一章 棟梁襲名 五、寄合Ⅰ

◉登場人物、時刻

????    主人公。今回も出番なし。


大堂辻前大隅  豪農。乙名衆。若衆のリーダー的

        存在。軍役二鑓。


入間田図書   若衆の副長的存在。免田伍貫。

(伊藤東)   一鑓。冷静沈着。


工藤右衛門助  在郷被官。荒い性格。免田二貫。

        一鑓。


志賀間舎人   在郷被官。筋目を大切にする。

        免田三貫。一鑓。


本舘木工    在郷被官。流され易い。

(伊藤北)   免田八貫。二鑓。


古舘大炊允   在郷被官。計算高く、打算的。

(伊藤南)   免田伍貫。一鑓。


田中玄蕃    有性百姓。非軍役衆。古老格で

        物知り、尊重される。

        村の政所を務める。


太子堂市佑   非軍役衆。本舘木工の弟。分捕り

(伊藤西)   の利は主張するが戦を忌避。


須藤權兵衞   非軍役衆。市佑の腰巾着。

        勧農に一過言持つ。


山本大常丞   非軍役衆。村社を経営。寄合と

        距離がある。


小林与兵衛   非軍役衆。乙名衆の新参。



卯正の刻    午前6時〜7時

未初の刻    午後1時〜2時


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一章 棟梁襲名 五、寄合Ⅰ


丁卯ていう四年正月廿五にじゅうご日 卯正うせいの刻 大堂辻前おおどうのつじのまえ大隅おおすみ

 

 ガヤガヤと下人どもが出かけて行く。

 村では秋に稲を収穫した後、下肥げひ※を用い、麦や大豆を植え、育てている。後作あとさくは百姓衆の得分として、お構い無し※となっているので皆々、必死だ。

 今年一年、生き残れるか、がかかっている。

 

 一部の作業は家毎やごとで出来る事では無いので、惣内そううち持ち回りで行う。

 収穫まで後一歩という所だろうか。


 これで少しはえ人が減れば良いが……

 今年は歳神としがみさま、天神さまに対し奉り、例年より盛大にえ※を成した故、大丈夫だとは思うが……


 

 高祖父ひいひいじいさまの時代にはこれ程、物成ものなり※は悪く無かったらしい。勿論もちろん、打ち続く兵革へいがく※で大変な時代ではあったらしいが……

 ところが曽祖父ひいじいさまの頃より夏が寒くなり、長雨が打ち続き、稲が立ち枯れたり、育ち切る前に冬を迎えてしまい、物成りが例年不足する事態になったらしい。


 それ以来、寒き夏、長雨が打ち続き、そうで無い年は旱魃かんばつ※が起こり、春から初夏にかけて餓死者が例年、数多あまた出て、野にも山にも死人しびとむくろうずたかく積み上げられ、村々は人手を失い、更に困窮する事態におちいっている。


 今年もや、そう成りそうな気運がある…………


 今、考えても致し方無い。今日は未初ひつじしょの刻より寄合がある。それまでに弓やりの修練、道具の手当て、村の庶務を片さねば……。



丁卯四年正月廿五日 未初の刻 大堂辻前大隅


 寄合が始まった。集まった者共は十一人。

 寄合に参加資格のある者を乙名おとなと言い、これは入札いれふだ※によって選ばれる。

 今は乱世の世であるので、この村では乙名衆の内、六人までは軍役の者から選ばれる事になっている。それらの者は軍役を務める関係上、長老層である乙名衆でも半数は乙名というには若い年齢層である。


 しかしこの乱世にあって、惣内そううちまとめられる実力を持つ者は少ない。

 軍役衆の内「本館」「古舘」「入間田」そして「大堂辻前」が選ばれるのは常の事で、新たに選ばれたのは「工藤」「志賀間」の二人に過ぎず、軍役を務めない乙名衆の中でも「田中」「太子堂」「山本」は常に選ばれており、新たに選ばれたのは「須藤」「小林」の二人だけである。

 この内「本舘」「古舘」「入間田」「太子堂」は本姓「伊藤」の同族で、それぞれ「伊藤北」「伊藤南」「伊藤東」「伊藤西」を名乗りとしている。これらの家は前の当主が亡くなれば、次の当主が選ばれる事が多い。



