【改訂・注釈】足軽・農兵・被官衆・地侍について(「足軽・農兵・在郷被官・地侍について」改訂)
この「注釈」について、私の認識が誤っている事に気付きましたので、改訂版を出します。
【誤認箇所と理由】
甲斐武田家の郷士制である「軍役衆」を全国的な現象と誤認し、誤った結論を書いていました。
ただ、話は主要キャラクターの設定に関わる事であり、変更できないので、「『軍役衆』という郷士制のある国」としてそのままにします。よろしくお願いいたします。
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この話は架空戦記ですが、なるべく現実の歴史研究を準拠しています。
ただし、私自身が歴史研究をやった事が無く、本に書かれている事、ネットで調べた物を読んで、まとめているだけに過ぎないので誤っている可能性は多々あり得ます。
あくまでこの「作品世界」の設定と考えていただければ幸いです。
長い文ですし、ご面倒であれば読み飛ばして頂いて結構です。
この話が少し特殊で今までの「常識」からすると少し違和感があると思い、一応、致命的な物のみ書いています。
「ん?おかしいな」「どう言う事?」と思った時に読んで頂ければ、有り難いです。
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【改訂・注釈】足軽・農兵・被官衆・地侍について
我々が足軽(と考えている者)は武士が支配する村落の百姓を「徴兵して(無理矢理)戦場に連れて行った者」と言うイメージがあります。
しかし、これには幾つかの誤りがある事が歴史学研究の進展で指摘されています。
歴史学の研究初期には半農半士の
それどころか、その人が戦で死ねば耕すべき
その為、各地の戦国大名は
例として武田氏軍法では「知行持ちの家臣が武勇のある者を除いて一般の農民、職人、神官などを連れて参陣してはならない」(武田家印判状〈「本間美術館所蔵文書」 戦武 一四六 一〉一、知行役之被官之内、或者有徳之輩、或者武勇之人を除て、軍役之補として 百姓・職人・禰宜、又者幼弱之族召連参陣、偏二謀逆之基不可過之事、)とあります。
また、北条五代記※、巻六「百姓けなげにはたらく事」の中で、佐竹側の侍首を討ちとった百姓二人に北条氏政が「侍の
もし、百姓衆が戦争に参加する事が常で有れば、いくら訓練をしていないと言っても百姓が侍の首を取る事が「珍事」と言う程、珍しい出来事である訳が有りません。
つまり、普通の百姓が戦闘行為に参加するのは「珍事」であった、と言う事になります(実際に軍法の規定では百姓は“
奇襲・夜襲を受け、村自体が戦場になった時、又、大名家そのものが滅亡しかかっている時など緊急時以外に普通の百姓が戦闘員として参加する事は有りませんでした(実際、先述の後北条氏も武田信玄との戦役時や秀吉の小田原征伐に百姓衆を動員した節がある)。
では実際に戦争に参加した“兵”はどのような人々だったのでしょうか?
