薬草として用いられていませんが、同じ様な香りがある為、当時は薬効があると信じられていました。

 薬効が実際あるのかどうかは、調べたサイトによって書かれていた事が違うので、門外漢の私には分かりませんでした。

 本作での川芎はこのうちシラネセンキュウの事を指します。別名スズカゼリ。

【主な参考サイト】

公益社団法人日本薬学会さま

        「今月の薬草」センキュウ


*6【卒去しゅっきょ

 “そっきょ”とも読む。律令制で四位・五位にある人、または一般的に地位の高い人が亡くなる事を言います。



 お読みいただきありがとうございます。もしよろしければ、感想、フォロー、評価お願いします。


次は以前書いた一章の続き、『断章 名残の折』を挟んで、二章の予定。

なるべく急ぎたいですが、山の様な資料に埋もれる毎日です。


素人が作った話ですが、もしよろしければお楽しみ下さい。

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