 「正月四日の挨拶回あいさつまわりで町方の製糸場で聞いた話だが、“今年の絹の需要も高そうだ”との事だ。春蚕はるご※の時期まで凡そ三月。そろそろ桑の群生の目星を付けておいてくれ。また、昨今は天候に恵まれておるが、雨天のからむしの布織※はかえって遅れておる。こちらも頑張ってくれ。次回の納入は来月十日を予定しておる。各屋、割り当て分を当日九つの鐘までに倉に持参してくれ」

 太子堂たいしどう伊藤西市佑いちのじょうからの報告。

 太子堂は町方の衆への顔が広く、町方との折衝を担当する事が多い。元は本舘伊藤北家の次男であったが、断絶していた太子堂伊藤西の家を再興し、独立した。



「今年の裏作は豆も麦も良さそうです。去年より物成ものなりは期待出来まする」

 須藤すどう權兵衞ごんべえからの報告。

 權兵衞は本舘伊藤北家の元下人でお納戸方※を務めていたが、才気煥発※を買われ、太子堂市佑が断絶していた伊藤西の名を継いで独立した際、本舘木工と太子堂市佑の間を取り持ち、その功績で有性百姓へと成り上がり、太子堂、本舘両家の後押しで乙名衆に選ばれた。

 独立の頃よりどちらかと言えば、太子堂方の立場を代弁する事が多く、担当が近い事もあり、太子堂派閥と見られる事が多い。

 御領主さまとの勧農交渉※を担当することが多い。



「太子堂どのと付き合って、新年のご挨拶周りに同道致しました。“肥”の衆※の得意先を周りましたが、今年も問題無く付き合って頂けます」

 入間田いるまだ伊藤東図書ずしょ。軍役衆。

 乙名衆の中の最年少で今年ようやさんじゅうの歳となった。若さに似合わず冷静沈着で、一見、地味だが村内の事も戦の事も大事だいじを任せるに足る、と見ている。



「道、畦、灌漑かんがい水路の点検をさせたが、村内、里山、ともに特に補修せねばならん所はない」

 本舘ほんだて伊藤北木工もく。軍役衆。

 村内最大勢力の伊藤家の同名中の現当主。徳人としての鷹揚おうようさ※を持つ人物。



雨鳴うなりとの入会いりあい※の戦が手打ちになって以来、特に目立った動きは無いが、どこの村も物成りは良くないようじゃ。萱場かやば※、入会の見張りをしっかりと頼む。クミの村※に関しては長沢、青柳ともに問題無い」

 田中玄蕃げんばどの。

 村の最長老。交渉事から農事、内職など様々な分野で頼りにされる物知り。村の政所まんどころ※を務める。他村からも相談を受ける頼りになる御仁だが、最近、体調が思わしく無い。



「御領主さまからは別段変わった事は無い。いつもの様に今年も段銭※、懸銭※、年貢など怠り無く納める様にとの御達しであった。ただし戸田館の末代請切まつだいうけきりの持ち場※が、この間の大風で少し傷んでいる為、今季の担当の者は後で寄合を持ちたい」

 我からも寄合衆に御領主さまからの御下命を通達する。特筆する事はなかったので、誰からも質問は出なかった。

 


「…………今年の物成りは例年に比ぶれば、まだましと言うもの。あれば、餓え人も少しはましになろうかのぅ……」

 ……誰とも無くつぶやき声がもれる。

 場が静まり返る。その祈りの声の主にも、場の全ての人々にも、それが叶わぬ願いだと、分かっていた。


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◉用語解説

【下肥、厨肥、蚕沙】

 下肥げひは人糞尿に山から刈ってきた柴草を混ぜ、発酵させた物。

 ここでは出てこなかったが作中の村で表作に使う肥料が厨肥くりやひ蚕沙さんさ。厨肥は牛馬の寝茅や糞をまとめて、発酵させた物。蚕沙はカイコの食べ残しや糞、絹を取った後のカイコの死骸を発酵させたもの。全て金の余りかからない有機肥料。

 優れた効果があったが江戸末期には人口増加に伴い、耕作地が広がり柴草を刈る入会地が減少した為に、干鰯ほしか(魚油を取った後のイワシのガラを乾燥させた物)、油粕あぶらかす(菜種油・胡麻油などを搾った後のかす)の「金肥きんぴ」(有料肥料)に取って変わられました。