順を追って記して見たいと思います。
○足軽
足軽は
戦乱・飢饉など社会が混乱すると発生し、普段は混乱に乗じて「
野盗・野伏(盗賊)ではありますが、普段は村に住んでいる者が多くいました。深刻な飢饉におちいると惣村は近隣の村を掠奪してでも存続をはかる必要があるため、村戦の実戦力として、または飢饉の時に近隣の村々から食料を盗ませるために惣村にかくまわれていたりしました。当時の戦国大名から村へ「村に盗賊を隠れ住まわせることのないように」という命令が何度も何度も出ていたりします(つまり守られていなかった)。
一説には平安時代、検非違使の雑用役が起源とされ、本格化したのは応仁の乱以後ですが、南北朝時代のころから一般化しており、戦国期には略奪・放火など『汚れ仕事』の実行者として、また即応出来る(武士は警備の者以外、領地からの参集を待つ必要がある)使い勝手の良い兵力として、又は
それに従い足軽の地位が高まっていき、始めは戦時の臨時雇いだった物から常時雇いに代わって行くなど、社会的地位が向上していき、中には例えば羽柴秀吉の様に侍、大名へと出世する者も現れました。
○武家奉公人
武士ではないが、末端の兵として戦争に加わった彼らは「
これらの人々を武家奉公人と言います。
つまり生活が困窮し、村から逃げざるを得なくなった逃散農民は『窮屈な思いをするが、曲がりなりとも生活は安定している武士の家の下人(武家奉公人・武家の奴隷)』になるか『盗賊まがいで生活が不安定だが自由な足軽(傭兵・盗賊)』になるか、という選択をしていた事になります。
普段は家に属する召使いとして雑用や主人の
因みに戦国末期になるに従い一人の主人の謂わば持ち物として所有される形から、一年限りの年季勤めになっていきます。
○
この当時、村人も自衛しなければならなかった為、武装をしており、村の権益(入会地や水利権)を巡り他の村と戦をしていました。
それらを主導した人々はどう言う人だったかと言うと
・元々、農民身分の者で
(様々な事情により帰農した武士層も含む)
・
・下人(奴隷)を多数持つ「家父長的奴隷主」で
自らの
得る者。
・よって時間の自由が効き「弓やり(槍)以下
道具したく尤候」と侍としてのたしなみ
(訓練)を求められた者。
となります。これらの人々は
これらの人々は大名同士の戦には加わらず、村の防衛力としてのみ存在していました。
それまでの地域を支配する権力は荘官・地頭や郡司など公的身分を持つ者しか居らず、その支配も中央の地方統治の仕組みをそのまま流用して、それを自らの権力の源泉として利用していました。
しかし、地侍と呼ばれる身分は日本史上初めてそれら公的な身分とは関係のない所から発生したため(後に公的身分を手に入れることはあり得る)、地域の支配ではなく指導という形になっていることが多くあります。
これらの身分は惣村・惣荘などの発生と密接な関わりを持ちました。惣村が地域権力として成立する過程でそれを守る防衛力として必要とされたため、発達した側面が大きいと言えます。
彼らは純粋な耕作者では無く、百姓身分とは言えその生活は下級武士のそれと変わる事が無かったのですが、在住する惣村の指導者になっている事が多く、その惣村の存続に重大な役割と責任を持っていました。
これらの人々は原則、大名家に納税以外の義務を持ちませんが、前述のように大名家に存亡の危機が迫ってくると戦に駆り出されました(『御国の論理』)。
期間(二十日など)と手柄を立てた際の恩賞(財物、米など)を約束され、仕事も前線での戦闘ではなく、後方の城塞防備や敵への通路遮断に限定されましたが、この仕事は不人気で人が集まらなかったようで、短期間に繰り返し出され、内容も不参加の場合の罰則付きのものに変わっていきます。
一因として藤木久志先生は中世日本の社会通念として“戦う職の武士”と“戦わず年貢を納める職の百姓”という『中世的兵農分離』とも呼ぶべき身分別の役割分担意識が武士、百姓問わず人々の心の中にあった、としています。
原則として『百姓は戦に出るものではない』という意識が兵農分離が制度化される前から存在した、という事になります。
ただし一部の大名家ではこれらの人々を雇い、軍勢に加える事がありました(いわゆる郷士制のある国)。
国によって呼び名は様々で「
これらの人々は知行地を与えられた訳ではなく、あくまで農民でしたが、全耕作地、もしくは耕作地の内の一部の「年貢・公事(税金)」を免除され、その代わりにその広さにより
また、彼らのほとんどは知行地を与えられ武士になる事を望み、また実際に様々な手柄を立て、武士として取り立てられる者も現れました(例として武田四天王の一人、春日虎綱〈高坂弾正〉は地侍の家の生まれと言われています)。