【後作は百姓衆の得分として、お構い無し】

 中世には各種肥料が発達した結果、二期作(米を二度作る。暖かい地域のみ)と二毛作(米と別の作物を作る)が浸透していきました。

 これらの内、後に作る作物(後作、裏作)は原則、年貢の対象外となっていました。


【饗え】

 “あえ”と読む。この場合の意味は田の神に豊作を祈念して饗応したり、田楽、草競馬などの神事を行う事。予祝祭。春祭りの起源。

 本来、如月に行うものを後段の事情で前倒しした物と見られる。


【物成り】

 ここでは収穫量のこと。


【兵革】

 戦乱の事。


【旱魃】

 日照りの事。雨が極端に降らない状況によって作物が育たない事。


【入札】

 選挙のこと。


【春蚕】

 四月から六月に育てる蚕。七月に育てる蚕を「夏蚕」と言い、以下「秋蚕(八月)」「晩秋蚕(九月から十月)」と続きます。


【苧の布織】

 麻布作り。戦国期では上杉謙信も奨励した越後府中の青苧座の麻布(現代に“越後上布”として伝わる)が有名。


【お納戸方】

 本来の納戸方は大名や徳川将軍の身の回りの世話や衣類の管理をする役職ですが、ここでは家の収入を管理する役職、の意味。


【才気煥発】

 頭の働きが速く優れている事。


【勧農】

 中国古典の『勧課農桑』の略語であり、新田開発、灌漑など様々な意味を含む総合的な“農業政策”の意味ですが、この場合の勧農は「春に植えるための種籾たねもみ、また耕作期の間をしのぐ食物を買う為の領主に対する借金」の交渉の意味です。

 戦国期には打ち続く飢饉のせいで、毎年の様に「生きる為の借金」が増えており、これらを帳消しにする『徳政』を求める為、たびたび一揆、村ごとの逃散(サボタージュ)が起こりました。


【肥の衆】

 当時の主な肥料の一つ『下肥』は前述の通り、人糞尿を原料としていました。村から排出されるそれでは到底足りず、当時の惣村は町方などの「非農業人口密集地」からそれらを汲み取り、頂いていました。

 ここで言う『肥の衆』とは、これらを集積する町方の窓口(地域責任者)の事を指します。


【徳人としての鷹揚さ】

 徳人は金持ちの意味。鷹揚さは小事にこだわらずおおらかな様。


入会いりあい(山)】

 薪や野草を取る為の里山。村民が共同管理し、使用する入会山いりあいやまとされました。村ごとに縄張りを決め、境界に特徴的な岩を置いたり棒を立てたりしましたが、縄張り争いが絶えずしばしば村同士で相論や村戦に発展しました。


萱場かやば

 屋根をく材料のかやを採取したり、肥料の材料にしたり、牛馬の秣(まぐさ)を取る為の草場。商品作物を生産する場としても重要でした。入会山と同じく入会地(共同管理地)になっている事が多くありました。


【クミの村】

 戦国期の村は他村との相論、村戦や領主やその領主に敵対する勢力からの略奪など、常に危険と隣り合わせでした。

 その為、村々でクミ(盟約、同盟)を結び、所属している一つの村が危機に陥ると他の村が援軍を出しました。これを断るとクミを強制除名される為、合力を断る事は出来ません(孤立しては直ぐに周りから略奪され、生き残れない)。

 惣村にとっての安全保障の基本で、規模が大きいものに、たとえば『山城国一揆』があります。


【村の政所】

 村長のこと。


【段銭】

 田の広さにかかる物品税。「田畠一反あたり何文」と言う形でかかる。国役の一種。


【懸銭】

 この場合は、大名家に納める国役(臨時税、ただしほぼ常態化)のうち、畠を対象に課税されるものを言います。


末代請切まつだいうけきりの持ち場】

 当時、大名の城や武士の居館の防備施設であるへいの整備はその支配下にある惣村に範囲を指定されて割り振られていました。

 大名の城などが天災などで壊れたら、その壊れた範囲を指定された惣村が材料を用意して修復しました。

 その代わり、その材料・労役分はその都度つど、村の年貢(税)から免除されました。

 それだけ聞くと労役(労働力を提供する中世の税の一種)の様に見えますが、大名や領主の城は戦役の際、百姓衆の避難所になっていたので、自分達の避難所を大名・領主の金を使って、自分たちで整備していた、とも言えます(現在までに見つかった資料全てで、この“末代請切”で百姓衆に指定されている範囲が、本丸以外の“中城”と呼ばれる百姓たちの避難所の塀に限られている様です)。

 これを末代請切と言います。


【2024年5月7日】末代請切の項目に関して、誤った理解をしていた事に気づいた為、修正しました。


 今回もお読み頂き有難うございます。

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