因みに彼らは「太閤検地」「刀狩令」などの諸政策で存在そのものを(惣村制・國人衆などと共に)否定され、織豊末期から江戸時代にかけて、武士層の末端にくいこむ者と
◉まとめ
戦国時代の軍隊は武士と武士に直接雇われた『武家奉公人(下人・所従)』を中心に、それを補うフリーランスの『足軽(傭兵)』とで構成され、一部の国で百姓身分の地侍を『郷士』として雇い、それらの人々で軍隊を構成していました。
武士や武家奉公人、足軽(野盗)が村に住み、副業として農業をすることはあっても、専業百姓が軍兵として戦に出ることは原則としてなく、
武士・百姓ともに百姓身分の者の戦闘参加には強い
ただ、戦闘訓練を受けていない普通の農民が戦闘員として参加する事は全く無かったのか?と言うと…………(次々話、後書きに続く)
【主な参考文献】
◉藤木久志氏「戦国の村を行く」朝日新書
(1997、2021)
それまで無かった「村人から見た戦国時代」と言う観点を生み出し、一つの転換点を作った歴史研究の名著「村シリーズ」の一冊。
様々な研究者の著作の中でも言及されることの多い影響力の大きいシリーズです。
◉西股総生氏「戦国の軍隊」角川ソフィア文庫
(2017)
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも中世軍事考証をされている西股総生先生の一冊。初心者の私でも非常に読みやすい、分かりやすい本です。
◉水本邦彦氏「村〜百姓達の近世」岩波新書
(2015)
中世から近世(豊臣政権から江戸時代)にかけての村の情景、収入、仕事のやり方、村掟、支配者との関係、年中行事、村人の価値観などが分かります。とても興味深い本です。
◉黒田基樹氏「戦国大名の危機管理」
角川ソフィア文庫(2005、2017)
「戦国大名の危機管理」とありますが、軍事的な事は余り出てきません。それがこの当時の「危機管理」の本質をよく表しています。
この本は情報量が多く、初心者の私には読むのが大変でしたが、とても様々な情報を知ることができました。平山優先生の「戦国大名と國衆」と共にこの物語のベースとなった一冊です。
◉平井上総氏「兵農分離はあったのか」
平凡社(2017)
世の中に蔓延していたイメージとしての『兵農分離』、今まで定説となっていた諸政策としての『兵農分離』を共にくつがえす一冊。
結論は初心者の私には判断がつきませんが、その根拠となった事実の説明が丁寧で「なるほど!」と思わせられる説得力がありました。
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◉用語解説
【北条五代記】
江戸時代初期、寛永年間に書かれたとされる後北条氏の話題を元に作成された軍記物語。五代記、とありますが氏康以降の事績が中心。
作者の三浦浄心は後北条氏旧臣で実際に小田原征伐に籠城方として参戦した経歴があります。
【
(詳しくは前日譚【注釈】百姓・村「中世の百姓はどういう存在だったのか」をご覧下さい)
当時、戦国期の日本では朝廷も幕府も全国に裁判権・警察権を及ぼせる力が無く、農村などの末端に届く警察組織も裁判組織も有りませんでした。
よって、農村は自分たちの身を自分たちで守らねばならず、窃盗、殺人などに対する刑の執行も自分たちで行わなければなりませんでした。
これを『自検断』と言います。
また、当時は『
それらを農村内で行う自治組織を惣、惣村と呼びました。
惣村は「
話内でもあった様に豊臣秀吉は戦国の世が終わった事を示す為に、民衆の保護を約束し、村同士の相論(対立)を武力では無く、豊臣家と豊臣大名家の裁判により解決する事を約束して、代わりに惣村、地侍、國人衆などの解体を進めました。
これが「太閤検地(重層的な土地支配体制の解体)」「刀狩令(自衛の為の武力保持の否定、武装解除、兵農分離。ただし様々な理由〈神事、狩りなど〉で徹底されず)」として現れます。
【全耕作地、もしくは耕作地の内の一部の「年貢・公事(税金)」を免除され、その代わりにその広さにより
大名に仕える武士身分の者は大名から与えられる知行地の広さにより、軍役(戦争参加義務)を課せられました。地侍は武士身分ではなく、百姓身分に当たるので、免税特権の代わりに軍役を課されたという事です。知行地を与える事は武士に対してしか行われませんでした。
今回もお読み頂き有難うございます
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